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Living Well Is the Best Revenge

東浩紀『一般意志2.0』

東浩紀『一般意志2.0』_b0138838_21535339.jpg 『存在論的、郵便的』を携えての東浩紀の登場は衝撃的であった。1998年のことである。以前より『批評空間』に連載されていた論考に親しんでいたとはいえ、全面的に改稿されて上梓されたデリダ論は実に斬新で、新しい世代の登場を強く印象づけた。その後も私は東の著述を比較的熱心に読み継いだが、『動物化するポスト・モダン』にはさほど感心しなかったし、インターネット上のふるまいやSF小説を発表するなどの多角的な活動が伝えられるにつれ、むしろ興味が薄れ、近年の「思想地図」に関連する仕事はほとんどフォローしていなかった。しかし今回、久しぶりに本書を通読して私はあらためて「思想家」としての東の資質に感心した。
 帯にも掲げられた冒頭の文章がよい。「筆者はこれから夢を語ろうと思う。それは未来社会についての夢だ。わたしたちがこれからさき、21世紀に、22世紀に作るであろう社会についての夢だ」ただし本書ではこの前に序文が置かれ、本書刊行時(2011年11月)においては本書で論じられる内容に大きな留保が必要となったことが記されている。いうまでもなくそれは東日本大震災と原子力災害がこのような楽天的な夢を語ることを不可能にしたということだ。基本的に私も東の立場に賛成するが、本書で論じられたフレームワークは3・11の前後を問わず真剣に検証されてよいと考える、
 デリダ論の際にも感じたことであるが、東の文章の魅力は明晰さにある。本書の内容もきわめてわかりやすい。東の主張は簡単に要約できる。例えば序章の冒頭に記された次のような一文だ。「筆者は民主主義の理念は、情報社会の現実のうえで新しいものへとアップデートできるし、またそうするべきだと主張する」タイトルの「一般意志 2.0」という言葉が新鮮だ。「一般意志」とはジャック・ルソーが『社会契約論』の中で提起した奇妙な概念であり、これまでどちらかといえば否定的に論及されてきたという。ソルジェニーツィンに関する論文でデビューし、デリダやインターネットについて論じてきた東から突然にルソーの名が発されたことに奇異の念も感じたが、本書を読むならばその論旨は説得的だ。東はルソーに倣って、一般意志を私的な利害の総和である全体意思と区別し、それが個々の意志の和の単純な和ではなく差異の和であると論を進める。このあたりの議論は要約するより直接本書を読んだ方がわかりやすいだろう。東はルソーが提起した「一般意志」を評価し、それが特に現在の私たちにとって有効な理由は近年の情報技術の発展によってきわめて具体的な議論の中に再定義可能となったからであると説く。そしてルソーが提起した本来の「一般意志1.0」に対して、それをアップデートした「一般意志2.0」という概念を提出する。それは具体的にはグーグルやツイッターの技術によって私たちの意志や欲求が可視化されることによって実現される民主主義の可能性である。続いて東は可視化された私たちの内面の反映をフロイトの無意識と関連づける。東はグーグルの検索アルゴリズム、あるいは検索語を入力する際にその語と一緒に検索される可能性の高い言葉を表示するサービスがフロイトのいう無意識と類縁性をもつ点を指摘する。このあたりの議論はかなり強引な感じもあり、ルソーあるいはフロイトの専門家からは批判があるだろうが、いうまでもなく本論はルソー研究やフロイト研究ではないし、私自身はこのようなアクロバティックな思考の展開にむしろ強く興味をそそられた。東はルソーやフロイトの思想に最新の情報技術との親和性を認めるとともに、逆に技術の進歩によって限界が明らかになった理念として、アーレントやハバーマスが重視したコミュニケーション行為、そして民主主義における熟議の必要性を指摘する。東が指摘するとおり、インターネットの掲示板上のひたすら攻撃的な言説の増幅、あるいはこの数年の日本の政治の混迷をみるならば、議論を尽くしてその結果としてなんらかの建設的合意を求めるという手法は今日きわめて困難に感じられる。私もそれを否定しないし、ポスト・モダンを特徴づける「大きな物語」の喪失はこのような状況を準備するものであったかもしれない。ただし私はやはり東の主張には危惧を抱かざるをえない。私の理解によればハバーマスらの主張は社会的合意がきわめて困難であるにせよ、それは対話を通して、つまり言語を介して形成されるというものだ。これに対して東のいう「一般意志2.0」は機械的に集積されたデータこそが新しい民主主義の基盤であるという主張だ。