高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』

b0138838_2118126.jpg 今回の原子力災害をめぐる出版物は数多く、私も書架の一つが埋め尽くされるほどの本を読んだ。本書もまたコンパクトながらいくつもの思考を誘発する刺激的な内容である。著書の高橋哲哉自身が福島出身であり、高橋が震災後直ちに本書を構想した理由は容易に推察される。タイトルとされている「犠牲」という概念は高橋の研究の中心的な課題であるらしい。高橋哲哉に関して、私は歴史修正主義に対する批判をいくつか読んだ程度であるため、この概念がいかにしてもたらされたか詳しくは知らないが、今回の原発事故を考えるにあたって説得的な出発点である。
 最初に高橋はこの事故に対する自分の位置を定めようとする。福島、それも浜通りの出身である高橋は原子力災害によって故郷を奪われた被害者であるかもしれず、(東京も放射能汚染の被害を受けつつある点においては措くとして)福島で生産された電力を東京で消費する者として一面では加害者かもしれず、さらに大学入学とともに故郷を離れた人間としての罪責感も負っている。いくつもの立場を兼ねているのは高橋だけではない。原発によって作られた電力によって受益しながら原発事故によって受苦する(「受苦」という概念を私はこのブログでも取り上げた開沼の研究で知った)のは私たちすべてであろう。しかしそれにもかかわらず、いやそれゆえに高橋は事故の責任の所在を問題としているように感じられる。むろんそれは単に刑事責任の追求や処罰を求めてのそれとは異なる。日本を呪縛する犠牲というシステムが不可避的に宿す無責任の体系を根底的に批判するためである。それでは犠牲というシステムとは何か。高橋自身が約言している。「犠牲のシステムでは或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生みだされ、犠牲にするもの利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生みだされないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」原子力災害を経験した私たちにとってこのようなシステムを理解することは比較的たやすい。「犠牲のシステム」において犠牲とされる集団を階級や民族ではなく、地域として限定した点に本書の独自性があるだろう。すなわち福島と沖縄であり、たまたま事故を起こした原子力発電所が立地していたため、本書では福島の名が与えられたが、前者が潜在的に東北地方を含意していることは下北半島、六ヶ所村に使用済み核燃料の再処理工場が存在することを想起する時、明らかであろう。震災から一カ月後、現地のルポとして発表された本書のレジュメとも呼ぶべき一文を巻頭に置いた後、第二章において高橋は原子力発電所における「犠牲のシステム」を四つの「犠牲にされるもの」に分類して分析する。最初はいうまでもなく今回の原発事故の当時者としての福島であり、高橋は被曝という具体的な被害、風評による被害、差別される人としての、そして土地としての被害といったいくつものレヴェルにおける「犠牲」について論じる。続いて今回の事故とは無関係に日常的な被曝を受けてきた原発労働者たちである。この点についても以前から幾度となく指摘されてきた点であるが、福島以後、状況はさらに複雑化している。つまり実際に高線量下で事故処理にあたる東京電力の社員と作業員は多くが福島出身であり、今後、事故によって失職した福島の人々がやむなく事故処理に従事することは大いにありうる。つまり第一の「犠牲」と第二の「犠牲」は重複する可能性が高い。第三の「犠牲」とは核燃料の原料となるウラン鉱の採掘にあたる人々であり、多く海外の先住民がこれにあたっているという事実はこれまで高橋が検証した「犠牲のシステム」とも符合している。ただしこの問題は本書では深く論じられることがない。第四の「犠牲」は原発が存在する限り、恒常的に存在する問題としての放射性廃棄物の処分地である。先日、私はマイケル・マドセン「100000年後の安全」というドキュメンタリーを見て、あらためて原子力発電と人類は共存できないという思いを強くした。先に六ヶ所村について触れたが、事故が発生すれば日本はおろか世界が壊滅するような施設は本質的に原子力発電所と変わるところがないことは明らかだ。高橋も述べるとおり、これらの「犠牲のシステム」は単に誰かが誰かを虐げているといった単純な問題ではなく、それなくしてはシステム自体が立ち行かない点に特徴がある。つまり原子力発電は「犠牲のシステム」を構造化しているのだ。
