布施祐仁『ルポ イチエフ』

b0138838_21154787.jpg 以前、このブログで堀江邦夫の『原発労働記』について論じたことがある。原子力発電所で日常的に繰り返される下請け労働者の被曝に関するルポルタージュであった。通常の運転を続けている原子力発電所でさえ、あれほどの過酷な労働状況であったから、レヴェル7という史上最悪の事故を起こした原子力発電所の「収束作業」はいかに進められているのか。本書は事故直後から現地に入り、「収束作業」の実情を作業員たちの目線で記録した報告である。「イチエフ」とは事故を起こした福島第一原子力発電所に対する作業員たちの呼称だ。最初に東日本大震災直後、死を覚悟して進められた事故対応の生々しい情景が記され、続いて第二章で作業現場から休憩所、宿舎にいたる作業員たちの生活全般に目を配りながら事故から4ヶ月後の時点における「収束作業」の現実が記述される。ある意味で現在の日本をかろうじて支えている労働者たちを取り巻く環境のあまりの劣悪さには息を呑む思いだ。第三章と第四章ではこのような環境を作り出す構造的な要因が明らかにされる。すなわち多重下請けによる中間搾取、ピンハネの問題、そして東京電力を頂点としてピラミッド状に広がる労働者間のヒエラルキー構造の問題である。さらに最終章では実際に作業中に亡くなった労働者をめぐる補償の問題が扱われる。
 プロローグの最後に次のような注記がある。「なお、原発作業員の大半は日給制の月払いの非正規雇用であり、非常に不安定な弱い立場にある。私の取材を受けたことで、彼らが失職したり、仕事上の不都合を受けたりすることのないよう、とくに断りのない場合以外は原則としてすべて仮名としている」福島第一原子力発電所の「収束作業」の歪みは既にこの注記の中に明らかだ。作業員はこの作業に関して実名で真実を語ることができないのである。それにしても文字通り自分たちの命を削って、汚染された原子力発電所の解体という前例のない作業に取り組む人々に対してもう少しまともな待遇ができないのだろうか。本文中に自分たちの衣服や作業着を洗うために数少ないコインランドリーの前で長時間待たされる作業員たちの姿が描かれているが、筆者も述べるとおり、作業員の数や負担を考慮するならば、無料で使用可能な大規模なランドリー施設くらいすぐにも設置可能であるように思われるのだが。あるいは多くの外資系企業で取り入れられている無料の社員食堂のようなシステムがあってもよいのではないか。おそらくここには原子力発電特有の、作業員を使い捨てと考え、人を人と見ない非人間的な論理が働いている。
 今日ではブログやツイッターというメディアが存在するから私たちは、作業に従事する人たちの声を直接に知ることができる。あるいは先日も線量計を遮蔽するように下請け作業員たちに指示したという事例がスクープされていたように、新聞や雑誌の記事をとおして「収束作業」の進行についておおよその知識を得ることもできる。この「事故」が現在も「収束」から程遠い、つまり今なお崩壊した原子炉からは放射性物質が撒き散らされていることを含めて、私たちは廃炉の目処さえ立っていない困難な事業の全貌を漠然と知っているし、このルポを読んでも関係者による秘密の暴露のごとき新たな知見は得られない。それは現地で進められている作業が、比較を絶するほど困難とはいえ、これまでも何十年も続けられてきた原子力発電所のメンテナンスという不正義の延長に過ぎないからかもしれない。下請けと被曝の闇はこれまでとなんら変わることはないし、本書の中で幾度となく繰り返される「使い捨て」という言葉も『原発労働記』の中で何度繰り返されただろうか。その一方で、本書を読んであらためて思い至ったことも多い。例えば以前より私は通常のメンテナンスに比べて圧倒的な線量を「食う」、事故処理の作業員たちをどこからリクルートするのか疑問に思っていたが、本書を読んでこの謎は氷解した。つまり平時にあっても点検等のメンテナンスのために大量の作業員が各地の原子力発電所で働いていた。今、ほとんどの原子力発電所が稼働していない状況で、それらの人は職を失っている。原子力発電所での勤務の経験をもつ彼らは事故処理にあたっても有能で手っ取り早い代替要員なのである。彼らは平時にあっても戦時にあっても「使い捨て」だ。作業員たちの宿舎の前に停められた車のナンバーが青森、長岡、福井、島根といった原子力発電所の立地地域のそれであるという一見何気ない指摘からはこのような背景がうかがえるとともに、基幹産業をもたない「地方」が原子力発電所という非人間的なシステムに既に絡め取られていることを暗示している。それにしても今後数十年単位と予想される廃炉に向けて十分な人員が集められるとは思えない。このため、現場での線量管理がきわめて杜撰になっていることについても本書の中で詳しい言及がある。複雑な下請け関係によって責任の所在が明確とならず、特に経験の浅い作業員は線量管理のための規則を守らない。そもそも1シーベルト以上の放射線をはらんだ瓦礫、殺人スポットが不規則に点在するような敷地での作業は果たして労働管理という点で許されるのであろうか。しかし目に見えることなく、被害がすぐに発現することもない「低」線量被爆のリスクは事業者の責任をも不可視化する。規定の線量を被曝した東京電力の社員や作業員は被曝線量の少ない部署へと交代する。このような交代が円滑に進んでいるかは大いに疑問であるが、事故現場の高い線量のため、作業員たちはごく短い時間しか作業に従事できない。通常の原子力発電所のメンテナンスに関しても同様であるが、私は労働とは正当な対価によって贖われるべきだと信じる。原子力発電所内の作業が危険であることはいうまでもないが、この危険性ゆえに作業員たちはごく短い時間の作業であるにもかかわらず異常に高額の賃金を得る。むろんそれはピンハネされた命の対価であるが、このようにして得た文字通りあぶく銭のような報酬を多くの作業員は「ストレス発散で全部使っちゃいましたね」と言う。「労働時間が短いので仕事は楽でした。でもあそこで働いても、あとには何も残らないですね。その時のお金だけで、何か技術が身につくわけでもないし、将来病気になっても何か保証があるわけじゃないですからね」。『原発労働記』の中でも触れられていた退廃、命を削る労働の対価がパチンコや飲酒にひたすら浪費されていく現実は福島でも正確に再現されている。今引いた言葉の最後に触れられているとおり、今後、きわめて高い確率で作業員そしておそらくは近隣の住民にも放射能による健康被害が発生するだろう。しかし東京電力そして国家がその事実を死に物狂いで隠蔽しようとすることは火を見るよりも明らかだ。
 このルポの中で私が興味深く読んだのは、作業員たちの宿舎がある湯本という温泉地が歴史的に炭鉱と深い関係にあり、かねてから首都圏へのエネルギーの供給地であったという指摘、そして炭鉱労働と原子力発電所での労働の比較である。常盤炭鉱には「一山一家」という伝統があり、炭鉱労働者間には濃密な人間関係があった。今、「収束作業」にあたる作業員たちも多くが地元出身であり、彼らがあえて危険な作業に従事する理由は故郷を守りたいという強い意識にあるだろう。実際にイチエフでの作業に強い「絆」を感じたとインタビューで語る作業員も存在する。普通の現場ではバラバラに仕事をする作業員たちが、イチエフでは早く作業を終えるために協力している。自分たちは危険手当のためではなく、ここに早く住民が戻れるように作業を続けているのだと彼らは自負を語る。しかし一方で原子力発電所の作業とは「絆とは真逆」と語る労働者たちもいる。両者の違いは何か。布施は端的に危険手当の支払いの有無、つまり原発労働ヒエラルキーの位階の違いであると述べる。身も蓋もない指摘であるが、本書のなかで繰り返して示される労働者間の差別構造を考慮する時、正確な指摘であろう。かつて炭鉱が閉山した後も、炭鉱会社は社員たちの再就職先の確保を優先し(その一つが「フラガール」で知られた常盤ハワイアンセンターだ)、「一山一家」の気風を示したのに対して、彼らの再就職先の一つとなった原子力発電所は複雑な下請け構造によって労働者を分断し、労働者の協同を不可能にした。いうまでもない、それは非正規雇用の拡大によって労働者の連帯と権利意識を奪い、「自己責任」(この言葉が作業現場でしばしば使用されることについても本書中に言及がある)の名のもとに労働者の当然の権利であるセーフティーネットを破壊した「小泉改革」以来の日本社会の縮図であり、息苦しい今日の日本の原型である。
 エピローグで布施は「官邸前デモ」に対する作業員たちの違和感を記し、両者の距離について語る。この指摘は重い。人が人として遇された社会が破壊され、原子炉が崩壊した後も私たちはその「収束作業」を、人と人とが分断される非人間的なシステムに依存しながら進めている。しかし人々はこのような分断を断ち切るためにこそやむにやまれず官邸前に集ったのではないか。私は命を削って作業を続ける不可視の原発労働者と子供たちの世代を思ってシュプレヒコールをあげる可視化されたデモの参加者とをつなぐ回路を一刻も早く構築することが必要だと感じる。この問題に関しては誰もが当事者であるのだから。  
 奇しくも今日、疑いなく原子力発電所の再稼働を目指す勢力が総理官邸に入った。果たして私たちはこの国が、そして私たちの人間性が滅ぶ前に、これらの原子炉を廃炉とすることができるだろうか。

by gravity97 | 2012-12-26 21:20 | ノンフィクション | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


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