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Living Well Is the Best Revenge

岡田温司『半透明の美学』

岡田温司『半透明の美学』_b0138838_2215672.jpg 思想家であればラカン、ジョルジョ・アガンベンからジョナサン・クレーリー、概念としては無意識や生政治(ビオス)、注意(アテンション)。岡田温司の著作はルネッサンスから現代美術にいたる様々な美術の営みを、多く美術史の外部で提起された人文学の新知見に基づいて分析する犀利さが持ち味といえよう。今回、本書で扱われるテーマはタイトルからうかがえるとおり「半透明」である。
 美術における半透明という言葉から一つの問題系を連想することはさほど難しくない。透明と不透明という対比を措定するがよかろう。ルネッサンスからデカルト的合理主義にいたる系譜が透明性に価値を見出したのに対して、モダニズム美術においてはメディウムの特性、絵画においては表面の物質性、不透明性が強調された。この点は写真のごとき澄明な視界が開ける近世の風景画とクリフォード・スティルの視線をはねつける画面を比較するならば、端的に了解される。このディコトミーの間にあえて半透明という第三項を提示する時、本書の批評的な位置は自ずから明らかである。
 最初の章を岡田はロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアによって提起されたアンフォルムという概念から説き起こす。アンフォルムとは彼らが1996年にポンピドーセンターで企画した名高い展覧会の名でもある。翻訳が完了したとは聞くがいつまでも刊行されないカタログの日本語訳も待たれるところであるが、確かに合理主義とモダニズム、共に距離をとる「半透明」という概念を説くにあたってアンフォルムは適切な出発点である。なぜなら「不本意のモダニズム」というサブタイトルが冠せられたこの展覧会は本質においてモダニズム美術への批判であり、同時にアンフォルムという概念をバタイユから得ている点から明らかなとおり、西欧の合理主義への対案を示すものでもあるからだ。続いて岡田は絵画の起源として影と痕跡と鏡像を挙げ、いずれも媒介性、半透明性と関係がある点を指摘する。巧妙な導入であり、引き続き絵画の問題が扱われることが予想されるのだが、次章で岡田は突如アリストテレスの「ディアファーネス」という概念を導入して議論の方向を変える。私の印象としては本書の奇数章はきわめて具体的で示唆に富むが、偶数章は問題が抽象化され、それぞれの思想家に通暁した者でなければ議論を追うことが難しい。すなわち第2章においてはアリストテレスからアヴェロエス、ロジャー・ベーコン、ダンテといった古代から中世、ルネッサンスにいたる哲学者や作家が論じられ、第4章においてはメルロ=ポンティ、ドゥルーズ、ジャンケレヴィッチそしてデュシャンという20世紀の思想家や作家について言及される。岡田によれば彼らが提起する議論はいずれも半透明の美学と深く関連しており、従来の芸術観を乗り越える可能性を宿している。アリストテレスやアヴェロエスといった古典的な哲学者についいて私は全く無知であり、正直に言って第2章に関してはほとんど理解できない。おそらく多くの読者にとっても読み解くことは難しいのではなかろうか。「半透明」という問題系を歴史的に遡行する岡田の意図は理解できるが、それは視覚的な問題と関わっているはずであるから、聖書やダンテの著作と関連づけて論じられても判然としない印象を受けるのである。第4章においては半透明が今述べた四人、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、ジャンケレヴィッチ、デュシャンという(ジャンケレヴィッチを除いて)比較的知られた思想家と作家によって提起された「肉」、「クリスタル-イメージ」、「何だかわからないもの」、「極薄(アンフラマンス)」という四つの概念と結びつけられて論じられる。ここでもセザンヌの絵画やネオ・レアリズモの映画と関連づけて論じられるメルロ=ポンティやドゥルーズについての記述は比較的わかりやすいが、ジャンケレヴィッチとデュシャンにおける半透明性の主張はやや強引に感じられる。「半透明」という主題に即しながらもドゥルーズのベーコン論ではなく「シネマ」への思いがけない跳躍、あるいはジャンケレヴィッチに関してこれもまた思いがけない『失われた時を求めて』中の《デルフトの眺望》の挿話への言及など、話題としては個人的にさらに深めたい問題もあるのだが、この章をとおして必ずしも岡田のいう「半透明の星座(コンステレーション)」が明らかになったようには感じられないのだ。
 本書の読みどころは「半透明のイコノグラフィー」と題された第3章であろう。ここで岡田は灰色、埃、ヴェールという三つの概念を手がかりに具体的な作品をとおして「半透明」という概念の射程を検討する。ゲルハルト・リヒターに始まり、パウル・クレー、フランシス・ベーコン、ジャコメッティからモランディ、そしてデュシャンの作品が俎上に上げられる一方で、ドラクロア、スーラ、コレッジョからレオナルドといった画家の作品も参照される。ディディ=ユベルマンがいう「アナクロニズム」を例証するかのように時代も表現も異なる作家たちが一つの主題のもとに次々に召還される議論は刺激的である。古典的絵画の範例としての透明な絵画とも、モダニズム絵画の理念である不透明の絵画とも異なった不透明な絵画の系譜はきわめて独特である。例えばリヒター、ベーコン、モランディの三人の名を挙げてみるがよい、いずれも全く共通点がなく、一筋縄ではいかぬ作家たちでありながら、20世紀絵画の本質を体現しているとはいえないか。
 半透明という問題に関して、本書においてはアリストテレスからデュシャンまで、体系的な記述が試みられているが、私の感想としてはむしろ思想家、作家に即して個別に検討した方が問題の輪郭が明らかとなったのではなかろうか。ここで示唆された問題から私はいくつもの関連する具体的な作品を連想することができる。例えば文中でも言及があるとおり、ゲルハルト・リヒターの場合、半透明という主題に連なる一連のグレイ・ペインティング以上に興味深い作例として巨大な鏡のごとき表面をもった絵画が存在する。DIAビーコンで見る者の姿を鈍く反映するこれらの作品の前に立ち、私は非常な衝撃を覚えた。鏡とも物質ともつかないこのような表面は少なくとも絵画のそれとしては類例がない。いうまでもなくそこには鏡像の問題も介入する。あるいはポロックのポアリング絵画についてそれがイメージを誇示/隠匿することによって成立すると考えるならば(この理解の妥当性については大いに議論の余地があるにせよ)、ここにも半透明という概念を適用することができないだろうか。この時、半透明性は痕跡性と深く結びつくはずである。あるいは半透明性とは文字通りモーリス・ルイスのヴェイル絵画とも親和的な概念であり、ルイスの絵画の「視覚性」「平面性」に疑問を投げかける。ここで鏡像や痕跡という言葉を用いたことには意味がある。本書の中で同じ著者による、本書と対をなす『絵画の根源へ―影・痕跡・鏡像』という研究が近く上梓されることが予告されている。半透明という問題は聖書から映画まで射程が広いが、むしろ対象を限定した方が深い分析が可能となるはずだ。そしておそらくそれは絵画という場において最も多産な概念ではないだろうか。タイトルにある影、痕跡、鏡像はこれまでの岡田の著作の中で何度も論じられてきた主題であり、予告される新著が大いに期待されるゆえんである。そしてその前哨という意味において、さらに内容の深さにおいて本書もまた繰り返して読むに値する。

27/01/11追記
本文中で言及のある『アンフォルム』の翻訳はごく最近刊行され、私も本日入手した。この画期的な「事典」についてはこのブログで近くレビューすることとなるだろう。
by gravity97 | 2011-01-20 22:15 | 批評理論 | Comments(0)