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古井由吉『仮往生伝試文』

b0138838_20441054.jpg 古井由吉は以前より気になっていた作家であるが、作品が比較的入手しにくかったこともあり、読む機会を逸していた。今春より河出書房新社より自撰作品全八巻の刊行が始まり、最初の配本となった『杳子・妻隠/行隠れ/聖』を書店で手に取るや、私は一頁も開くことなく直ちにレジへと直行した。中身を読むまでもない。菊池信義の入魂の装幀がすばらしいのだ。カヴァーの紙質や色合い、表題の字体と配置。デザインに関しても目次から奥付まで頁の端々に装幀家の気合いが感じられる。これらは電子書籍では決して味わうことのできない書籍の魅力であり、書籍とは単なる情報の集積ではなく、それ自体がアートワークであることをあらためて実感する。
四篇の小説が収められた『杳子・妻隠/行隠れ/聖』も不思議な読後感を残した。そして二回目の配本となる『仮往生伝試文』は紛れもない傑作である。しかしながらこれほど論じることの難しい小説もあまり例がない。全部で13の章から構成されているが、たとえば「厠の静まり」と題された最初の章の冒頭部を示す。

 ―されば、まことに思ひ出でむこと、かならず遂ぐべきなり。/今日は入滅という日に、寝床の中から弟子に命じて、碁柈を取り出させ、助け起き直らせてそれに向かうと、碁を一柈打たん、と細い声で甥にあたる聖人を呼んで、呆れる弟子たちの見まもる中、念仏も唱えずに石を並べはじめる。たがいに十目ばかり置いたところで、よしよし打たじ、と石を押しやぶり、また横になる。/多武峯の增賀上人の往生の話である。甥の聖人がおそるおそる今の振舞いの訳を聞くと、むかし小坊師であった頃、人の碁を打つのを見たが、ただいま念仏を唱えながら、心に思い出されて、碁を打たばやと思ふによりて、碁を打ったのだと答えた。

 これは一体何だろう。擬古文が用いられ、内容からもなんらかの古典が引かれていることが推測される。しかし「多武峯の增賀上人の往生の話である」という一文は何か。ここには別の話者が暗示されている。読み続けるうちにこの小説の構造はおぼろげに明らかになる。古典の物語を引用しつつ、作者であろう語り手がそれに対するコメントを加えることによって物語は進む。いや、物語と断じるのは早すぎる。しばらく読み進めると今度は唐突に日付とともに競馬の話が語られ、明らかに日記の一部が挿入されるのである。つまり古典の引用とそれに関する随想、さらには日記というレヴェルの異なったディスクールが混然と一体化されてこの稀有の小説は成立しているのである。
 私には古典の素養がないので詳細はわからぬが、冒頭のエピソードは『今昔物語』から引かれたらしい。また作中には『明月記』と明らかに出典を記して言及される挿話もある。『今昔物語』の本歌取りからは誰でも芥川龍之介の王朝ものを想起するだろう。実際に『仮往生伝試文』の中には芥川の「羅生門」についての言及さえ認められるのだ。しかし芥川が「今昔物語」中の物語を語り直すのに対して、古井は「今昔物語」と『仮往生伝試文』の間、平安と現在を往還しながら語る。日記の挿入からも明らかなとおり、ここには古井という明確な話者がいる。それにもかかわらず一貫して小説を特徴づけるのは語り手の圧倒的な希薄さだ。一人称で語られながらも、作者の存在感はほとんど感じられない。比較的印象の近い作品としては古井が大学の卒論で取り上げたというカフカの一連の「小説」くらいしか思い当たらない。(フランスのヌーヴォー・ロマンは作者の不在それ自体を作品の主題としているから、明らかに異なる)
 当然ながら内容を要約することはきわめて難しい。要約をすり抜けるように次々に話題が展開する。しかしながら全体に共通するテーマは明らかだ。タイトルが示すとおり、往生、すなわちこの世からあの世への転生である。このような主題は今示した冒頭の一節が上人の往生に関わる話であったことからもうかがえようし、実際この物語は多くの往生譚を含んでいる。古典からの引用ということで上人、つまり徳の高い僧の往生をめぐる逸話が多いが、盗賊や下人の往生に関する話もあり、さらに現代を生きる作者の周辺における死をめぐる逸話も次々に開陳される。しかし「死」が主題とされているにもかかわらず、通常であればはらむ重さは全く感じられず、全体を奇妙な透明感が漂っている。それは死が死そのものではなく往生、つまりこの世からあの世への移行として語られるからであろう。そしてこの移行は必ずしも明瞭に画されることはなく、いたるところでこの世とあの世は連続していることが暗示されている。冒頭の章に次のような印象的な文章がある。「ところでいつ往生したことになるのだろう、この僧は。もちろん、伊予の古寺の林の中で死んだ時だ。しかしそれまでの数十年の間、往生を念じながら東塔の厠の中でおぼえた静まりが、たえず続いていなかったか。それが往生だとはいえない。寿命がまだ尽きていない以上は、さまざま曲折を経る」つまり『仮往生伝試文』においては死と生を往還可能な二つの相としてとらえ独特の死生観が提示されている。余談であるが、私は冒頭の碁打ちのエピソードから私はやはり乾いた笑いともに近似した主題を扱った小松左京の「安置所の碁打ち」という短編を連想した。かかる往還の自在さは内容のみならず、古典の引用やパスティッシュとしての再話ではなく、古典の物語と作者をめぐる現実の間を地の文の連なりの中で往還するテクストの形式にも明らかに反映されている。たとえば「物に立たれて」という章ではタクシーの運転手にとって人影の全く見えない客がいるという話から、百鬼夜行の道中に出くわしたため、運悪く姿を消されてしまい、誰からも相手をされなくなる不運な男、おそらく「今昔物語」に典拠をもつ物語が引き出され、「憂ひなきにひとしく」という章では昨今、人が死ななくなったという嘆息に続いて、閻魔から現世に差し戻された男が亡者の中に取り残されて惑う話が語られる。唐突に突き合わされる物語に最初は困惑した私たちも読み進むにつれて、この小説の独特のリズムになじんでくる。古典が引用される箇所は多くの場合、なんらかの物語性を内在させているが、それらが作者=語り手の恣意によって次々に中断し、別の脈絡にとって変わられ、作者のとりとめのない随想のような文章の中に紛れていく。さらに時折事実関係を記した日記体の文章も重ねられる。往生とは越境であるとするならば、この小説では生と死、フィクションと現実、事実と印象、王朝と現在、現世と異界、さまざまな境界が軽々と踏み越えられ、そもそもそのような境界が存在するかが問われる。そして最終的には果たして小説といったかりそめの現実が存在するかといったきわめて根源的な問いへと読者への思いを向けるところにこの作品の凄みがあるといえよう。
 決して読みやすい小説ではないし、読み通すにはそれなりの覚悟も必要と感じられるが、これまで日本語で書かれた「小説」の中でも特筆に値する傑作であることを私は確信した。高い抽象性を帯びた物語の中に時折のぞくなまめかしいエロティシズムについてはここで論じる余裕がなかった。芥川賞を受賞した『杳子』は1971年、本書は1989年に発表された。以後も今日にいたるまで古井の作品は大きな変貌を遂げていると聞く。このたびの作品集の刊行はこの特異な作家の全体像を正面から受け止めるよい契機となるだろう。
by gravity97 | 2012-05-22 20:46 | 日本文学 | Comments(0)

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