『ART TRACE PRESS』特集 ジャクソン・ポロック

b0138838_22211812.jpg あまりにも遅かったか、それともかろうじて間に合ったか。日本で最初の本格的なジャクソン・ポロック展が開催される直前に刊行された新しい批評誌『ART TRACE PRESS』を手にした読者の胸にはどちらの思いが去来するだろうか
 対談と論文、三本の翻訳、合わせて五篇から成立するポロックの特集は松浦寿夫と林道郎という適任の編集者を得て、スタンダードかつ最新というなかなかぜいたくな内容となっている。すなわちマイケル・フリードとウィリアム・ルービンによるもはや古典と呼ぶべき二つの論文が収録されるとともに、松浦と林による対談、そして沢山遼とマンクーシ=ウンガロの論文は1998年にニューヨーク近代美術館が組織した大規模な回顧展以降の成果を十分に反映して読みごたえがある。
 まず古典的な論文に目を向けよう。マイケル・フリードの「ジャクソン・ポロック」とウィリアム・ルービンの「ジャクソン・ポロックと近代の伝統」はいずれもクレメント・グリーンバーグに由来するフォーマリズムの文脈でポロックのポーリング/ドリッピング絵画の達成を画定した歴史的な論文である。解題の中でも少し触れられているが、前者はケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキー、フランク・ステラという後続する画家たちの存在を前提に、後者は逆に印象派、キュビスム、シュルレアリスムといったフランス絵画の「近代主義的伝統」との関係において、いわば正反対のベクトルの中でポロックの絵画の意味が検証されているが、いずれの場合もモダニズム絵画の結節点としてポロックがとらえられている。言い換えるならば、フランス近代絵画の多様な伝統はその大半がポロックのポーリング/ドリッピング絵画の中に流れ込み、そしてその豊かな混沌の中にルイスからポロックにいたるモダニズム絵画の最後の大輪の花が芽生えたのである。モダニズム絵画史観の核心とも呼ぶべきかかる枠組は1960年代に発表されたこれら二つの論文によって明確に設定されたのである。ポロックというまことに異例の絵画に対してかかる豊かな言説が応接したことは20世紀美術史において特筆されるべき出来事であろう。
 これらの研究がこれまで日本語に翻訳されなかったことが私には不思議である。いずれの論文も単行本に収録されず(訳者の解題にあるとおりフリードの論文は、ほぼ同じ内容が同年にフリードの企画によってフォッグ美術館で開かれた展覧会のカタログにも収録されている。このカタログの入手は困難であるが、現在では98年にシカゴ大学出版局から刊行されたフリードの著作集によって容易に原文を参照できる。一方ルービンの連載は終了後に単行本として上梓されるというきわめて妥当な予告がなされながらも、今日にいたるまで書物としてまとめられていない)、読み通すためには『アートフォーラム』のバックナンバーを繰らなければならないといった不自由はあったかもしれないが、その重要性を鑑みるにかくも長く放置されてきたことは果たして偶然であろうか。大岡信や東野芳明のポロックに関する「文学的」解釈のみが先行し、結果として日本では絵画について形式的に考えることが長い間なおざりにされてきたように感じられる。このような不在は直ちに絵画制作という実践に反映されるだろう。しかしこれはあまりにも大きな問題であり、機会があれば稿を改めて論じることにしたい。いずれにせよ、これら二つの論文に初めて接する多くの読者はフォーマリズム批評の真髄に接することができるだろう。ただしフリードの論文についてはやはり最初に発表された文脈、つまり「スリー・アメリカン・ペインターズ」の一部として読んだ方が、線の自立や物質の視覚化、あるいは盲点としての形象といったポロックの革新の歴史的意義がより明確に理解できるだろう。また「ジャクソン・ポロックと近代の伝統」は可能であれば一挙に全訳を掲出してほしかった。ルービン独特のアクロバティックな分析が冴えるのは今回訳出された部分以降、具体的な作品分析をとおしてポロックをフランス近代絵画と接続させる議論なのであるから。
