ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

堀江邦夫『原発労働記』

b0138838_20532788.jpg
 福島第一原子力発電所の事故はいまだに収束の糸口さえ見出せないでいる。唯一明らかになったのは、この事故に関して東京電力と政府は国民に対して一切情報を開示する意志がない点である。もはや東京電力や原子力安全保安院が自分たちにとって都合のよい情報以外を発表すると信じる者はいないだろう。私たちは自らの手で情報を集め、自らの頭で分析しければならない。さいわいこの問題に関して比較的正確な分析を提供してくれるであろう何人かの論者の著作が既に発行されている。さらに私たちはインターネットを介して通常であれば知り得ない情報にもアクセスすることができる。いかなる情報と分析を得ることが出来るかは端的に3・11以後のサヴァイヴァルと関わっている。幼い子供をもつ身として私はこの数ヶ月、きわめて切実な思いとともに本や雑誌を読み、インターネットを検索した。
 先日、私は東京を訪れる(正確には東京を経由して旅行する)機会があった。私は震災の直後にも東京に滞在することがあったが、震災後に感じられた息詰まるような緊迫感が早くも奇妙に薄らいでいる気がした。もちろんこれは旅行者である私が数時間滞在した印象であるから、実際に東京が今どのような状況であるかについて正確な判断とはいえない。しかし例えば小出裕章も上に掲げた近著の中で次のように述べている。「ところが時間が経つにつれ、事故の成り行きに楽観的な見方が広がっているようです。1、3号機の原子炉建屋が吹き飛ぶショッキングな映像が流れていた頃、多くの人が西日本や外国に逃げました。首都圏で乳児の摂取制限を超える放射能ヨウ素が検出された頃、人びとはミネラルウォーターの買い占めに走りました。マスクをつけて街を歩きました。ところが報道が少なくなったこともあるのでしょうか。『何とかなりそうじゃないか』という雰囲気が漂っています」続いて小出はこのような楽観論が何の根拠も持たない点を指摘し、最悪のシナリオとしていまだに解決をみていない原子炉が水蒸気爆発を引き起こし、炉心の露出に伴う放射能汚染によって首都圏が壊滅する事態までも想定している。むろんこれは一つの、そして最悪のシミュレーションである。しかし無数の情報が入り乱れる中で、どのような情報を選ぶかは今や私たちの生死に関わる。私が信を置くのは、事故後に突然転向して放射線の危険を唱え始めた原発推進派の学者たちではなく、かねてより原子力発電の危険性を指摘し、それゆえ疎んじられてきた小出のような学者の見解だ。事故後に執筆された小出の書き下ろしは事故の本質と今後の推移を考えるうえで示唆に富む。
 ところで今回の事故を受けて、かねてより原発に批判的だった人々の間にも一種の無力感が蔓延しつつあるような気がする。それは原発を批判しつつもその本当の恐ろしさを知らず、有効な手立てをとらなかったためにこのような大惨事が出来してしまったという自責の念に由来し、放射能の影響が中学生以下の若年層、つまり原発に直接の責任をもたない世代に最も苛酷に現れるという事実はこのような無念さを増幅させる。しかし一方でそれゆえ原発を推進した者が免責されるという倒錯は徹底的に批判されねばならない。いずれのメディアであっただろうか、父が東京電力に勤務する小学生が、なるほど会社も悪いかもしれないが、父は真剣に事態に対応しており、原発に由来する豊かな電力を享受してきた我々全てが事故に責任を負うべきではないかといった投書があったことを伝えていた。冗談ではない。実際に「小学生」による投稿であったか否かについてはひとまず措くにせよ(原発推進シンジケートによってこのような情緒に訴える「投書」が捏造された可能性を私は否定しない)、これは第二次大戦に対する一億総懺悔論と同様の恥ずべき責任転嫁である。刑事処罰も含めて、そして時間的に遡行しても徹底的に責任を追及されるべきは第一に東京電力を筆頭とする電力会社、そして「国策」と称して原子力発電を推進した官僚と政治家たちである。なぜなら彼らは以前より原子力発電の本質的な非人間性と差別性を熟知していたに違いないからであり、私たちが「知らなかった」のではなく、当然伝えるべき情報を彼らが「知らせなかった」のだ。
 私がこのように確言できるのは本書を読んだためである。私は既に1980年代後半、チェルノブイリ原発事故の直後より広瀬隆から水戸巌、高木仁三郎にいたる反原発のイデオローグの著作に親しんでいたつもりであった。しかし最初1979年に『原発ジプシー』というタイトルで現代書館より刊行され、改稿改題のうえ、あらためて出版された本書をこれまで読んでいなかったことは大いに悔やまれる。本書を通読する時、電力会社の暗部、原子力発電所というシステムの犯罪性は最初に本書が刊行された時点で既に明らかであったからだ。
