RICHARD SERRA DRAWING

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 久しぶりにニューヨークを訪れ、メトロポリタン美術館で開かれている「リチャード・セラ ドローイング」展を見た。作品は期待に違わぬ圧倒的な存在感を示し、あらためてセラという作家の屈強さを思い知る。
 セラのドローイングの大作が国内で展示された機会は少なく、私は10年ほど前にやはりニューヨークでまとめて見た記憶がある。カタログを参照するならばおそらく98年、ガゴーシアン・ギャラリーで開かれた「重量と計測」と題された個展であろう。当時、ミッドタウンにあったギャラリーの壁面を埋め尽くす巨大な漆黒のドローイングの印象はいまも鮮烈だ。この個展は当時の新作によって構成されていたと記憶するが、今回のドローイング展は1970年頃から新作までおおよそ40年の幅にわたってセラのドローイングの全貌を紹介する内容である。
 1976年、バーニス・ローズによって企画され、セラも出品した「ドローイング・ナウ」がニューヨーク近代美術館で開かれた頃からドローイングという概念が応接する範囲は飛躍的に広がった。いうまでもなくそれはコンセプチュアル・アートの登場によってドローイングという概念が一新されたためであり、それまでどちらかといえば予備的、余技的な位置づけを与えられていたドローイングそれ自体に独自の意味、価値が認められることとなったのだ。この結果、文字や数字、いたずら描き、建築の下図や楽譜にもドローイングという概念が適用されることとなった。しかしこのような拡張は必ずしも絵画そのものを深める契機とはなりえなかったように感じる。それどころか本ブログでも何度か批判したとおり、現在の日本で流行する幼稚で稚拙な絵画がその「ドローイング性」のゆえに評価されるといった倒錯さえ発生している。私は稚拙さの言い訳としてドローイングではなく、真のドローイング性を備えた作品と出会いたい。そしてセラの個展はこのような願いに応える内容であった。
 今回の展覧会にはいくつかの種類のドローイングが出品されている。個人的に関心をもったのは小ぶりのスケッチブックに描かれた立体作品のプランともいうべきドローイングである。例えばグッゲンハイム、ビルバオに設置された《スネーク》、あるいは取り壊された《傾いた弧》といった代表作のためのドローイングはきわめてシンプルでありながら、一見しただけでどの作品か了解することができる。この点は画家としてのセラの力量を暗示するとともに、常に身体との関係でとらえられてきたセラの立体が作家にとって視覚的にも把捉されていることをうかがわせて興味深かった。中でもストームキングアートセンターに設置された一連の立体は半ば地中に埋まり、視覚的にとらえることが難しく、また設置にあたってセラと友人が自らの身体を一種のメジャーとして位置を定めたと記憶しているのだが、その配置のニュアンスがきわめて単純な形態の中に手際よくまとめられている点には驚いた。これらのドローイングはこれまであまり発表された例がなく、セラの仕事の知られざる一面を紹介している。
 しかしながら本展のみどころはいうまでもなく美術館の壁面を覆う巨大な黒いドローイングである。ペイントスティックをひたすら塗り込んだ寡黙で無表情な作品はセラの立体と同様に見る者を突き放すかのようである。展示の中にはセラが活動の初期に発表した有名な「ドローイング」、《動詞のリスト》が展示されている。そこには「転がす」「曲げる」に始まる無数の他動詞がリストとして列挙されている。この展覧会に《動詞のリスト》が加えられたことは示唆的であろう。なぜならセラのドローイングとはdraw、「描く」というよりは「線を引く」ことの本質と深く関わっているからである。よく知られているとおり、セラの初期の作品はこの動詞リストに挙げられた行為を延々と繰り返すことによって特徴づけられている。鉛を引き裂き、巻き、重ねる。作品が単純な行為の繰り返しとして実現され、結果として生成される形式よりも作品が生成される過程が重視される。セラは当時を回顧するインタビューの中で60年代後半にあって、同様の関心が例えばエヴァ・ヘス、ロバート・スミッソン、マイケル・スノウあるいはフィリップ・グラスといった多様なジャンルの作家に共有されていたことを述懐している。この意味においてドローイングというタイトルを冠せられた展覧会の中に《鉛をつかむ手》《床をこする手》といった初期の映像作品も加えられている点はきわめて適切に感じられる。鉛を中心とした不定形の素材が使用された作品、映像作品、そしてドローイングにおいてはいずれも反復される行為が主題化されている。
 この点を念頭に置くならば、セラの寡黙なドローイングの本質を理解することは比較的たやすい。セラのドローイングにおいても作家の関心は結果としての作品ではなく、線を引くという行為そのものに向けられている。セラのマッシヴなドローイングにおいては線を引く行為自体も異例きわまりない。カタログ表紙の写真から明らかなとおり、作家は通常のペイントスティックではなく、ブロック状に固めたそれを画面にこすりつけるようにして線を引いている。作品が無表情たるゆえんも明らかだ。そこには線によって何かを表象しようという意志は存在せず、ただ苦役か苦行のごとく行為が反復される。このような姿勢から連想されるのは単純な作業を一つの規則に従って延々と続けるソル・ルウィットのごとき仕事であり、この点は広義のドローイングとコンセプチュアル・アートの親近性を暗示している。セラのドローイングの本質はそれが実現された形式ではなく、塗るという行為の中に宿る。それはセラの立体がやはり作品としての形状よりも、現実の空間への介入、あるいは重量や重力といった力の拮抗をその本質としている点と共通している。セラの作品はなにごとも語ることはない。しかし今はしなくも苦役や苦行と言葉を用いたが、延々と反復される行為や危うい均衡のうえに屹立する重量は、作品に内在する、いや作品に充満する力を暗黙裡に示しているのではなかろうか。セラの作品における寡黙はミニマル・アートにみられた知的で洗練されたそれではなく、一種の凶暴さを秘めており、それゆえ私にとってきわめて魅力的に感じられる。偶然ではあるが、同じ時期に近くのグッゲンハイム美術館で李禹煥の個展が開催されていた。この展示も悪くはなかったが、セラの後で訪れるならば両者の作品の本質的な相違は明らかである。
 しかしながら会場を一巡して私は一抹の不安も感じないではなかった。主に2000年代に入って制作された一連のドローイングは素材の物質性が強調され、ペイントスティックの残滓であろうか和紙系の支持体の効果であろうか、表面に妙に生々しい精彩が認められるのだ。このような効果はセラのドローイングの特質である行為の集積としての緊張感を著しく殺ぐ。加えて、以前の作品にも認められない訳ではないが、多くの作品でドローイングは画面の中央に円形、あるいは渦巻状の形状をかたちづくり、支持体の内部に余白が生じる。ステラのブラック・ペインティングを連想すれば理解されるとおり、支持体の形態とドローイングの形態が一致しない場合、作品内に強度の違いが発生し、ドローイングの一体性が損なわれている。ひるがえって考えるに、私はセラの立体においても曲線の形状が認められるようになってから、それまでの暴力的で直截な印象が薄れたような気がしてならない。優美な曲線のうねり、ニュアンスに富んだ表面。立体においてもドローイングにおいても、セラの近作に一種の洗練を指摘することは可能であろう。しかし洗練とはセラの作品とは本来無縁であるべき言葉ではなかっただろうか

by gravity97 | 2011-08-27 22:06 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


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