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Living Well Is the Best Revenge

『美術手帳』総力特集 村上隆

『美術手帳』総力特集 村上隆_b0138838_21294947.jpg このブログでは基本的に時事的な話題は扱わない方針であるし、ネガティヴな議論は控えたいと考えているが、さすがに今回はこのタイミングで批判すべきだと感じる。
 『美術手帖』の今月号は「総力特集 村上隆」である。最初に断わっておくが、私は村上隆という作家に対して特に関心をもたない。2001年の東京都現代美術館における回顧展や同年、ロスアンジェルスのパシフィック・デザイン・センターで開催された『スーパーフラット』、あるいは2003年のヴェネツィア・ビエンナーレに際して「ラウシェンバーグからムラカミまで」というサブタイトルとともに開かれたフランチェスコ・ボナミの企画による絵画展などで作品を見た記憶はあるが、いずれもたまたま開催されていた時期にそれらの都市を訪れたからであり、特に作品に関心がある訳ではない。村上のような表現があってもよいとは思うが、それは村上が評価する平山郁夫という画家の作品があってもよいことと同様である。どちらの作家も10年単位では評価されても、100年単位の時の試練に耐えないことを私はここで確言しておく。
 私が批判するのは『美術手帖』という雑誌の美術ジャーナリズムとしての適性だ。端的に言ってこの雑誌はもはや存在しない方がよい。今回の特集では250頁の誌面中、その半分が特集の対象たる村上隆の礼賛に費やされている。ベルサイユ宮殿における個展を契機とした特集であろうが、批評的な視点は皆無で、村上へのインタビュー、関係者へのインタビュー、村上が主宰するカイカイキキのスタッフ紹介、村上の愛犬のグラビア記事まで掲載されていることには失笑を禁じえない。かかる雑誌から連想されるのは新興宗教の教祖を特集した広報誌であり、美術雑誌ではない。なぜこの雑誌はかくもなりふりかまわずこの作家を取り上げるのか。いくつかの理由が推測される。いずれも商業的な理由だ。以前から気になっていた点であるが、この雑誌はこのところ裏表紙に毎号カイカイキキ、もしくはそれと関連する展覧会や事業の広告が入っている。仮にも美術ジャーナリズムを標榜する雑誌が批評の対象の広告を毎号裏表紙に掲載して恬として恥じない態度は退廃以外のなにものでもない。さらに今号では広告か告知記事か判然としないが、村上が主宰するGEISAIの記事やら記事中でも取り上げられたアニメの記事が折り込みで収録されており、もはやこの雑誌は美術雑誌と村上の広報誌のいずれであるか判然としない。聞くところによると村上の特集をすると販売部数も増えるという。記事で煽った作家を偶像化して売り上げに結びつけるという手法は姑息ではないか。
 今から思えばこの雑誌の頽落の兆候はいたるところにあった。若手作家の特集のたびに作家ではなく取扱ギャラリーの連絡先をcontacts として表示して一部のギャラリーやディーラーに阿る姿勢。芸能人やら有名人に「アート」を体験させるというくだらない企画。新潟市美術館で大きな問題を起こした当事者(批判の当否についてはここではひとまず措く)に意味不明の連載を任す一方で美術ジャーナリズムであれば当然取り上げるべきこの事件を誌面では完全に黙殺している。中でも最悪なのは、かつては若手の批評家が地道にギャラリーを回ってそれぞれの立場から若手の発表を取り上げていた地区ごとの展評を、数名の名の知られた批評家がばらばらに勝手な対象を取り上げるREVIEWSという欄へ改めたことである。単に展評の数が減っただけではなく、若手の作家と批評家の目標が共になくなってしまったのである。貸画廊という制度の是非や近年、美術館が現代美術を敬遠するようになったことは今措くとして、かつては若い作家が真剣な発表をすれば、美術批評を志す若手によって展評欄に取り上げられ、作家は次のステップに向かい、批評家も責任を伴った批評の経験を積むことが可能であった。もはやそのようなシステムは存在せず、代わりにこの「総特集」が提案するのは、一人の独裁者によって経営される企業体の歯車としての「アーティスト」である。
 先に述べたとおり、私は村上の作品については批判する時間さえ無駄だと思う。しかしこの雑誌を斜め読みしただけでも、村上が作り上げたシステムが美術の対極にあることは理解できるし、それを周知したことに逆説的にもこの雑誌の意味があるかもしれない。分業化、合理化されたかかるシステムは明らかに営利企業をモデルとしており、利潤の追求には適当であろうが、どこに創造の自由があるというのか。近似したシステムとしてはウォーホルのファクトリーが挙げられるかもしれない。しかしヴェルヴェット・アンダーグラウンドの活動が示唆するとおり、ファクトリーにはなおも多様な創造性が共存しえた。これに対し、シフト表やマニュアル、工程表に囲まれて村上のスタジオで働く「アーティスト」たちの写真から私は機械的な作業が反復される工場の工員を連想した。
 金銭的収益を成功の指標とみなす態度、海外を視野に入れた組織整備やオークションへの展開といった「グローバリズム」、これらは以前から村上が主張していたことで特に新味はないし、それもまた一つの信念であろうから特に咎めるつもりもない。しかし美術ジャーナリズムの一端を担う雑誌が、そこに美術家の理想を投影し、かかる軽薄な美術を積極的にプロモートすること、そして美術を志す多くの若い作家たちが美術とはそのようなものだと思い込んでしまうことに私は暗然とした思いにとらえられる。作品を高値で売ること、ベルサイユで個展を開くこと、高級ブランドとコラボレーションすること、これらは美術とは全く関係ない。この雑誌の読者に対してはこんな当たり前のことをいちいち言挙げしなければならないのだ。
 この雑誌を美術ジャーナリズムとして理解するから気が滅入るのかもしれない。単なる数名の作家と関連ギャラリーのためのプロモーション誌と考えればよいのであろう。しかしこの雑誌がそれなりの歴史をもち、日本の戦後美術の文脈を形成することに一役買ったことは事実である。私自身過去に何度かこの雑誌に寄稿したことがあり、かつて発売日になると毎号それなりの興味と関心をもってこの雑誌を読んだこともある。あるいは70年前後のバックナンバー(この雑誌が一番輝いていた時代だ)を取り寄せてはそこに掲載あるいは訳出された重要な記事をコピーして何度も読み返したことも思い起こされる。それゆえこのような変質に対してなんとも無残、無念の思いが拭えないのだ。
Commented by gb at 2010-11-08 03:20 x
大筋、あなたの意見には賛成。だが大型本屋に置かれているその他諸々と同様の商業誌である限り、「批評誌」ではないのです。商業ベースの部分が見え隠れするのは当たり前なのでは。カイカイキキが広告代を払って広告をのせるのが悪くて、じゃあ他の画材屋が同じことをやったらありなんですか?それは癒着とはいわないが、カイカイキキがやったら癒着なんですね。それは変でしょう。
また私もうろ覚えですが、ここ7〜8年くらいは村上隆単体の特集は、この雑誌はやっていないです。

