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優雅な生活が最高の復讐である

『9・11 変容する戦争』

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 集英社の「コレクション 戦争と文学」についてレヴューするのは「ヒロシマ・ナガサキ」に続いて二度目となる。今回のテーマは「9・11 変容する戦争」。同時多発テロの日付がタイトルに掲げられているが、収録されている作品のテーマはもう少し広く、具体的には湾岸戦争、自衛隊のイラク派兵、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争から同時多発テロとそれへの報復としてのアフガニスタン空爆、イラク戦争、さらには地下鉄サリン事件や具体的に時期を特定しにくいシエラレオネでの内戦なども含まれている。巻末の年表は「1989年、ソ連、アフガニスタンからの撤退完了」という項目で始まり、「2011年、オバマ大統領がウサマ・ビン・ラディンの殺害を発表」という項目で終わる。年表を一覧してこの20年の歴史もまた「戦争」に血塗られたそれであったことにあらためて暗澹とした思いを抱く。そしてタイトルにあるとおり、この時期、私たちにとって「戦争」の内実は著しく変容した。収録された作品中、私にとって既知の作品は平野啓一郎の短編と、チェルフィッチュの公演として見た「三月の5日間」のみであった。しかし私は本書を通読して、日本が直接の当事者でないこれらの現代史の暗部、無数の暴力、虐待や虐殺に対しても多くの文学者が誠実に応接し、日本語による表現として多くの注目すべき作品を生み出していたことに勇気づけられる思いがした。
 収録されている作品は多いため、小説の中から特に印象に残った作品について記すこととする。冒頭のリービ英雄の「千々にくだけて」は作家の分身とも呼ぶべき日本に定住するアメリカ人青年がバンクーバー乗り継ぎでニューヨークの母のもとに向かう機内で同時多発テロの知らせを受ける場面で始まる。アメリカ人青年エドワードはバンクーバーのモーテルで長い待機を強いられる。モーテルのTVを介して映し出されるWTCの倒壊の模様、虚脱する人々、「悪を行う者は必ず罰せられる」と叫ぶ大統領、テロに直接に立ち会っていないがゆえにいわば傍観者として体験する9・11以後の寒々とした光景が、日本に住むアメリカ人青年という屈折した存在をとおして描かれる。小説の中に「見て、百十階の窓からOLが飛び下りている」という言葉がある。「見て」という言葉が暗示するとおり、惨事は目撃されるが、自らの身体を通して体験されることがない。戦争がTVの画面を介した別世界の事件のように感じられ始めたのは私の記憶では91年の湾岸戦争以来であり、WTCへの攻撃はそのスペクタクル性においてまさに映画の中の出来事のようであった。このような距離感、非現実感は本書に収められた多くの作品の通奏低音をかたちづくっている。「千々にくだけて」において何も声高に叫ばれることはない。しかしそれゆえさらに深く人々の無力感が行間ににじむ。タイトルは芭蕉の句からの引用である。「島々や、千々にくだけて、夏の海」、broken into thousands of pieces という一句は強い喚起力を備えている。砕けたのはWTCや航空機だけではないはずだ。
同時多発テロの「被害者」であるアメリカが中近東で引き起こした戦争と関わる一連の作品もそれぞれ味わいが深い。米原万里の「バグダットの靴磨き」はアメリカによって占領されたイラクにおける民間人の受難を描く。私はこの小説をガッサーン・カナファーニーの「ラムレの証言」と重ね合わさずにはいられない。テヘランに生まれたシリン・ネザマフィが日本語で書いた「サラム」は入国管理局に難民申請を行いながらも受理されないアフガニスタン難民の女性の通訳として弁護士たちとともに救援活動に携わる学生の視点で語られる。最初は割のよいアルバイトといった意識で始めた通訳の仕事を介して、語り手はレイラという難民女性をめぐる悲劇、明らかにアメリカの爆撃に起因する内戦によって強いられた彼の地の人々の流亡について思いをめぐらすこととなる。弁護士たちの活動も空しく強制送還されることとなったレイラの前で、語り手は自らの位置がどこにあるのかを自問する。同じ主題は岡田利規の「三月の5日間」にも認められる。私はチェルフィッチュの演劇をとおしてこの戯曲を知った。岡田もここで当事者でないことをどのように生きるかという問いを突きつける。知られているとおり、この戯曲は2003年3月、アメリカによるイラクへの空爆が始まった日に知り合った男女が渋谷のラブホテルで5日間にわたって連泊するという物語である。実際の上演に立ち会った際には俳優たちの独特の身振りや語り口に圧倒されてしまったが、この戯曲は当事者でないことの居心地の悪さを主題としている。空爆によってイラクで罪のない人々が殺されている同じ時間に自分たちは渋谷で無為の時間を送っている。登場人物たちは、まもなくイラクではアメリカによる空爆が始まることを自覚し、おそらくは自分たちがホテルを出る時には戦争が終わっているのではないかと予想さえする。遠い地で戦争が続く間、自分たちはライヴハウスで知り合った相手と行きずりのセックスを重ねる。登場人物の会話の端々、劇中のいたるところに突出する異和感や不全感はチェルフィッチュの公演の中でぎくしゃくとした身振りや唐突な場面転換によってさらに増幅された。しかしこのような感情はTV越しに戦争を体験していた私たちにとって決して覚えのないものではないだろう。
