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Living Well Is the Best Revenge

黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』

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 驚くべき研究書が刊行された。まずその存在感と装丁に圧倒される。小口の部分まで黒く塗られた厚さ5センチはあろうかという大著だ。銀文字で記された『肉体のアナーキズム』という表題と「黒ダライ児」という奇怪な著者名。みるからに怪しげな書物である。
 しかし作者について多少の知識があれば、これは奇書どころか刊行が待ち望まれた研究である。筆者は黒田雷児という福岡アジア美術館に勤務する学芸員。黒田は1988年に福岡市美術館で「九州派」という画期的な展覧会を企画し、大きな注目を集めた。その後も1993年に「ネオ・ダダの写真」という注目すべき展覧会によって一貫する問題意識を示すとともに60年代の一連のアナーキーな美術活動に関していくつかの論考を発表してきた。いつかそれらが一つの書物にまとめられることは予想できたが、これほどの大著となろうとは。そもそも今日このような研究を刊行する出版社が存在すること自体,驚き以外のなにものでもない。壮挙と呼ぶべきであろう。
 一人の著者によって執筆された日本の戦後美術の通史として、私たちは針生一郎の『戦後美術盛衰史』、千葉成夫の『現代美術逸脱史』、そしてやや変則的な通史であるが椹木野衣の『日本・現代・美術』という三つの成果を手にしている。いずれも問題点はあるにせよ、日本の戦後美術を一つの文脈の中に編成しようとする試みであり、戦後美術を語る際の準拠枠となる労作である。本書の独自性は、これらの先行研究においてほとんど一顧だにされなかった作家たちを検証の対象として、年表を含めて700頁を超える大著に仕上げた点にあり、サブタイトルの「地下水脈」という言葉はこのような事情を暗示している。厳密にいえば、本書の内容は先行する三つの研究において全く触れられていなかった訳ではなく、特に椹木の著書における「裸のテロリストたち」と「芸術である、だけど犯罪である」という二章は本研究の内容とほぼ重複している。しかし本書において通史を論じるという目的は最初から放擲されている。冒頭で黒田は本書で扱う対象が、1957年から70年までの/日本で行われた/美術家による/「反芸術」の流れを汲む/身体表現 であることを明言する。少なくとも1970年前後までの日本の戦後美術史は、50年代中盤の具体美術協会、60年代の読売アンデパンダン展周辺の作家、そして70年前後のもの派という三つのメルクマールで語られることが通例であった。まずこれらのうち、黒田は具体美術協会ともの派を切り捨てる。今挙げた五つのキーワードに照らすならば、具体美術協会はなおも「芸術的」であり、もの派は身体性が希薄であるという理由によるのであろう。またサブタイトルに1960年代と冠せられているから、本書の一つのテーマがネオダダイズム・オルガナイザーズのごとき読売アンデパンダン展周辺に簇生したグループや作家であることはある程度推測される。しかしながら本書はなおも二つの点で通常の前衛美術研究と大きく異なる。一つは読売アンデパンダン展が開催された東京ではなく、地方における美術運動を中心に取り上げている点である。例えば本書には名古屋を中心に活動したゼロ次元と福岡を中心とした九州派についてのきわめて詳細な記述がある。先ほど述べたとおり、本書の起源の一つは福岡市美術館で開催された九州派展であったから、このような姿勢はたやすく理解されるが、それにしても丹念に各地の運動が掘り起こされている。例えば1965年に長良川河原で開催されたアンデパンダン・アート・フェスティバル、いわゆる岐阜アンデパンダンに関して、私はこれまで神戸で活動するグループ位による穴掘りのパフォーマンスと池水慶一が檻の中に自らを閉じ込めたパフォーマンスしか知らなかったが、本書を読むとそれが当時の地方的な前衛美術のネットワークの上に成立している点が了解される。本書で貫かれる立場はグローバリズムならぬ徹底的なローカリズムである。もう一つの特色は記述の軸を作品という物理的存在に置いていないことである。先に挙げた具体美術協会からもの派にいたる通常の通史においては作家が制作した作品を記述することによって歴史が語られてきた。いうまでもなくこのような姿勢を制度化したのが展覧会であり、これまで無数に企画された日本の戦後美術を概観する展覧会においては時に記録や再制作作品が添えられることはあっても、作品がその中心にあった。しかしこのような手法から抜け落ちる要素、それゆえたとえそのようなものがあったとせよ、「日本の戦後美術の正史」には決して記載されない活動が本書の主題とされている。本書の経糸を形成するのは例えば「英雄たちの大集会」、「狂気見本市」といったエフェメラルなイヴェントの数々である。中央ではなく地方に注目し、モノではなくコトを記述する。このような作業が実際にどれほど大変であるかは容易に想像されよう。私が本書の刊行を壮挙と呼ぶ理由である。この意味において本書は明らかにカルチュラル・スタディーズやオーラル・ヒストリーといった近年の人文学の新知見を背景としている。
