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Living Well Is the Best Revenge

「榎忠展」

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 ずいぶん遅くなったが、この秋、兵庫県立美術館で開催された「榎忠」展のレヴューを記しておきたい。榎は近年でこそ知名度も高いが、1970年代以降、神戸を中心に地道で着実な活動を続けてきた作家である。一見スキャンダラスな作品も多いとはいえ、作家のテーマはほとんどぶれることなく、作品の完成度は常に高い。
 榎は最初、JAPAN KOBE ZERO の一員として活動していたが、今回の展覧会では榎がこのグループを脱退した後の個人的な活動のほぼ全貌が紹介されている。榎の衝撃的なデビューとして記憶される作品は、1979年、当時の兵庫県立近代美術館における「アート・ナウ 79」に出品した実物大の大砲模型であったから、今回の個展がこの美術館の後身とも呼ぶべき会場で開かれたことは当然かもしれないが、後述するとおり、榎が美術館に照準を合わせた大砲によって活動の端緒に就いたことの意味は象徴的である。
 榎の多様な活動の中で今回の個展の中心となっているのは多く鉄を用いたきわめて即物的で重量のある作品である。それらは大きく二つに分けられる。一つは時に鋳型まで用いて成型された、明確な形状と意味をもつ作品である。それらが暗示する大砲、カラシニコフ自動小銃、そして薬莢といった装置や部品が兵器というモティーフをかたちづくることはいうまでもない。ずいぶん昔に神戸でギャラリー一面に薬莢をぶちまけた作品を見た際、作家のコメントとして「これらの品は人を殺すために製造され、それ以外の目的をもっていない」といった言葉が掲示されていたように記憶する。私たち一般の市民が現物を目にする機会がほとんどない現在の日本でそれなりに美的なこれらの形態にかかるコノテーションを認めることは難しい気もするが、実際には使用できないこれら兵器のフェイクは攻撃性と滑稽さという榎の作品の多くを通底する特質をたたえている。もう一つの系列は金属の廃材にほとんど手を加えることなく提示した一連の作品である。手を加えることなくというのは、(研磨や選別を別とすれば)作家自身の手が入っていないということであり、実際の廃材には想像を絶する力が作用した痕跡が残されている。例えば「ギロチン・シャー」と題された一群の鉄材は鋼鉄をまさにギロチンにかけるかのようにシャーリング、つまり物理的に裁断した廃材であり、このような形に変形するまでに驚くべき負荷がかけられたことが暗示されている。あるいはサラマンダー、火トカゲと題された一連の作品は溶鉱炉から流れ出た鉄をそのまま提示したような形状であり、この場合は非常な高温が鉄を変形させたことは明白だ。私は前者からはかすかにジョン・チェンバレンを、後者からはあからさまにリンダ・ベングリスの作品を連想してしまうが、彼らがそのような加工自体に大きな意味を見出しているのに対して、榎はそのような形に変形した後の廃材そのものの形状や質感に魅せられたのではないだろうか。特に今回、私にとって初見であった「ブルーム」という作品は溶鉱炉から取り出された直後の鉄の状態を示しており、有機的にさえ感じられる上部の開口部(私は映画「エイリアン」のモンスターの卵を連想した)はタイトルのとおり花の開く様子、さらにエロチックな含意をはらんでいる。いずれも鉄という素材の加工について熟知した榎でなければ発見することができなかった思いがけなくも魅力的な廃材の表情である。会場で上映されていたヴィデオに廃品の選別場の中で作業するおそらくは榎の姿が映っていた。榎は強力な磁界を発生する機械を操作して、床一面に広げられた廃材の山の中から磁力によって空き缶など鉄製の廃物を選別し、別の場所へと移す。私は以前、同じ作業所を訪れて榎がこの機械を操作する様子を見たことがある。このヴィデオ作品の驚くべき点は、そこに映し出される情景が作業の工程の一部、機械的な手順であり、一切の芸術的、創造的な創意を欠いている点である。このヴィデオを見て私はダンプカーに満載した液状のアスファルトを斜面に注ぐ模様を記録したロバート・スミッソンのヴィデオを連想した。両者に共通するのは、今述べたとおり、そこに再現されるのが一つの手続きの遂行であって芸術的契機を全く欠いている点である。しかし一つの手続きを厳密に遂行することが一つの作品の本質を構成することを私たちはソル・ルウィットから学ばなかっただろうか。さらに廃墟や廃材(立入規制区域と「がれき」と言ってしまえば今の私たちにはあまりにも生々しすぎる)への関心もまたスミッソンに共有されていた。近年榎が取り組んでいる《RPM》も円形の機械部品を塔状に積み上げたものであり、大都会の摩天楼のシルエットを連想させないでもない。あまりに美的であるという批判もありえようが、各々の部品が一切接合されることなく、単に積み重ねられることによって構成されていると知れば、作品は一転して不穏で非永続的な印象を与える。絵画的な配置の是非については議論の余地があろうが、今回の展示のハイライトであることは明らかだ。