著者の堀江は1978年9月から約半年にわたって、日本各地の原子力発電所で下請け作業員として定期点検に従事する。具体的には福井県の美浜原子力発電所、そして今回の事故を引き起こした福島第一原子力発電所、そして再び福井県の敦賀原子力発電所である。わずか半年の作業を記録したルポルタージュであるが、この短い体験をとおしても原子力発電所がほとんど犯罪と呼んで差し支えない虚偽と搾取、欺瞞と差別のうえにかろうじて成立したシステムであることが明確に浮かび上がる。ことさら新しい知見は得られない。劣悪きわまりない作業環境、杜撰な放射線管理、事故や問題をなりふりかまわず隠蔽しようとする労務体制、複雑な下請け、孫請けによって何重にもピンハネされる給料、そして何よりも放射能障害の恐怖。このような過酷な労働条件から私が連想するのは大陸から強制連行された人々によって維持されていた大戦前の炭鉱であるが、本書でも日本人労働者が作業できないような高線量区域での仕事に従事するためにゼネラル・エレクトリック社から福島や敦賀に大量に派遣される「英語もろくに話せない」外国人労働者についての記述がある。作業員を確保するために暗躍する手配師たちとともに、これらの作業員の存在は原子力発電所の闇の部分を象徴している。下請け作業員たちに危険な汚れ仕事を押し付けながら、原発内で電力会社の社員を見かけることはほとんどない。その一方、休日には乗馬に興じる様子が地元の新聞に紹介されるというのだ。そして堀江の跋文によれば、今日にいたるまで非社員の作業員の被曝量は変わることなく大量であるのに対し、社員の被曝量はごくわずかで、しかも年ごとに逓減している。今、福島第一原子力発電所内で作業にあたっている人々がどのような位階構造をとり、それぞれがどのように異なった被曝環境の下にあるか、本書を読むならば容易に推測することができる。
 10年ほど前、仕事のために北陸線で金沢に向かっていた折、私は敦賀原発で作業に従事していると思われる数人の作業員の会話を偶然に耳にした。季節は真冬であったが、彼らは除染のために冷水のシャワーを浴びること(彼らによれば温水では放射性物質が除去できないとのことであった)が大変に辛いと口々に不平を述べていた。本書にも同様の記述がある。堀江が作業に従事したのは30年以上も前であるからこのエピソードはそれから20年以上が経過した後も状況が全く改善されていなかった点をはしなくも示している。車中の作業員たちが従事していた作業は堀江と同様にテイケン(定期点検)であっただろう。今回の事故と関連して、日本で現在稼動している原発が何基あるかといった図が示されることが多い。以前より私は「日本の電力を担っている」はずの原発の半分近くが常に定期点検中であることに不審の念を抱いていたが、本書を読んでこの点も理解できた。原発を稼動させるためには定期的な点検が不可欠であり、そのためには多くの下請け作業員が必要なのである。そして本書で詳しく記述されているとおり、この作業の中で多くの労働者は不可避的に被曝する。逆に言うならば、下請け作業員たちの大量被曝を前提とすることなしに原子力発電所を運転することは不可能なのである。
 半年ほど各地の原発のテイケンを渡り歩いた後、堀江は肉体的にも精神的にも限界を感じ、さらに被曝の高線量に恐怖を覚えて、退職を決意した。堀江の場合、このルポルタージュを書くことが就業の目的であったから、退職という選択肢がありえた。しかし本書の中に登場し、堀江と人間的な交流をもった多くの同僚たちには退路がない。低賃金で収奪され、被曝によって精神的、肉体的に疲弊し、使い捨てられていく無数の下請け作業員たちによって原子力の「明るい未来」は支えられているのだ。私はあらためて原子力産業に関連する利権の巨大さとその構造的な非人間性に戦慄を覚えた。いうまでもなくそれは私たちが大量の電力を消費していることと全く無関係の問題である。今、福島第一原発ではテイケンとは比較にならないほどに困難で大規模な復旧作業が続けられている。作業員が足りなくなることも危惧されているというが、このような異常事態の中で一体どのようにして作業員がかき集められ、どのような労務管理のもとで作業が続けられているのか。当然ながら東京電力が詳しい情報を発表することはないし、発表されたとしても誰もそれを信用しないという退廃の中に私たちはいる。
 これほどの事故があった以上、原発が設置された地方自治体も現在定期点検中の原発に容易に運転再開の許可を与えると思えない。全ての原発が運転を停止し、それでも電力が不足しないことが判明した時、おそらくこの国は初めて原子力発電という呪縛から自由になる。そしてこの災厄から私たちが何かを学ぶことができるとすればこれ以外の道はありえない。しかし果たしてそのための時間は私たちに残されているだろうか。b0138838_2054044.jpg
by gravity97 | 2011-06-13 20:55 | ノンフィクション | Comments(0)