ポール・オースター『オラクル・ナイト』

b0138838_23264126.jpg 小説を読むことの愉しみをこころゆくまで堪能させてくれる作家。私にとってポール・オースターはそのような作家である。このブログでも取り上げた前作『幻影の書』はテーマ的に重すぎて、必ずしもオースターの本領が発揮された印象を受けなかったが、ニューヨークを舞台とした本書は紛れもなくオースターの傑作である。マンハッタンに舞台を限定した物語は初期のニューヨーク三部作以来久しぶりではないか。オースターとマンハッタン、クリスマス休暇にはうってつけの読み物であろう。
 オースターの初期作品には「エレガントな前衛」というキャッチコピーが付されていたように記憶する。オラクル・ナイト、神託の夜。本書もまた愛と不信をめぐるきわめてエレガントな物語である。本書ではオースターが得意とする物語内物語という手法が効果的に用いられている。主人公、シドニー・オアは大病から復帰したばかりの小説家である。彼と妻グレース、二人の共通の友人であるジョン・トラウズの三人が主な登場人物であるが、オアが書く小説や映画のシノプシス、あるいはトラウズが若き日に書いた寓話的小説などが作品内にいわば垂直に挿入されることによって物語は厚みを帯びる。
 オアはリハビリテーションを兼ねた散歩の途中、新しく開店したムーン・パレスならぬペーパー・パレスという文房具店でポルトガル製の青いノートを買い求める。この行為によって物語が起動し、文房具店主チャンもまた入り組んだかたちで物語に関わることとなる。物語自体も入り組んでいる。オアは青いノートに退院後初めての小説を書き始める。オアの小説、編集者ニック・ボウエンをめぐる物語の中に登場し、ボウエンの運命を変えることとなる小説のタイトルもまた『オラクル・ナイト』である。『オラクル・ナイト』の作者シルヴィア・マックスウェルの子孫であり、ボウエンのもとに原稿を届けたローザ・レイトマンなる女性に一瞬にして魅惑されたボウエンは妻イーヴァを置き去りにして奇妙な失踪を遂げる。イーヴァの造形にグレースの面影が深く関与していることからも理解されるとおり、オアとグレース、ボウエンとイーヴァという二組の夫婦は小説の中でパラレルな関係にある。さらにオアがボビー・ハンターというハリウッドの映画監督に依頼されて執筆するH.G.ウエルズの『タイム・マシン』の翻案、ボウエンの物語の中に登場する『オラクル・ナイト』、そしてトラウズが自らの若書きとしてオアに手渡す「骨の帝国」という政治的寓話。この小説の中にはいくつもの別の小説が重層的に織り込まれ、物語の奥行きをかたちづくっている。興味深いことにオアの物語の中に挿入されるこれらの物語はいずれも完結することがない。『タイム・マシン』の翻案は最終的に採用されず、「骨の帝国」の原稿にいたっては満員電車の雑踏の中に置き去りにされる。ニック・ボウエンをめぐる「架空の」物語における名前の喪失あるいは監禁といった主題はオースターの「現実の」小説である『幽霊たち』や『偶然の音楽』を連想させるが、ボウエンの物語はきわめて印象的な場面で中断され、再開されることはない。個人的にはオアの物語以上にボウエンの物語の帰結を見届けたいようにさえ感じた。過剰とも思われる物語の錯綜は何を意味しているだろうか。私の考えではそれは語ることへの希望である。オースターの場合、作家が主人公という小説が多く、いずれも彼らが何かを書き始めることによって物語は幕を開ける。いうまでもなくオアもまたオースターによって書き留められた人物である。あなたが読んでいるポール・オースターという現実の作家の小説『オラクル・ナイト』の主人公オアは別の小説の主人公ボウエンを創造する。そしてボウエンもまた『オラクル・ナイト』という別の小説の読み手なのである。このようなチャイニーズ・ボックスの構造は次のような可能性を暗示するのではなかろうか。私たちはオースターという作家を現実の存在と考え、オアをオースターによって創造された人物とみなす。なぜならオースターとオアは審級が異なるからだ。(ちなみにオアとともに小説中の「架空の」登場人物であるトラウズ Trause の名はオースター Auster のアナグラムである)同様の比較はオアに対するボウエン、あるいはオアと彼が翻案した『タイム・マシン』中のジャックとジルという人物に対しても可能であろう。『オラクル・ナイト』の構造はこのような関係が無限に連鎖しうることを示唆している。この時、読者である私たちが最上の審級にあることは果たして保証されているのか。私たちもまた物語中の人物ではないのか。むろん全ての物語内物語にはこのような問いかけが内包されている。しかしオースターほど優雅にかかる存在論的な問いを投げかける作家を私は知らない。ひるがえって考えるならば、シドニー・オア、あるいはニック・ボウエンはそれぞれオースターとオアが小説を書くことによって初めて存在する。人は語ることによって存在し、語ることによって生きるのである、私が語ることを希望と呼ぶのはこのような理由による。語ることはいかにして可能か、この問いはモダニズムの文学において絶えず問われ、書簡体小説や意識の流れといった多様な技巧が編み出されてきた。「エレガントな前衛」という名のとおり、かかる問題意識を共有する点においてオースターはモダニズム文学の系譜に連なるとともに、この難問をみずみずしい物語の魅力によって軽々と超えてみせる。小説中に子供の溺死を扱った長編詩を発表し、その詩のとおりに自分の子供が海で溺死したことを嘆き、豊かな才能に封印するフランスの詩人のエピソードが登場する。ここで言葉は単に事物を指し示すだけではなく、出来事を起こす力としてとらえられている。言葉が現実を模倣するのではなく、現実が言葉を模倣するのだ。オースターの描くチャイニーズ・ボックス、物語の中の物語にとらえられた読者は、通常であれば一笑に付してしまうであろうかかる魔術的な言語観をなんら違和感なく受け入れるだろう。
 ところで注意深く読むならば2003年に発表された『オラクル・ナイト』に描かれた事件は具体的な年記を伴っている。物語が始まる日、オアがチャンの店に立ち寄る日は1982年9月18日と特定されている。この年、オースターによる最初の小説『孤独の発明』が発表されたことは偶然ではないはずだ。先に述べたとおり、オースターは注意深く主人公のオアではなく友人のトラウズに自分の分身としての役割を与えた。しかし明らかにオアこそがオースターの分身であり、本書は書くことをめぐるオースターの葛藤の記録と読めないこともない。最初に『オラクル・ナイト』は愛と不信をめぐるエレガントな物語であると述べたが、終盤に立て続けに悲劇的な事件が発生し、物語は一つのカタストロフを迎える。そして真実は明らかとされないまま、オアはそもそもの物語の発端である青いノートを破棄する。しかし物語の結末には静かな明るさが満ちているように感じられる。読み終えた時、私たちはオアが再び新しいノートに向かって小説を書き始めることを確信するだろう。そしてこの時、私たちは語ることへの希望をオア、そしてオースターと確かに共有するのである。

by gravity97 | 2010-12-15 23:27 | 海外文学 | Comments(0)
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