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優雅な生活が最高の復讐である

村上龍『歌うクジラ』

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村上春樹の『1Q84』に対抗するかのように村上龍が書いたもう一つの『1984年』、それが『歌うクジラ』だ。きわめて野心的な問題作であり、その内実を検討するためには内容にかなり立ち入って論じなければならない。
読者は冒頭から物語の中に強引に連れ込まれる。そこは性犯罪者や不法移民、毒素を分泌するクチチュと呼ばれる突然変異者が収容された「新出島」と呼ばれる隔離地域であり、このような設定は直ちに『半島を出よ』の冒頭、川崎のホームレス居住区の情景を想起させる。ディストピア小説は村上龍が得意とするジャンルであり、『愛と幻想のファシズム』から『五分後の世界』にいたる作品の系譜を形作っている。この小説で主人公は私たちの生と地続きのディストピア、荒廃した22世紀の日本を旅する。読み進めば了解され、結末でも明らかにされるとおり、この作品の主題は移動である。冒頭で新出島からの脱出を試みた主人公は西日本を横断し、最後は地上から宇宙ステーションへと移動する。
このようなディストピアの由来はタイトルに暗示されている。2022年のクリスマス・イヴ、ハワイ、マウイ島近くの海底でグレゴリオ聖歌中の旋律を繰り返し歌うザトウクジラが発見された。このザトウクジラの皮膚組織や神経組織のDNAを研究する過程でSW(Singing Whale)遺伝子という、人を不老不死にする遺伝子とその副産物とも呼ぶべき人の老化を急激に早める遺伝子が開発された。この発見によって人類の平等という原則が崩れ去る。ノーベル賞受賞者や宇宙飛行士はSW遺伝子を注入され永遠の生に恵まれ、殺人犯や性犯罪者は逆の処置が施されて老化を促される。このような分類を許容する社会は、差別が、階級性が公認された社会である。それから100年が経過した後、世界は「老人施設」と呼ばれる施設で安逸な生を送る少数の富裕層と彼らから遮断され、劣悪な環境で暮らす大多数の人々に二分される。後者は監視ロボットの制圧のもとに無機的な集合住宅に住み、パンと見世物よろしく、棒食と呼ばれる規格食品をあてがわれ、ガスケットという残酷なスポーツに熱狂する。集合住宅の周囲にはさらに犯罪者、移民、異常者らによって構成されたスラムが広がっている。これらの人々の間には全く交通がない。この時、移動が小説の主題となる理由も明らかであろう。老化遺伝子を注入される刑に処せられた父親の遺言に従って、主人公の少年、タナカアキラはヨシマツなる「老人施設」の権力者のもとへと向かう。アキラの移動は空間における水平的なそれであると同時に、階級社会における垂直的な移動でもあり、かかる移動を介して通常では交差することのない社会や階層、思想が攪拌されていくのだ。村上龍は22世紀の『神曲』や『夜の果てへの旅』を書きたかったと述べている。犯罪者の隔離施設に始まり、人種や文化の坩堝と化した奇怪な歓楽街、ホームレスたちが蝟集する羊バスと呼ばれる貧民街、もはや人間の形状をなさない高齢者たちが収容された悪夢のような施設、そして宇宙ステーションへといたる主人公の道行は確かに一種の地獄巡りであり、村上らしい緊張感のある文体と炸裂するイマジネーションは読む者をとらえて離さない。むろんこれは一つのフィクションである。しかし例えば日本でも小泉純一郎が唱えた「改革」が一定の支持を得た後、成果主義の名のもとに今も階級や差別の固定化が進行していることを想起するならば、本書は現実との接点を失っていない。
 この小説がきわめて刺激的である理由は内容以上に形式、端的にその文体に求められる。『歌うクジラ』とは実は言語を主題にした小説である。括弧を用いず、会話を全て地の文の中に入れた独特の文体はこのブログでも何度か取り上げたコーマック・マッカーシーなどとも共通し、語りにおいて状況と会話が区別されず、文章に対する集中を絶えず読む者に要求する。主人公の移動を可能としたのは父親のデータベースを介して習得した敬語を話す能力であった。なぜなら2050年代に始まった文化経済効率化運動の中で禁止され、もはや使用されていない敬語が薬物の闇取引に際して必要であったからだ。管理社会を言語の使用の問題と関連させたこのようなエピソード、そして「文化経済効率化運動」という言葉から、ジョージ・オーウェルの『1984年』における「ニュースピーク」を連想しないでいることは難しい。