保苅瑞穂『プルースト 読書の喜び』

 『失われた時を求めて』については既に何度かこのブログでも触れた。この大著の翻訳をめぐって、昨年いくつかの動きがあった。11月に吉川一義の新訳による岩波文庫版全14巻の刊行が開始され、それより少し早く光文社古典新訳文庫からも高遠弘美の手で全巻訳し下ろしの初巻が刊行された。この機会に再読したいとも考えているのだが、いずれの翻訳も全巻完結までにしばらくの時間が必要とされるだろうし、読み始めたら最後、ほかの本が読めなくなってしまうことも懸念され、新訳を手に取るにはいたっていない。やはり留学か長い海外出張の折に携えるのがよいかもしれない。代わりにプルーストを読む楽しみを語った格調高いエッセーを読む。
 この大長編については私なりに思うところも多いが、もちろんフランス語で味読する能力はないし、小説のテーマについて論じようにもあまりにも長大かつ豊饒な内容であるため、整理することが難しい。この時、フランス文学の碩学にして実際にプルーストの翻訳者でもある筆者が語る読書の喜びはまことに適切な導きであるように感じられる。例えば「水中花のように」と題された第二章で筆者は有名なプチ・マドレーヌの挿話に即しながら、そこでフランス語における時制が巧みに使い分けられ、具体的には過去形と現在形を混在させつつその緩衝として不定法動詞を配すといった巧みな構文によって情景が生き生きと浮かび上がるさまが説得的に説明される。翻訳では必ずしも判然としない原語のニュアンスについて私たちは多くを知ることができる。もちろん作品に即して文法を学ぶことが目的ではなく、この豊かな小説が周到な形式的配慮の上にも成り立っていることを私たちはあらためて了解するのである。
 『失われた時を求めて』同様、本書も読みどころが多い。例えば吉田秀和に捧げられた第三章ではこの小説の中で音楽という主題がいかに描出されているか、実に丹念に論じられている。もちろん筆者も論じるとおり、音楽という、本来的に言語化することが困難な対象をプルーストがこの小説の中で精彩に富んだ言葉を用いて表象していることもみごとなのであるが、この長い小説の随所に現れる音楽のモティーフがいかに登場人物の内面と関わっているかを論じる保苅の分析も素晴らしい。保苅の文章をとおしてヴェルデュラン夫人の夜会で聞いたソナタの一楽節は登場人物の一人、スワンにとって愛人オデットとの官能的な記憶、そして恋の苦しみと深く結びついていること、音楽的記憶が浮かび上がるのだ。確かに私たちも偶然聞いた音楽によって様々な感情がよみがえる体験を味わうことがある。記憶の回帰を一つの主題とするこの小説の中でプルーストはプチ・マドレーヌやヴェネツィアの舗石を契機として、このような回帰について幾度となく語る。長い小説を読み継ぐ中では往々にして読み過ごしてしまうこのような挿話相互の照応を筆者は音楽という主題に関してもみごとに探り当て、流麗な訳文とともに私たちに説明してくれる。
 以前このブログに記したとおり、ノルマンディーの海辺の町、バルベックに逗留する主人公のもとに、後の物語で主人公と恋仲になるアルベルチーヌという娘を含む「花咲く乙女たち」が姿を現すシーンは私にとってこの小説の中でも最も印象深いシーンである。「海と娘と薔薇の茂み」という章でこの情景に関する詳しい分析があることも嬉しい。私はこの情景がかくも強い喚起力を帯びていると感じるのは単に個人的な感慨かとも思っていたが、本書を読むとこの場面の表現がきわめて入念に構想されており、小説全体のテーマとも深く関わっていることが理解される。これほど長い小説であるにも関わらず、細部が全体のテーマと密接に照応し、しかも細部の表現がよく考え抜かれているのである。保苅が示す一例を引こう。「花咲く乙女たち」が最初に登場する際に、彼女たちの一団をプルーストはまずロングショットでとらえ、風景の中の「斑点」と記述する。この箇所から原著で30頁ほど進んだ箇所でプルーストは彼女たちの少女時代に思いを馳せ、同じ「斑点」という言葉を用いている。もちろんこのような言葉の一致は意識的であり、この二つの言葉の間には時の経過にともなう移ろいと同一性が暗示されているのである。さすがにここまで精緻な読解は保苅ほどのプルースト読みでなければできないだろうが、本書ではいたるところでこのような仕掛けや構想の妙がきわめて具体的に解き明かされるのだ。同じ著者には『プルースト・印象と隠喩』という研究があるが、この著作が学究的なプルースト研究としてやや硬い印象を与えたのに対して、本書ではタイトルのとおり、読書の喜びというテーマに沿って筆者も肩の力を抜き、しかしながら驚くべき観察力と綿密さでプルーストの大著を読み解いている。
 汽車や電話といったテーマを扱った章もプルーストの現代性を考えるうえで非常に興味深く感じられたが、本書の圧巻はやはり「死の舞踏」と題された最終章、『失われた時を求めて』においてもクライマックスであるゲルマント大公夫妻の邸宅におけるマチネを扱った章であろう。知られているとおり、この場面はこの長大な物語の最後に位置し、登場した人物たちが次々に集まってくる極めて印象的な箇所である。(余談であるが、私はこの箇所からいつもクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」の終幕を連想してしまう)それまでの物語の中でそれぞれに強い印象を与えた登場人物たちは皆一様に同じ相を刻まれている。それは老いである。時を主題とした小説にとって必然であろうか、彼らの多くは老残あるいは落魄という言葉がふさわしい。ゲルマント公爵、シャルリュス男爵。かつて権勢を誇った人物の現在は無残である。しかし老いとは万人にとって避けることができない。物語の語り手たる主人公もこの場で自分の老いを自覚したこと、老いという概念の抽象性について筆者は語る。老いの先にあるのが死であることはいうまでもない。しかしプルーストは最後の場面に死に抗する二つの希望を置く。一つはジルベルトとサン・ルーの娘、サン・ルー嬢である。うかつな話であるが、本書を読んで彼女がジルベルトの属すメゼグリーズ、サン・ルーの流れを汲むゲルマントという二つの流れの合一を体現する象徴的な存在であることに私は初めて気づいた。老醜無残な面々の中に唯一人香り立つような美しい娘の存在は確かに一つの希望である。富と名誉の結節点に位置するサン・ルー嬢はやがて名もない文学者を夫としてつつましい生活を送ることになる。ここには死に抗するもう一つの希望が暗示されている。それはいうまでもなく芸術である。フェルメールの絵の前で絶命するベルゴットの挿話を引きながら保苅は死に対抗する営みとして、プルーストが芸術を措定していることを示唆する。このような対照を念頭に置く時、私はこの長大な小説が本質において芸術家小説でありエルスチール、ヴァントゥイユそしてベルゴットといった登場人物を介して、美術が、音楽が、そして文学の本質が幾度となく物語の俎上に上げられることの意味をよりよく了解することができた。
 本書は文字どおり全編本を読むことの喜びに満ちている。幾度となく語られる(プルーストに限定されない)読書体験の楽しさは読書が好きな者にとっては誰しも共感される内容であろう。本書を通読するならば、もう一度最初から『失われた時を求めて』の頁を繰りたいという誘惑には抗しがたいものがある。思わずかつて読んだ巻を書架から取り出してみた。読み始めた日と読み終えた日を書き入れた覚えがある。読み始めたのは2004年1月17日、ほぼ7年前、厳寒のニューヨークであった。b0138838_20583133.jpg
Commented at 2011-08-14 00:09 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by gravity97 | 2011-01-14 21:01 | 海外文学 | Comments(1)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック