「アラブ・エクスプレス」

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 森美術館で開催中の「アラブ・エクスプレス」展を訪れる。「The Latest Art from Arab World」というサブタイトルの通り、アラブの最新の美術動向を紹介する展覧会だ。しかし「アラブ」とは何か。担当したキューレーター自身もカタログのテクストで述懐するとおり、私たちは「アラブ」美術に対してほとんど前提となる知識をもたない。カタログによれば本展覧会はいわゆる中東と呼ばれる地域のうち、エジプトからレバント(東部地中海)諸国、湾岸諸国を対象とし、民族、宗教が異なるトルコ、イラン、イスラエルなどは原則として除外されるという。このように言われても具体的なエリアをイメージすることは困難であろう。カタログに掲載された地図を参照してようやくおぼろげに私たちはその広がりを理解することができる。
 しかしながらこの地域に関して、文学や映画の領域では既に優れた表現が輩出していることを私はこのブログでも取り上げたガッサーン・カナファーニーの小説や岡真理のエッセー、あるいは四方田犬彦の『パレスチナ・ナウ』といった評論を通じて既に知っていた。当然、美術の分野でもそれらに類した表現が存在するだろうという予測はこの展覧会で十分に裏づけられた。これらの地域を旅したことがない私にとって、現代のアラブ社会について想像することは難しい。担当したキューレーターはこの地について「実際にアラブ地域を数回訪れると、これら(ステレオタイプなアラブ観)がまったくの偏見であったことを痛感した。(中略)むしろ、日本のテレビでは見たことがない、時に活気に満ち、時に穏やかな、生き生きとした日常生活がアラブ社会にもあり、非常に活発な現代美術シーンがあることを学んだ」と記している。しかし展覧会を一巡した感想としては、実際には多くの表現が安穏とした日常から大きくかけ離れている。例えば最初の部屋に展示されたエジプトのアマール・ケナーウィという女性作家の《羊たちの沈黙》という作品はカイロの路上で20人ほどの人々が群れをなして匍匐前進するパフォーマンスであり、会場ではその模様が映示されている。都市に唐突に介入する美術は前例がない訳ではない。日本ではハイレッド・センターやゼロ次元といった60年代の一連のパフォーマンスがあり、四足歩行という点では犬に扮したペーター・ヴァイベルをヴァリー・エクスポートがウィーンの市中を引き回すパフォーマンスも連想されよう。あるいはリレーショナル・アートと呼ぶのであろうか、最近ではサンチャゴ・シエラがトレイラーを用いてさらに暴力的にメキシコ・シティの交通に介入した例もある。しかし日本そして欧米で挙行されたこれらの作品はかろうじて美術という範疇に回収された。自分たちの営為が芸術か犯罪かという問いかけは赤瀬川原平の一連の作品の主題でもあったが、民主化以前、秘密警察が跳梁するエジプトにおけるパブリック・スペースへの侵犯は60年代の日本とは比べものにならない危険を秘めている。ケナーウィのパフォーマンスは当局によって途中で阻止され、作家は三日間拘束されたという。映像の中で、「これは国家の恥だ」と作家やパフォーマーに詰め寄る険しい表情の男たちからもこのような緊張はうかがえる。
 展覧会は「日々の生活と環境」、「『アラブ』というイメージ:外からの視線、内からの声」、「記憶と記録、歴史と未来」という三つのセクションから構成されている。それぞれアラブ世界の日常と関係のある作品、オリエンタリズムとして外から与えられた「アラブ像」とかかる「アラブ像」を鏡面的に内在化したアイデンティティーの分裂に関わる作品、そして出来事の記憶のアルカイヴとしての作品といった分類がなされているが、展示は必ずしも画然と分かたれる内容ではなく、むしろ多くの作品はこれらのテーマのいずれもと深く関わっているように思えた。象徴的な例として、パレスチナに生まれたシャリーフ・ワーキドという作家の《次回へ続く》という映像作品を挙げよう。画面には機関銃とアラビア文字がデザインされた緑の旗を背景にメッセージを読み上げる青年が映し出されている。かつてパレスチナに生まれたハニ・アブ・アサドという監督の「パラダイス・ナウ」というフィルムを見たことのある私は、この情景が「自爆テロ」を前に実行者が自らの信条を遺言としてヴィデオに収める様子を模していることが容易に推察された。日本では認識されにくいが、欧米で中東に関する報道に見慣れた者であれば、かかるイメージがイスラエルに対して次々と「自爆テロ」を敢行する匿名のアラブの青年たちに対応しており、机の上に置かれた機関銃がこのような理解を補強することは直ちに理解される。しかし実際にこの情景を演じているのはパレスチナで有名な俳優であり、彼が読み上げるのは犯行声明ではなく『千夜一夜物語』なのだ。つまりここには自爆テロが日常化されたアラブ世界をめぐる荒んだ環境、アラブ社会をテロリストの巣窟とみなす欧米の視線(これはサイードが『オリエンタリズム』において分析し、9・11以後、流布しているアラブの表象だ)、そしてアラブ世界の共同的記憶としての『千夜一夜物語』が混然と重ねられている。さらに『千夜一夜物語』とは語り部シェヘラザードが毎夜王の伽を務め、話が佳境に入ったところで次の夜に繰り越すことによって(ワーキドの作品のタイトルはこれに由来するだろう)娘たちを斬首される運命から救う物語であったことを想起するならば、この作品は禍々しい暴力のメタファーと遅延というモティーフ(自爆テロを敢行する若者たちもメッセージを読み上げる時点では生存している、つまり遅延とは彼らの生死と関わる、この点は「パラダイス・ナウ」でも主題とされていなかったか)がきわめて複雑に織り込まれ、「アラブの表象」に対する高い批評性を秘めている。
 私はこの展覧会をめぐって、アラブの人たちが直面する様々な暴力や圧制が時に生々しく、時にメタフォリカルに作品の中に現前する思いがした。例えばパレスチナ人居住区とエルサレムの間に設置された検問所での検問の情景を撮影したルラ・ハラワーニ、あるいはイスラエルによるレバノン侵攻の爆撃の模様を自宅から撮影したアクラム・ザアタリはそこに暮らす人々が常に緊張の中で生活しなければならないという事実を即物的に提示する。あるいはシリアに生まれたハラーイル・サルキシアンという作家は何の変哲もない中東の街頭の情景を写真として提示するが、「処刑広場」というタイトルを一瞥する時、私たちは戦慄を覚える。いうまでもない、それらの広場は公開処刑が行われた現場なのであり、現在もこの地で続く戦乱を想起する時、私たちはいたたまれない気持ちとなる。あるいはイラク人作家、ジャナーン・アル・アルーニはヨルダンを上空から空撮した《シャドウ・サイト》という作品を出品している。焦点が地表に近づくにつれて、初めは幾何学図形かと思われた線や起伏が道路や農地に姿を変える。解説にはこの作品は砂漠が空白ではなく、人びとの生活する場であることを示しているとあるが、私はこのような超高空からの視覚は端的にイラクを、アフガニスタンを空爆する兵士の視覚と同一ではないかと考える。スーザン・ソンタグの言葉を用いるならば「報復の恐れのない距離、高度の上空から殺戮を行う者たち」の視覚である。したがってこのような視覚は決して中立的ではない。地表との距離がきわめて政治的な含意をもつように、パレスチナ人のターレク・アル・グセインが緑の布を用いて地表に緑の線を引く時、それは大国の利害によって砂漠の中に引かれた国家の境界を象徴している。(グリーン・ラインとは国連決議によって決定されたパレスチナとイスラエルの境界線の呼称でもあるという)私はこの作品からすぐさまウォルター・デ・マリアがモハヴェ砂漠に引いた1マイルのドローイングを連想したが、アラブにおいて地面に線を引くことはランド・アートとは無縁の政治性をもちうるのである。この問題はドローイングの政治性という文脈においても検証されるべきであろう。あるいはマハ・ムスタファの喚起的な作品《ブラック・ファウンテン》はどうか。文字通り、黒い水が噴水のように噴き上がるきわめてシンプルなインスタレーションであり、油田や油井を連想させる暗示的なイメージは六本木ヒルズの窓越しに東京の市街を黒く染める時、なにやら不吉な印象を与える。