「ニュースピーク」とはオーウェルが描く全体主義国家、オセアニアの中で使用される極度に単純化され、語義が制限された語法であったが、オーウェル同様、村上も社会の管理が言語の統制をとおしてなされることに意識的である。それゆえ本書において最も注目すべきは、助詞の変則的使用という表現の形式なのである。サブロウというクチチュの男とアンという娘とともに監視ロボットの群れから逃れた主人公はアンの仲間である反乱移民たちと行動をともにすることとなる。反乱移民の頭目であるヤガラは主人公に向かって最初に次のように語りかける。良い発音からイントネーションをほぼ完璧だろう。正しくは、良い発音とイントネーションはほぼ完璧だろう、であろう。日本語の場合、助詞の使用によって文意は大きく変わる。したがって移民の能力を判定するにあたって助詞の使用にどの程度習熟しているかが試された。これに対して反乱移民たちは反抗の意思表示として助詞を故意に崩した言葉を用いて会話することになったのである。助詞の変則は一つの意志表明であり、反乱移民との会話においては意味を了解するために読者は常に緊張をもって言葉に対峙することを強いられる。あるいは小説中の数箇所で主人公は、記憶映像を強制的に喚起するメモリアックという装置の影響下に置かれる。その際に主人公は言語を介して見知らぬ男から話しかけられる。ここでは映像と言語が奇妙に歪んだ関係を結ぶ。さらに物語の終幕近くで主人公は、一人の登場人物の人格が崩壊していく過程に立ち会うが、このような崩壊の兆候は言い間違いや言葉の無意味な繰り返しとしてもたらされる。巨大な食品モールにおける虫のようなロボットの襲撃、貧民街や医療施設のグロテスクな描写、あるいは歓楽街の食堂における虐殺の情景、村上は視覚的な印象の表現に長けた作家であり、その技巧は本小説においても遺憾なく発揮されている。しかし同時にこの小説においては言語を介すことによってのみ表象可能な緊張がみなぎっている。しかもそれは助詞の変則的使用や言い間違い、意味のない繰り返しといった言語そのものを解体する契機をとおしてかろうじて実現されているのである。このような超絶的な技法、言語実験の先例として私が想起できるのはシュルレアリスムの一群の作品とフィリップ・K・ディックの『火星のタイムスリップ』くらいである。
 新出島を脱出し、サブロウやアン、反乱移民たちとともに老人施設を目指す苦難の行程は息苦しいような閉塞感と強い緊張を秘めている。いつもながら移動や破壊、差別と暴力、身体の毀損や変態的なセックスを描く時、村上の表現は精彩に富む。惜しむらくはこの小説においてかかる緊張は最後にやや失速する。クライマックスにおける失調は村上の小説に時折認められる。『半島を出よ』の場合も、それまで圧倒的な緊張をもって語られていた物語が終盤にいたってハリウッド映画的な予定調和に回収されてしまったように感じたのは私だけだろうか。『歌うクジラ』の場合、かかる失速の理由を問うことはさほど難しくない。宇宙港、宇宙エレベーター、あるいは宇宙ステーション、これらのSF的な設定をめぐって私たちの想像力はキューブリックの「2001年宇宙の旅」以来さほどの進歩がない。最後のいくつかの章におけるロボットや宇宙船、宇宙ステーションの船室の装備や機能についての記述は平板に過ぎ、それまで用いられていた濃密で鋭利な言語と乖離した印象を与えるのだ。最後の部分における宇宙への場面転換は果たして必要であっただろうか。トラックから汎用車、飛行自動車から宇宙エレベーターへ、主人公の移動手段がインフレーションを続けたように、物語の枠組は空間的に拡張される。しかし派手な道具立てに頼らずとも、言語においてのみ可能な負荷を物語に与えることは可能なはずであり、外宇宙というSF的、特異な状況を描写する中で逆に小説の言語はそれまでの密度を失ったような気がする。
 例によってやや辛口の評となったが、本作品は村上龍の小説家としての膂力を十分に示す傑作である。何よりも物語の内容のみならず形式、つまり言語が解体されるぎりぎりの実験をとおして組織される全編にみなぎるテンション、私の知る限り、それは近来日本の作家において類例がない。
by gravity97 | 2010-11-16 23:15 | 日本文学 | Comments(0)

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