「津上みゆき 即興/共鳴」

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 東京で足早にいくつかの展覧会を見て回る。春にはまだ早いが展覧会は充実している。既に名古屋で見たジャクソン・ポロックの回顧展が東京近美に巡回し、東京都現代美術館の展示も素晴らしい。私は田中敦子の個展を見るために出かけ、実際にこの世界巡回展はよく組織されていて多くの発見があったが、同時に開催されている靉嘔の回顧展も東京都美術館時代から日本の戦後美術を丹念に検証してきたこの美術館らしい力作の展覧会である。さらに常設展示に驚く。実験工房と福島秀子に焦点をあてた特集展示は、なるほど大半がコレクションによって組み立てられているが、一つの独立した展覧会として十分に堪能できる質と量である。カタログが残らないこと、常設であるため広く周知されないことが残念である。この美術館では最近あまり感心する展覧会に出会ったことがなかったのだが、この常設展示は現代美術を展覧会として検証するという、美術館にとって当然であるにも関わらず最近実践されることのまれな仕事であり、それを可能とした学芸員の高い志を感じた。この三つの展覧会は一日かけて巡るに値しよう。同じ意識を共有し、評判の高かった府中市美術館の石子順造の展覧会が終了していたことは残念であった。上野ではVOCA展が開かれている上野の森美術館のギャラリーで「遮るものもないことについて」と題された東島毅の個展が開催されている。これも期待に違わぬ圧倒的な大作が出品され、今日の絵画の最高の水準を知るうえでよい機会となっている。VOCAとの落差も面白い。これらの展示はいずれを取り上げてもこのブログで相応の紙幅を費やして論じるに足る内容であるが、今回、私が選んだ展示は、これらに比べて実にささやかでありながら、作品の質としては今挙げた名作、大作に一歩も譲らぬ高い完成度を示す個展である。
 津上みゆきは現在、最もめざましい活動を続ける画家の一人である。数年前、国立新美術館の「アーティスト・ファイル」に出品された二十四節気を主題とした連作を見た際の感銘を忘れることはできない。のびやかでありながら、強度を秘めた色面の広がりは今日私が知る最上の絵画的達成である。これまでの作品には多く《View》というタイトルが付され、そこに一つの抽象的な風景が実現されていることを暗示していた。これに対して今回出品されていた作品は構造を違えているように感じられた。横長ではなく縦長の画面が用いられ、描かれたのは風景であるにせよ、風景の中には一つの共通するモティーフがうかがえるように感じられた。それは木というモティーフである。今回出品された作品は三つのフェイズとして実現されている。上に示したような、小さな手帳の上におそらくは水彩によって最初に描かれたイメージ、それに基づいた紙の上のドローイング、そしてカンヴァスに描かれた絵画である。三者の関係を厳密に確認する余裕はなかったが、小さな手帳に記録された即興的な心象から一転の油彩画へと、単純な反復ではないにせよイメージが次第に深められていく経緯は作品をとおして明確に了解された。これまでの作品と比べて今回の新作はフォーマットにおいて大きく異なる。これまでの絵画はView、つまり光景というタイトルが暗示するとおり、水平的な構図として実現される場合が多かったが、新作においては逆に垂直的な構図が採用されている。小品が中心とされていることもあり、水平から垂直へという変化は単に今回の出品作のみにとどまるかもしれず、津上の作品の上で転機が画されたと判断するにはやや早い。しかしかかる軸性の逆転は何を意味するか。このように問う時、私たちはこれらの新作の主題の核心へと向かう。その理由を推測することはさほど困難ではない。今述べたとおり、今回の作品はそのプロトタイプを小さな手帳に描かれたイメージにもつ。津上は毎日、天気のよい日は戸外で手帳にその日の印象を描き留めるという。会場で津上がこの作品を描く経緯を綴った美しい文章を読むことができる。その冒頭を抜き出してみよう。「快晴の空高く、伸びていた。/光は春の輝き。自然はすべて私に向かって両手を広げているかのようだった。/花の命は短い。今日の美しさとの出会いは、お互いの響き合い。/逃してはならないと、午前10時ごろ、庭に咲く木々より一本の早咲きの桜と対話を始めた。/アトリエでの制作と並行しながら、時折、庭に出た」このテクストを読むならば、垂直性の由来はあっけなく了解される。一本の早咲きの桜がこれらの絵画に共通するモティーフなのだ。日々無数に描かれるイメージはそれが完成された時間をいわば仮のタイトルとして整理される。日付を確認するならば、これらのイメージが2011年3月11日の午前中から夕方にかけて手帳の上に描き留められたことが理解される。もはや多言を要しないだろう。これらの作品は東日本大震災が発生した日の津上の心象を記録しているのである。今、心象という言葉を用いた。津上の言葉から了解されるとおり、これらの絵画の多くは実景を眼前にして描かれている。しかし識別可能な形象を伴わないこれらの作品は自然を前にした作家の内面、より正確には作家と自然の対話を反映していると考えるべきであろう。津上は鎌倉に住んでいるから、おそらくその日の午後、大きな揺れを感じたはずだ。しかし津上はアトリエに踏みとどまってその不安を小さな手帳に表現することを続けた。身近な桜の木との対話が、遠く離れた土地における不穏で圧倒的な自然の転変によって中断される、画面からうかがえるおののきにも似た感情に私は強く打たれた。津上の表現はあくまでも抑制されている。先ほどの文章の中にも震災の瞬間を暗示する短い文章があるが、作品同様、きわめて抑制された表現である。聞くところによれば津上の家にはTVがないというから、おそらく作家は私たちがTVの画面の中に繰り広げられる禍々しい光景に圧倒されている同じ時間に桜の木に触発されたこれらのイメージを手帳に描き留めていたのであろう。見渡す限りの水平の風景が秩序を失い、混沌へと転じていた同じ時間に早咲きの桜という揺らぐことのない垂直と対話し、それを絵画という表現へと置き換えようとする画家の姿に、私は最も根源的な美術の在り方を感じるのだ。
震災以降、私たちは美術が震災に対してどのような意味をもちうるかとしばしば自問した。私の考えではこの際に美術と震災を対置する発想は正しくない。震災のために発表を自粛する、あるいは逆に復興のためにチャリティーオークションを開く。震災を理由として発表することしないこと、参加することしないこと、有無を言わさぬ態度決定を迫るこれらのふるまいは美術の対極にある。震災が発生しようが原子力災害が引き起こされようが、超然として在るのが美術という営みの本質ではないだろうか。震災、そしてとりわけ原子力災害をめぐって私たちは責任をもつべき者たちが右顧左眄し、無責任なふるまいに終始する場面を数限りなく目撃した。表現することを生業とする者にとっても、自らの表現とかかる災厄の折り合いをいかにつけるかは困難な問題であっただろう。文学の領域ではいくつかの注目すべき試みが認められる。しかし美術においては一部の写真家の仕事を除いて、岡本太郎の壁画に落書きを張り付けるといった、論じるにも値しないくだらない反応しか見当たらない。津上の表現はきわめて洗練されており、注意深く観察しなければ震災との関係をうかがうことはできない。しかしそこでは自らの生と絵を描くという営みを重ね合わせ、自然と対話し、共鳴し、おののきながらイメージを探るという絵画の本源に触れる試みがなされている。美術によって震災に打ち克つのではない。美術とは震災によっても損なわれることのない奇跡であることを津上の絵画は雄弁に語っている。
by gravity97 | 2012-03-26 14:50 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


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