 ところで私は榎の作品のもう一つの系譜についてまだ一言も論じていない。いうまでもなく、それは榎の名を広く世に知らしめ、日本では類例の少ない一連のボディ・アート、具体的には「ハンガリー国に半刈で行く」とBAR ROSE CHUをめぐる作品である。体毛というほとんど先例のない表現媒体を用い、あるいはトランス・ジェンダーを主題としたきわめて早い時期の作品として知られるこれらの作品が本展で周縁的な位置しか与えられなかった理由ははっきりしている。それらは美術館という場に馴染まないのである。前者は演劇や刑罰といった特殊な機会ではなく、片側の体毛を全て剃った異形の身体が日常の中に出現してこそ意味をもつのであり(実際に榎はハンガリーから帰国後も5年近くこの状態で生活した)、後者についても神戸東門街に女装した榎が無料で酒をふるまうバーが、一夜だけ予告なしに出現することに意味がある。実際にはBAR ROSE CHUの開店は関係者に予告されていたようであるが、いつか榎とBAR ROSE CHUについて話した際、榎は偶然入ったバーで(女装した)セクシーなママから酒をふるまわれ、翌日行ってみると店もママも存在しないという一夜の夢を実現することが目的であったと語っていた。この意味でこのパフォーマンスは美術館の外で一度だけ挙行されることに意味がある。その後、キリンプラザ大阪での個展と神戸ビエンナーレの際にもローズ・チューは現れたが、いずれも過去の確認以上の意味はもちえなかったように感じる。
 このほか榎には分譲地の地面を掘削する作品や閉店した喫茶店に奇怪な生命体のような立体を配置した作品など、いくつものサイト・スペシフィックな作品が存在する。これらの作品も本展覧会ではカタログで瞥見される以上の扱いを受けることがなかったことは作品の特質を考える時、特に不思議ではないが、この展覧会に「美術館を野生化する」というサブタイトルが付されていることを勘案するに、この展覧会が美術館で開催されたことの意味は微妙に感じられる。やや辛辣に述べるならば、この展覧会は美術館を野生化するどころか、ひとまず美術館に収容可能な対策をひとまず並べて「榎忠展」の名を冠したという印象が拭いきれないのだ。なるほど展示された作品の総重量は恐るべきものであり、美術館、学芸員の苦労は十分に理解することができる。しかしそれにしても本展覧会がことさらにサブタイトルで美術館における展示であることを強調するほどの工夫があるようには思えない。それは重量物を大量に運び入れた苦労に対して用いられたかもしれないが、美術館という制度にはなんら批判を迫る内容ではない。年譜を参照するならば1994年のことであるが、私は今回も出品された「ギロチン・シャー」がおそらく初めて発表された際に展示を見た記憶がある。作品が置かれたのはJR神戸駅の高架下であり、暗く殺伐とした空間に置かれた無残な鉄塊の印象はなんとも鮮烈であった。同じ作品が美術館の中に設置された時、それはいかにも作品然として(なんと彫刻台の上に置かれた例もあった)迫力に欠ける。さらにいえば、これらの作品を東北で大きな震災があった同じ年に神戸という街で展示することに新たな意味を見出すことも不可能ではなかったはずだ。それらは本来美術館という箱の中に鎮座するにはあまりに獰猛な存在ではなかったか。
1979年の展示で大砲の照準を美術館(正確には当時の学芸員執務室)に合わせたことが示すとおり、榎の作品には美術館を含めた美術を巡る制度への批判が内在していた。しかし今回の展示においてこのような批判は、担当学芸員のテクストのタイトルではないが、うまく「飼い慣らされた」気がする。榎忠という強烈な作家を「飼いならして」でも美術館の中に誘い込むべきか、それとも外で放し飼いにすべきか。その判断は難しく、私が知らない事情も多くあるだろう。美術館と作品の関係を再考する機会を与え、今年見た展覧会の中でも強く印象に残る優れた内容であっただけにあえていくつかの批判を加えた。
by gravity97 | 2011-12-30 15:09 | 展覧会 | Comments(0)