 高橋が挙げる四つの「犠牲」に私はさらに二つの「犠牲」を加えたいと考える。一つは後続する世代の「犠牲」である。処分地をめぐる「犠牲」が空間的な問題であるのに対し、原子力発電所は時間的にも私たちより若い世代に深刻な負担を強いる。時間的な遅延を伴うため、このような「犠牲」は認識されにくい。しかし私たちが電力を享受するために(或る者たちの利益)、放射能廃棄物の処理を後続する世代に押しつけるとするならば、それは他の者たちの安全を犠牲としてかろうじて成り立つシステムであることは明白である。世代間における「犠牲のシステム」は環境汚染や地球温暖化といった問題をとおして先例がない訳ではない。しかしかくも苛酷な「犠牲」を強いるシステムはほかに存在しないであろうし、おそらく数年のうちに私たちはその予兆を知るだろう。それがもう一つの「犠牲」、つまり胎児や年少者が犠牲となる後発性の放射能障害である。これも先日、私は「チェルノブイリ・ハート」というドキュメンタリーを見た。原発事故後、ベラルーシ共和国で発生した多くの放射能障害、先天性障害を記録したこのドキュメンタリーについては機会があればあらためて論じたいが、特徴的なのは障害が幼児から高校生くらいの世代に集中的に発現する点である。放射能による障害が年若い世代を直撃することを私は既に小出裕章らの著書から知っていたが、このドキュメンタリーはその事実を冷酷なまでに明らかにしていた。これら二つの「犠牲」を加えることによって私たちは原子力発電所という「犠牲のシステム」の特性を認めることができる。まずそれは端的に、弱者を選択的に標的とする。東京に対する東北、日本に対するアジア(モンゴルに原発の廃棄物の最終処理地を建設しようとした計画を想起するがよい)そして成人に対する乳児や幼児。さらにそれは私たちから離れた、不可視の存在を標的とする。六ヶ所村やモンゴルといった遠隔地、あるいは私たちがその顔を見ることもない未来の世代。犠牲とされる対象を不可視化することによって私たちはこのシステムの非人間性から目を逸らされる。厚生労働省でも文部科学省でもよい。国の責任として当然開始すべきき福島の子供たちの放射能障害に関する網羅的な疫学的調査が全くなされないことも同じ理由によっている。犠牲のシステムは統計として可視化されてはならないのだ。
 高橋によれば「犠牲のシステム」は通常、隠蔽されるか、美化、正当化される。次に高橋はこのような機制を災害に対してしばしば用いられる天罰論ないしその裏返しとしての天恵論に即して分析する。東日本大震災に際しても石原某が「この津波は日本人の我欲を洗い落とすための天罰」と述べたことはよく知られている。かかる発想が関東大震災以来、様々な論者に寄って繰り返されてきたことを高橋は丹念に検証して、天罰論、天恵論のいずれもが「犠牲のシステム」の隠蔽に寄与したことを論じる。このような言説は原子力災害の責任をあいまいにして、ゆえなき受苦を正当化、美化する。高橋の分析を読み進めて私はこのような発想が関東大震災以来、様々の思想家や宗教家に通底して認められること、それなりに尊敬に値する仕事や著述を残した人たちも同様の発言をしていることにあらためて驚いた。「犠牲のシステム」はかくも固く私たちを拘束し、内面化されているのである。そしてこの問題を考えるうえで重要な先例を高橋は沖縄にみる。第二次大戦中は苛酷な戦場であり、戦後はアメリカ軍の基地という厄介な施設を抱え込むことを強いられた沖縄もまた「犠牲のシステム」が不可視化された場であった。高橋は沖縄戦とアメリカによる占領に関して昭和天皇の責任を史料に基づいて指摘し、現在もなお沖縄の受苦によって日本の同盟体制が維持されている点を検証する。責任を明確にして、不可視化されている構造を明るみに出すことが「犠牲のシステム」を批判する第一歩であるからだ。そして高橋のごとき研究者さえも沖縄が「犠牲のシステム」であることに原発事故を介して想到したという事実は、私たちが沖縄に対していかに鈍感であるかを暗示しているだろう。
 4年前にこのブログを書き始めた時、私は文学や美術、映像や音楽といった話題をめぐる基本的に快い体験に言葉を与えていくつもりであった。しかし3・11以後、このような体験を純粋に味わうことが難しくなったような気がする。今や私たちは何を読んでも、何を見ても放射能汚染という現実と無関係にそれらを享受することができない。ずいぶん昔に読んだ原子力発電を批判する論集に『われら、チェルノブイリの虜囚』というタイトルが掲げられていたことを想起する。今や私たちはフクシマの虜囚となってしまった。しかしいかに苛酷であっても、私たちはフクシマについて考え続けなければならない。なぜならそれは端的に私たちの生存に関わっているからだ。

by gravity97 | 2012-04-10 21:19 | 思想・社会 | Comments(0)