もちろん東も専門的な政治家や官僚といった選良たちが「一般意志2.0」を十分に意識しながら政策決定を行うことを理想としており、データに全てを預けることを提唱している訳ではない。しかし可視化された「民意」はたやすくポピュリズムに転じるのではなかろうか。例えばナチス政権下のドイツでユダヤ人の処遇に対して「一般意志2.0」を問うたとしよう。今日、多くの歴史学者が検証したとおり、決してヒットラーとナチスは強引に自らの主張を推進した訳ではない。閉塞感に駆られた多くのドイツ国民の集団的無意識(1930年代ドイツにおいては「可視化」されえなかった「一般意志2.0」)が存在したからこそ、このような歴史的蛮行が黙認されたのではないか。これに対抗しうる立場があるとすればそれはデータの集積ではなく、熟議であり、なによりも言葉ではなかっただろうか。
 東は次のようにも記す。「わたしたちはいまや、ある人間がいつどこでなにを欲し、なにを行ったのか、本人が記憶を失っていても環境の方が記録している、そのような時代に生き始めている。実際、現代社会はすでに、本人の記憶ではなく、記録のほうをこそ頼りに、ひとが評価され、雇用され、時には裁かれる事例に満ち始めてはいないだろうか」世界の非人間化に対する東の見立ては鋭い。私が記録を残すのではなく、記録として実現される私という発想には、言語を操るのではなく言語の中に挿入される人間という構造主義的思考が文字通り「アップデート」されたヴァージョンをみることができよう。記録が実存に優先する社会はSFの主題としてはかねてより描かれていたが、東が指摘するとおり、それはいままさに現実化しつつある。一人の人間の生がすべて記録された社会、記録によって一つの人格が閲覧される社会、しかし実はそこには抗しがたい魅力も存在するのではないだろうか。例えば私がこの数年、このブログを書き継ぎ、日々接する様々な表現に対して批評的な言説を書き連ねてきた一つの目的が、自らの言葉によって私という人格を記録したいというライフログ的な欲求であったことを私は否定しない。さらに付け加えるならば、私は何を読んだ、何を食べた、どこへ行ったといった機械的なデータの集積ではなく、何を考えたかによって自らを記録するために言葉による批評を自らに課してきたつもりだ。
 この点からも理解されるとおり、本書に対する私の思いはいささかアンヴィバレンツだ。東はかかる総記録社会が必ずしも監視社会を意味しないと述べ、プライヴァシーに関する私たちの感性そのものが変容を遂げつつあると指摘する。私は必ずしも東に同意できない。総記録社会の本質として東が記述する「自由な市民が、名も知れぬ民間企業が創設したいかなる正統性もないサービスに、自発的に、時には国境すら超えて雪崩を打って個人情報やプライヴァシーを委ねる現象」とは人々が「自発的に」一個の記録機械に奉仕する世界ではないだろうか。これを東は来るべき民主主義のエンジンたる「一般意志2.0」と呼んだ。かかる状況から私はむしろこのブログでも取り上げたギュンター・アンダースの「世界が機械となる」という不吉な予言を連想する。しかしまた一方、寺山修司であっただろうか、正確な表現は覚えていないが、「TVを批判する者は、批判した程度のTVしか享受できない」といった意味の言葉も思い出す。グーグルを批判することはたやすいが、グーグルという驚くべきシステムが差し出す果実の恩恵を拒んで社会的生を営むことができるだろうか。今日検索という技術と無関係に生活することはありえない。私たちの務めはそれを受け入れ、機械に奉仕するのではなく、いかに機械を操るかを考えることかもしれないと思いも拭えない。
 「一般意志2.0」がユートピアにつながるか、ディストピアへの道であるかについてはひとまず措くこととしよう。東は本書で「未来の夢」を語ろうとする。ペシミズムに毒された現在にあって、議論の内容はともかく、東の姿勢に私は強い共感を覚えるのだ。東の言葉はあまりにもナイーヴに感じられもしよう。しかし今、一体誰が「夢」や「民主主義の向上」といった話題を正面から言挙げするだろうか。思想とは人に希望をあたえるものであってほしい。東は序文の中で震災と原子力災害を経験した現在の私たちにとって、語るべきもっと別のことがあるのではないかと問うた。実際に被災地にも出向いた東であるから発することが可能な重い言葉であることを私は十分に理解する。しかし逆に災厄を経験した今であるからこそ、後悔や断罪ではなく、希望とともに未来を語る言葉があってよいのではないだろうか。
by gravity97 | 2012-01-06 21:55 | 思想・社会 | Comments(0)