本書に収録された作品の中で私が最も鮮烈な印象を受けたのは楠見朋彦という私にとって未知の若い書き手の「零歳の詩人」という小説であった。この中編はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という、日本人にとって湾岸戦争やイラク戦争以上に知ることの少ない内戦を主題としている。この内戦がいかに凄惨なものであったかは情報としていったが、楠見は全く仮借のない筆致でこの地獄を描写する。主人公がアキラと呼ばれる日本人であることは読み始めるとまもなくわかる。アキラは〈トラヴィ〉、〈眼鏡〉、〈お喋り〉といったニックネームで呼び合う仲間たちと銃撃戦の続く戦闘地帯の防空壕に潜んでいる。アキラたちは時に戦争孤児を街から救い出し、共同生活を送っている。しかし戦争は次第に彼らのうえに残酷な影を落とす。楠見はアキラとは別に随所に非人称の視点を持ち込んで、この内戦が人間性を全く欠いた悪夢のような殺し合いであることを報告する。残忍きわまりない殺害方法、生きている人間、死体の区別なく身体を損壊する行為が繰り返される。捕虜や民間人に対する無意味な拷問や強姦、幼児や妊婦、老人に対する目をそむけたくなるような蛮行。これでもかとばかりに記述される身体の毀損についての言及は、ほかの小説にみられた傍観者然とした表現の対極にあり、読むうちに痛みさえ覚える。この作品は近年私が読んだ小説の中でも最も凄惨な内容である。しかし塚本邦雄に師事し、歌集も著しているという楠見の文体は独特の透明感と対象との距離感があり、残酷な内容にもかかわらず、最後まで一気に読ませる。この「戦争」の特性はもはや誰が敵なのか、なぜ殺しあうのかが全く理解できない点にある。蛮行を加える者たちは「兵士」と名指しされるだけで、それがセルビア人であるか、ボスニア人であるかは問われることがない。この内戦は現実でありながら現実感がない。読者は直ちに一つの疑問を抱くであろう。なぜこのような凄絶な戦場に日本人である主人公がいるのか。この問い自体は明確に答えられることはない。しかし回想の中でアキラはごく短く自分の過去について触れる。日本においてアキラの家庭は破綻していた。「あいつらは家族なんかではない。僕は家族である仲間であるみんなと、いつまでもここに居て戦争が終わるのを待ち、もう日本に帰ることはないだろう。なぜってこの地下壕には僕がいままで知らず、知らないながら求めていた本来の家族があるように感じるからだ」このような殺し合いの状況さえも、現代の日本より幸福であると述べるアキラ。このパッセージを読んで私は唐突に理解した。なぜ私たちは現在の日本が平和であると考えるのか。現在の日本、それは90年代の旧ユーゴスラビアと同様に苛烈な戦場ではないか。確かに私たちは武器を手に取って互いに殺し合うことはない。しかし生きることの息苦しさは近年ますます強まり、毎年多くの者が自殺し、一度失敗すると人は社会から自動的に排除されてしまう。このような生き辛さはいつの時代にも存在し、それゆえ多くの文学の主題となってきたのではないかという反問がなされるかもしれない。しかし私の経験に即すならば、弱者を切り捨て、強者の論理によって支配される傾向が強まったこの20年ほどの(いうまでもなくこの作品集が対象とする時代である)日本はそれまでの日本とは全く異質であり、戦争状態といっても差し支えはない。駅の構内で地下鉄サリン事件の犠牲者たちの傍らを脇目もふらず会社に向かう会社員たち、弱者を執拗にいじめ、誰も見ぬふりをする学校社会、辺見庸が、重松清がここに収録された作品の中で描写する戦地ではなく日本の情景は例えば遠藤周作や野間宏が戦争や軍隊を描いた小説と本質的に異なることはない。そして3-11以後、私たちは現実においても一つ間違えば殺されてしまうかもしれない戦場の中にいるかのような切実さとともに生きていないだろうか。実際に再び大きな震災が起きれば、「修理中」の原子炉が致命的なダメージを受け、東日本が壊滅し、全国に戒厳令が敷かれるというシナリオは決してありえないことではない。
本書の解説で高橋敏夫はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『マルチチュード』を引きながら、今日の戦争の特質を次の四点に要約している。すなわち第一に戦争は国家の間で争われるのではなく、〈帝国〉内の内戦または警察的行動として実現される。第二にドマス・ホッブスが『リヴァイアサン』の中で描写した「戦争状態」として実現され、始まりも終わりもない。第三に場所に関しても限定されることはない。第四に戦争はもはや社会の例外状態ではなく、永続的かつ全般的、日常的な戦争状態として実現される。この指摘は本書で扱われている小説の主題をうまく説明しているが、警察的行動をとおして掣肘される、終わりなき戦争状態とはまさに3・11以後の私たちの日常を指し示すかのようである。本書の帯には「画面のすぐ向こうの戦火 文学はどう対峙したか?」という惹句がある。しかし原子力災害以後を生きる私たちにとって、戦火は画面の向こうではない。私たちとともにあるのだ。
by gravity97 | 2012-04-24 21:32 | 日本文学 | Comments(0)

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