2010年 12月 05日
永江朗『セゾン文化は何を夢みた』
本書を通読して、おおよそ1980年代から90年代の初め、つまりバブルと呼ばれた時代に銀座や新宿ではなく池袋と渋谷という街に成立した一つの文化、「セゾン文化」がきわめて異例の事態であったことをあらためて痛感した。時代と場所は重要だ。私もバブル期を体験しているから、当時の空虚な高揚感なくして、あれほどまでに消費を礼賛するコピーが氾濫することはありえなかったことはたやすく了解されるし、池袋と渋谷という、人の行き来はあったとしてもそれまで文化と無縁であった土地だからこそかくも大胆な冒険が可能であったことも推測することができる。本書で言及されるいくつかの店やプロジェクトに関しては既に各種の総括がなされている。セゾン美術館については美術館自身が総括めいた記録を発行しているし、書店リブロに関しては(私自身は未読であるが)関係者による回顧がいくつか公刊されているらしい。しかし「セゾン文化」とは本質において美術館や書店、劇場といった個々のプロジェクトを超えた一つの気風であり、本書のような横断的な視野がなければかかる気風をとらえることは困難であったように感じられる。
本書を読むと「セゾン文化」をめぐる当時のいくつかのキーワードが浮かび上がる。音楽でいえばアンビエントやミニマル・ミュージック、美術であればデュシャンやジョーンズ、高踏的ではあるが、いずれもかなり癖のある趣味や作家であり、「セゾン文化」という非人称の意志のそれなりの見識をうかがわせる。それを可能にしたのはそこに連なる多様な人脈であろう。例えばリブロでラテン・アメリカ文学のフェアを開いた際に、ブラジル文部省の伝手を頼って作家たちのポートレートを集めたはよいが、どの写真が誰かを確認しなかったために、写真にキャプションをつけることができない。困り果てた担当者を前にマルケスやカルペンティエールの顔写真を次々に同定した人物が、当時、日魯漁業でコンピュータ・プログラマーをして荒俣宏だったというエピソードはもはやシュルレアリスムのデペイズマンの世界だ。本書を読んで実に多くの人物、そして意外な人物がそこに連なっていたことを知った。
私が個人的に興味をもったのは西武百貨店の文化事業部長であった紀国憲一に関する記述である。確か紀国は西武美術館の館長も務めていたように記憶する。紀国の経歴が興味深い。ニューヨーク駐在中に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」の初演に立ち会ったという紀国は小樽商科大学を卒業した後、大正海上、電通を経て、堤清二の誘いを受けて西武百貨店に入社し、西武美術館の立ち上げに参画した。以前から感じていたことであるが、西武美術館/セゾン美術館は次々に画期的な展覧会を開きながら、学芸員や関連スタッフにいわゆる美学美術史学系の専門家が少ない。もちろんいちはやくゲストキューレーターという制度を導入したこと、一連のロシア関係の展覧会がいわばトップダウンで決められたことからもわかるとおり、展覧会の企画にあたっては西武百貨店本社、さらにいえば堤清二の意向が強く働いたといった理由もあるだろうが、なんとなく素人集団という印象があった。私は否定的な意味でこの言葉を用いているのではない。美学や美術史に思い入れがないがゆえに逆に次々に斬新な企画を打ち出すことが可能となったのではないかと考えるのだ。紀国はインタビューの中で学芸的な志向の強い人は位置づけ、価値づけができたものしか取り上げないから保守的になる、そういう人は必要ないとはっきり言明している。直ちに首肯することはできないものの、きわめて明確な哲学のうえに美術館の方針が構想されていることが理解されるし、彼が当時、文化事業をポスト・モダンという視点からとらえていたことは「セゾン文化」の背景となったバブル期の日本という特殊な時代を考えるうえで示唆的である。今から考えるならば西武美術館/セゾン美術館の展覧会の独特のラインナップ、そして当時の美術界における独特の存在感には紀国や堤のごとき異業種の発想と手法が大きく与っていただろう。文化事業と経営を両立させることの不可能性、別の言い方をするならば「セゾン文化」の分裂的な本質については堤自身もインタビューの中で述べているが、少なくとも西武美術館/セゾン美術館は特殊な時代と特殊なリーダーを得て初めて可能であった現象であり、それゆえ、時代と指導者が変われば直ちに消滅する運命にあった。美術館が冬の時代を迎え、「学芸的な志向の強い」人々が次々に大学教員へと転身していく今日、それをバブルの徒花と見るか、美術館のユートピアとみなすかは判断の難しいところだ。
本書は堤清二のインタビューに基づいた記事で締めくくられる。例によって多くの文化人との華やかな交流が語られ、消費者の選択肢を広げることがひいては日本人の自立を促すという堤の信念が語られる部分は本書の中で最も鮮烈な印象を与える。一つの企業が文化を戦略として捉え、曲がりなりにも一つの文化を創造したことは日本においてもきわめて異例の状況であった。しかし同時に堤の発言には文化に対する希望というよりはペシミズム、より正確には深いニヒリズムが漂っているように感じられたのは私の思い過ごしであろうか。