 このほか私はまだ十分に論じる知識をもちあわせていないが、女性の表象と関わるいくつかの作品も興味深かった。解説を読んでも、作家の性別に関しては必ずしも判然としないが、きわめて特徴的な点は作品の中に登場する女性たちがほとんどの場合、ヴェールもしくは布やテープで顔を覆っていることである。個々の作品にまで論及することは控えるが、いうまでもなくこれらの表現はアラブ世界における女性の位置を暗示しているであろうし、フェミニズムという観点からもきわめて示唆に富む。私はこの問題はアラブ文学における女性の表象という問題と重ね合わせて検証することによってさらに多くの発見をもたらすと考える。このほかにも論及すべき作品は多いが、最後にもう一点、強く印象に残った作品について触れておく。パレスチナに生まれ、ベイルート在住のエミリー・ジャーシルという女性作家の《リッダ空港》という作品だ。リッダ空港とはイギリス領パレスチナに実在した空港の名であり、スクリーンには手前にこの空港の模型を配したうえで後方のスクリーンに複葉機、花束をもつ女性、上空からの視界、地面に残された血痕などが脈絡なく映示される。知られているとおり、リッダ空港は1948年のイスラエル建国とともにイスラエルによって占領され、ロッド空港、そしてイスラエルの首相の名を冠したペン・グリオン国際空港へと名前を変えた。この空港自体がナクバ(パレスチナ人の追放)という歴史的事件と深く関わる土地に位置していたことが解説によって説明されているが、さらにこの空港の名は日本人にとって忘れることができない。1972年5月30日、パレスチナ解放人民戦線に呼応した日本赤軍はロッド空港で小銃を乱射し多くの市民を殺害した。今回、この作品がいかなる理由で選ばれたかは不明だが、この作品の前に立って、私はこの地域と日本が決して無縁ではないことをあらためて思い知った。
 以上で論及した問題からも理解されるとおり、本展はきわめて問題提起的な展覧会であり、なおも論じるべき問題は多いが、ここではひとまず展覧会の輪郭を示すにとどめる。本展の意義は単にこれまで知られていない地域の現代美術を紹介したことでなく、私たちが他者を表象するとはいかなることかにあらためて思いを馳せる契機を提供したことに求められるのではないか。アラブ世界、アラブの人々とは疑いなく日本人にとって、もっとも想像することが困難な社会である。しかしこの展覧会を一覧する時、テロリスト、石油王、アラーの神といったステレオタイプのイメージから離れて、彼の地でも真摯に表現をする作家たちが存在すること、そして苛酷な環境の中でそのような努力が地道に積み重ねられてきたことを知る。私の考えで抑圧や検閲が存在する時、表現は必ず深められる。この意味でもきわめて示唆的な展覧会であった。
 しかしながらあえて最後に一言付け加えておきたい。企画者たちもカタログの中で言及するとおり、2000年以降、グローバリズムの高まりに後押しされるようにアラブ美術は特に欧米の美術界で注目を浴びた。カタログを参照するならば、この展覧会にも何人かの現地のアドバイザーがいたことが示唆されている。この展覧会が具体的にどのように企画され、作家や作品がいかにして選定されたかは必ずしも明確ではないが、私はむしろこの展覧会が日本人という他者にとってあまりにもわかりやすい点が気になるのだ。今述べたとおり、私はこの展覧会に出品された作品について比較的容易に分析を加えることができた。オリエンタリズムからポスト・コロニアリズム、フェミニズム、ディアスポラ。この展覧会を分析するにあたってさしあたって動員される符牒はいずれも西欧に起源をもち、さらにいえば近年の学知の中で彫琢された概念である。つまりこの展覧会は結局のところ「西欧からみたアラブの表象」の最新版にすぎないのではないか。もちろん同様の疑念は例えば近年の中国や南アジア、あるいはアフリカの現代美術を欧米で紹介する際にも惹起されようし、いわば異文化を表象する際の宿命ともいえるアポリアである。私はこの展覧会を見た翌日、この美術館のごく近くでオープンした具体美術協会の回顧展のプレヴューにも足を運んだ。異文化の表象とは日本に向けられた西欧の眼差しでもある。この点を認識したうえで、近くこの回顧展についてもレヴューしたい。

by gravity97 | 2012-07-09 20:31 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


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