<数名の名の知られた批評家がばらばらに勝手な対象を取り上げるREVIEWSという欄
このコーナーもよく知らない人達がいっぱい書いてますよ。また、ばらばらに勝手な対象を取り上げるなどといったら、どんな類いのレビューもそうですよね。

私もこの雑誌ははたして現代美術の雑誌として、もっとよくならないかと思うくちですが、あなたの意見は個人的主観が強すぎるようにも感じます。
Commented by R.O.P at 2010-11-11 20:36 x
 おそらく村上隆はワタヤ ノボルになりつつあります。はっきりしていることは、雑誌とムラカミ タカシの間に、読者に見えないなにかひどく暗く重いものがあるように感じられるということです。
 商業のひとつとして雑誌の存在があることは無論当たり前のことで声高に言うことでもない。また雑誌と個人の癒着に関連した私見を他の発言者に投げつけることも必要ないでしょう。雑誌には多かれ少なかれ需要があり、歴史がある。しかしながら現在の美術手帖は、喉からチューブを差し込まれてようよう呼吸をしている植物状態です。
 恐ろしいのは美術というひとつの存在があるヘゲモニー政党によって捩じ曲げられてゆくことです。その力のある手がやけに暗いことが、不感症の人間にはわからないのです。
Commented by kol at 2010-11-16 14:07 x
>作品を高値で売ること、ベルサイユで個展を開くこと、高級ブランドとコラボレーションすること、これらは美術とは全く関係ない。

そうでしょうか。こうした政治的な要因は常に、美術の「本質」や「歴史」を形成してきたのではないですか?
村上隆の一連の活動は、自らをその本質や歴史に深く置きながらも、深く置いているからこそ出来る批判をしていると捉えることは出来ないのでしょうか?
というより、そもそも現代において純粋な美術性など取り出して論じることに意味があるのでしょうか。

私は未熟すぎてその回答は出せませんが、村上隆を批判するということは、上記のことを射程に入れて、それこそ長大な本を書けるレベルで行われないと届かないのではないかと思われるのですが。

当該の美術手帖については私も似たような感想を抱きました。
が、それも恐らく村上隆は恣意的に、露悪的に見せようとしているのではという推測は可能です。
そんな推測有り得ない、無駄だ、という否定意見をしっかりしたレベルで構築するのはかなり骨が折れるかと。
Commented at 2014-09-17 05:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by Roo at 2014-09-17 05:04 x
(続き1)
同じアーティスト目線から率直な感想としては
彼の作品からは何も感じないし今後見たいとも知りたいとも思いません。現代美術史に名を残すような本質的なものや突きつけるようななにかがあるようにも思えません。
ただ彼の動向が気になるのは彼のような若い作家が増えていってしまうことに強い危機感と嫌悪感がありますね。だから気になります。(続く)
Commented by Roo at 2014-09-17 05:06 x
(続き2)
彼は自分の作品作り以外に後進の育成にも携わっているみたいですが大変立派なことだとは思います。
が自らが集めてくる作家さん全員がヲタク私小説絵画ばかりなんです。。。悪いことだは言いませんが偏り過ぎ…。
要は自分に限り無く近い作風の作家ばかりを集めて
描かせてるだけなのかな?って印象しかないし、そういう若い人たちにたいして
これが芸術なのだ!とスパルタで教え込んでるところにカルト宗教っぽい危うさも感じます。
若い子は素直なんでマインドコントロールされてないか不安になります。(続く)
Commented by Roo at 2014-09-17 05:07 x
続き3
その指導方針はもはやアートではなく、デザインの世界に近いのかもしれません。
主観を排除した客観性を意識した作品。
見る人にどう映るかを作る前から徹底して作り上げているところなんかはデザインそのものです。
作り上げる労力に魂は込められていても主観に魂や強い精神性が入ってないから表層的にみえちゃう。
(続く)
Commented by Roo at 2014-09-17 05:10 x
(続き4)
美術史についても英語圏で販売されている美術の書籍にはシュルレアリスムや抽象表現主義、ダダなど
現代美術の歴史やそれに係わる作家などの掲載はされていてもスーパーフラットについては記述すらありません。
Takashi murakamiと1ページだけ載っている程度で世の中に強いインパクトを与えているような作家さん扱いではないですよ。
恐れ多くも本人はピカソと同じことをした、つまり美術史に名を刻んだなどと豪語していますが、ピカソと肩を並べたのは資産のみで彼に対する芸術性の評価は
そんなもんです。
それと僕が参加しているアーティストコミュニティではピカソ、ポロック、クーニングからザオウーキー、
ナムジュンパイクなど様々な作家の話題や意見が活発に交わされていますが村上隆の話題をする西洋人作家はほとんど見当たりませんね。
森山大道とか草間さん辺りはいますけど。
by gravity97 | 2010-10-31 21:32 | 現代美術 | Comments(8)