 さて、現時点で私は本書を完全には読了していないが、なにぶん大著であり、読み終えてからレヴューするためには今しばらくの時間が必要となる。ひとまず黒田の意図は理解できたと考えるので、むしろ刊行直後に一種の切迫感とともに私の立場から若干の批評を加えることが望ましいのではないかと考える。この研究がきわめて貴重なものであることに疑問の余地はない。ゼロ次元でもクロハタでもよい、彼らの活動は本書が存在しなければこれほど詳細に記録として残されることはなかったであろう。この意味で私は本書を高く評価する。その点を書き留めたうえで、私はなおいくつかの疑問を呈しておきたい。一つはここで扱われている対象を一組の運動とみなすことができるかという点だ。果たしてここで詳述される集団や運動に一貫する意味、私の言葉を用いれば文脈を形成する力が認められるだろうか。例えば本書で一貫して批判的に言及される具体美術協会の場合、ハプニングの先駆、あるいはアンフォルメルの作家集団といった文脈によってひとまず理解することが可能であった。私の理解では文脈なくして意味はありえない。本書を通読するならば、60年代の反芸術的な身体表現に関してもいくつかの結節点と呼ぶべきイヴェントや展示があったことが理解されようし、これらの多様な表現の最終的な目的の一つが1970年の大阪万博という体制側による一大イヴェントの破壊であったことも明らかである。しかしそれらは相互にばらばらの印象を与え、研究として束ねてもあまり積極的な意味をもたないように感じられるのだ。欧米に比べて日本の戦後美術については常に一回きりの現象として生起し、連続性をもちえない点はこれまでも指摘されてきたが、この大著で概観される60年代のパフォーマンス、そして「反芸術パフォーマー列伝」を読む時、その印象はさらに強い。黒田自身は肉体や都市、儀式あるいは大衆といったいくつかのキーワードを手がかりに分析を加えているが、個々のパフォーマンスについては適応できる概念ではあるが、いずれも理論化になじまない。いや、むしろそのような理論化こそ、これらの集団が批判した点であったろうし、この点に黒田も意識的である。そしてこの結果、ここで取り上げられた数々のパフォーマンスはいずれもその場限りのお祭り騒ぎという印象を与えるのである。私が興味深く感じるのはその場限り、アド・ホックな特性は単にこれら60年代のパフォーマンスのみならず、実は戦後日本の現代美術に通底する特質ではないかと考えられる点である。つまり日本の現代美術には一つの表現を後続する世代が深めていくという発想がきわめて乏しいように感じられる。例えば今挙げた具体美術協会でもよい、一つの運動体としてそれなりに重要な働きを果たし、60年代には一種の権威として関西の美術界に影響力をもったはずであるが、彼らの表現がその後作品として深められた例を私たちはほとんど知らない。同様の断絶、一つの突出した表現が深められることなく、いわば死屍累々と美術史の中に置き去りにされる風景に私たちは見慣れてきた。例えば西欧の近代においてはモネ、セザンヌ、ピカソと連なる一つの理路が容易に指摘できるのに対して、日本においてそのような系譜をたどることは著しく困難である。モダニズムの不在といえばそれまでであるが、この意味において本書の内容は日本の戦後美術そのものの相似形と考えることはできないだろうか。この点は今後、より深く思考されてよい問題であろう。
 この点とも関わるのであるが、本書を読みながら強く感じたことは、私たちが果たして行為の美術(黒田は「美術」という言葉を嫌うだろうが)を批評するための言葉を持ち合わせているかということである。美術作品の場合、私たちはそれを記述するためのいくつかの方法や言語を編み出してきた。精神分析批評であれフォーマリズムであれ、そこでは言語が作品と拮抗している印象がある。しかし作品ではなく行為に関して、それに対立しうるような言語は彫琢しうるであろうか。映画や演劇であれば、なおも私は言語によって語るためのいくつかの方法論を知っている。それどころかロラン・バルトの記号論を想起すれば理解できるとおり、これらの新しい対象を分析することによって批評が新たな方法論を獲得することさえ可能であった。しかし本書で「行為の美術」を語る言葉は新聞で事件やお祭りについて記述する言葉に近く、いささか平板な印象があるのだ。この点は本書において論及されるパフォーマーたちが用いた言葉についての分析が少ないことと関係しているかもしれない。例えば篠原有司男がネオダダイズム・オルガナイザーズの旗揚げの際に著した異常な昂揚を伴った文章、あるいは加藤好弘が用いた異様に晦渋な文体などはそれ自体が一つの研究の対象足りうるであろう。これらの書字に対して黒田が重視するのは関係者からの聞き取りであり、両者の対立は先にも触れたオーラル・ヒストリーという問題圏へと接続可能である。私の考えでは批評とは言語の問題でもあり、この点に意識的な椹木がかつて『日本・現代・美術』において赤瀬川原平のパスティッシュとも呼ぶべき文体によって60年代美術を検討したことも想起されよう。困難な課題ではあろうが、「行為の美術」を批評するためには、新しい批評言語を創出する必要が感じられるのだ。
 それにしても驚くべき研究である。本書は黒田の長年の研究の集大成であるだけでなく、多くの新しい研究へと道を開く点で大きな意義をもつ。かくも困難な主題に正面から立ち向かった異形の研究の出現を喜びたい。
by gravity97 | 2010-10-23 08:50 | 現代美術 | Comments(0)