 しかしひるがえって考えるに、このような批評の鎖国状態は現在も改善されたとはいえないだろう。グリーンバーグについてはごく一部の主要な論文を紹介する選集が刊行されたとはいえ、フリードに関してはクールベに関する論考が論集の一部としてひどい翻訳で訳出されたくらいで、現代美術に関する重要な論文もいわゆる美術史研究と呼ばれるマネやクールベ、あるいは『没入と演劇性』といった画期的な論文も研究者以外にはほとんど知られていない。さらに言えば私たちは一冊のノーマン・ブライソンの訳書もT.J.クラークの訳書も手にしていないし、イヴ=アラン・ボアやロザリンド・クラウスに関してもごく一部の著作しか日本語で読むことができない。くだらぬ美術雑誌はあふれ返っているが、かかる状況は端的に日本の美術批評とジャーナリズムの後進性を示している。
 『ART TRACE PRESS』に戻ろう。日本人の書き手によって執筆された論文のレヴェルは高い。松浦と林による対談はポロックをめぐり、実に多くの問題を提起して示唆的である。自身も絵画を制作し、フランス現代思想にも造詣の深い松浦と、セザンヌを研究し、トゥオンブリーから中西夏之にいたる一連の現代の画家についてきわめて鋭利な講義録を発表している林。最新の知見を踏まえて繰り広げられる二人の議論はポロックの絵画から遠心的に広がり、私自身も多くを学び、同時にポロックについて考える新しい糸口を与えられた思いがある。ドゥルーズのベーコン論との関連などについて私は初めて知った。沢山遼という若い書き手の論文も興味深い。沢山はニューヨーク近代美術館の回顧展のカタログに寄せられたペペ・カーメルの論文(かなり問題のあるというか、そもそも一体何が問題なのかよくわからない論文であった)などを参照しながら、ポロックの絵画の構造の中に、本来異質と感じられる反復性を読み取り、さらに一連のドローイングを介して「隣接性」というメトニミックな原理を指摘したうえでハロルド・ローゼンバーグが提起したアクションという概念に新しい解釈を与えようとする。ミニマリズムとポロックの関係を考えるうえでも斬新な議論であるように感じた。素材と技法に着目したマンクーシ=ウンガロの論文も興味深く読んだ。98年の回顧展に関連して出版されたシンポジウムの記録集に発表された内容であるから最新とは言い難いが、きわめて具体的で説得力がある。私は今回の展覧会を見て、ポロックが一貫して用いたマスキングという技法にあらためて強い関心をもった。ポロックの絵画はその全幅において、つまり具象と抽象を問わず、隠す/隠されるというイメージの両義的な在り方をいかに調停するかという課題と関わっていたように感じたのであるが、マンクーシ=ウンガロの論文はこの問題にいくつかのヒントを与えると同時にポロックという画家の奥深さを改めて印象づける内容であった。
 最初の問いに戻ろう。私はこの批評誌を東京国立近代美術館のブックショップで買い求め、名古屋に向かう新幹線の車中で読み終えた。本書は長らく原書を片手にポロックを研究してきた私にとってはあまりにも遅く、最初の本格的なポロックの展覧会に向かう車中の私にとってはかろうじて間にあったというタイミングで刊行された。2011年秋号と記されているから、今後は季刊のペースで発行されるのであろうか。『批評空間』や『水声通信』が終刊し、美術批評に関してまともな雑誌がほぼ壊滅した状況の中、今後の本誌に大いに期待したいと思う。b0138838_2222339.jpg

28/11/11 追記
文中で触れたルービンとフリードの二つの論文はいずれも98年のニューヨーク近代美術館でのポロックの回顧展に際して刊行された『Jackson Pollock Interviews, Articles, and Reviews』に再録されている。おそらく今回の翻訳もこれを底本としたのではなかろうか。今回、ウンガロの論文に関して同時に刊行された『Jackson Pollock New Approaches』は参照したのであるが、こちらの論集の内容を見過ごしていた。追記して訂正する。
Commented at 2012-02-10 06:19 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by gravity97 | 2011-11-24 22:27 | 現代美術 | Comments(1)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック