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Living Well Is the Best Revenge

「バーネット・ニューマン」展

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 はるばる佐倉の川村記念美術館までバーネット・ニューマン展に出かけた。展示を見て唖然とする。この美術館が所蔵する《アンナの光》、この作品がニューマン屈指の傑作であることは間違いない。そして国立国際美術館が所蔵する《夜の女王》、この作品も縦長の珍しいフォーマットの傑作である。私の知る限り、国内の美術館に収蔵されたニューマンの油彩画はこの二点のみである。いずれもミュージアム・ピースであるから、ほぼ常時陳列されている。これにわずか5点の油彩画と1点の彫刻、そして若干の水彩と版画を加えた程度の内容を麗々しくも「ニューマンの国内における初個展」と呼ぶセンスはどうだろうか。
 私は展覧会とは作品に文脈を与える試みだと考えている。一点の作品は一つの文脈に置かれることによって初めて意味をもつ。もちろんこのような文脈は様々である。作家の制作順に並べる個展は最もわかりやすい文脈であるし、一つの美術館の収蔵品を借用して展示するコレクション展は最も安易な文脈の形成である。さらにこのような文脈が肯定的な場合ばかりではないことは、悪名高いナチスの「退廃芸術展」を想起すれば理解されよう。いずれにせよ、作品に文脈が与えられなければ展覧会の意味はない。しかしこの展覧会には文脈がない。相互にほとんど関係のない作品が年代的にも素材的にもばらばらに配置されている。この展覧会を訪れたとしても、ニューマンのジップ絵画がどのように成立したかについては一切理解できないし、ニューマンとユダヤ教との関係について思いをめぐらす機縁ともなりえない。作品数が少ないこともあって展示自体は悪くない。スポットライトを用いてドローイングに妙に劇的な効果を与えている点は個人的にはどうかとも思うが、広い壁面に一点の作品を展示する手法は効果をあげている。逆に展示効果を重視したからかくも意味不明の作品配置になったのかもしれない。典型的なジップ絵画の後に初期のドローイングが並び、版画と彫刻が唐突に併置されている。端的に言って、そこには展示についての思想が欠落している。かつて私は2002年にテート・モダンでニューマンの大回顧展を見たことがある。欧米の本格的な回顧展と比較することには無理があることはもちろん承知しているが、ロンドンの展覧会ではニューマンに関する数多くの発見があった。例えば意外にもニューマンのジップ絵画には作品によって質的なばらつきがあること、あるいは連作 Stations of the Cross が一つの時間的な構造として完結していること。優れた展覧会とは本来そのような発見の場であるはずだ。確かにニューマンの作品は日本ではあまり展示されたことがなく、川村記念美術館が所蔵している作品は屈指の名作かもしれない。しかし一点の名作を所持しているからといって、それに付け足しのように数点加えただけで「個展」を構成し、あたかも作家の全貌を紹介したような物言いをすることは作家に対して敬意を欠いた態度とはいえないか。私の理解によればこのレヴェルの展示に与えられるべき名は「特集展示」であり、間違っても「個展」ではない。誤解なきように付け加えるならば、私は作品数が少ないことのみを問題としているのではない。作品数が少なくても展示に文脈を与えることは十分に可能だ。例えば初期のドローイングとニューマンにとってブレークスルーとなった《Onement》もしくはそれに類した作例、そして《アンナの光》。この3点を展示して必要な説明を加えるならば最低限の文脈は保証される。あるいはニューマンにおける赤という問題に着目して《アンナの光》にいくつかの作品を加えてもそれなりに批評的な展示となるだろう。文脈の不在が問題なのだ。なんらかの文脈を整える試みを最初から放棄して、借用可能な美術館から選んだ行き当たりばったりの作品で展覧会を組織する安易さ(いかなる基準で作品を選んだかについて担当学芸員のテクストにも一切説明はなく、そこで論じられているのは《アンナの光》のみだ)と押しつけがましさに暗然とした思いにとらえられる。
 ニューマンの作品であれば欧米の大都市でいくつかの美術館を回れば結構な数を見ることができるから、展示の規模において本展はわざわざ見るには及ばない。しかし私はこの際、佐倉まで足を運ぶことを強く読者に勧めたい。皮肉ではない。ニューマンの作品に合わせてロスコ・ルームを見るためだ。私は近年、三回この美術館に足を運んだ。(全てこのブログにレヴューを書いている)一昨年の「モーリス・ルイス」、昨年の「マーク・ロスコ」そして今回である。ルイス展の際はロスコ・ルームの作品は全て貸し出されており、ロスコ展の時には特別展示室に展示されていた。このため私は今回初めてロスコ・ルームを訪れた。この空間と展示は素晴らしい。ロスコの遺志が過不足なく反映されているように感じた。展覧会としては問題があるにせよニューマンの名品を見た後に、この部屋に足を運ぶならば、色面抽象絵画の両雄、ニューマンとロスコの作品の相違がきわめて明白に知覚されるであろう。共通しているのは両者がともに展示される空間へと拡張し、空間との関係において成立している点である。当初から一つの部屋の壁面を巡る壁画として構想されたロスコ・ルームの場合は当然といえば当然であるが、明らかにニューマンの大画面も同様の特質を帯びている。今述べたとおり、脈絡のない展示でしかも出品点数が少ないにも関わらず、ニューマンの展覧会がそれなりの威厳を保っているのは、作品が展示空間との間に結ぶ緊張感のゆえであろう。カタログの中でイヴ=アラン・ボワ教授が指摘するとおり、作品の前に立つ時、見る者は、自分が、今、ここで、作品とともに在ることを否応なく意識する。この時、作家の問題意識がミニマル・アートの作家たちと接続することはたやすく理解できるし、ニューマンが抽象表現主義の作家たちの中でほとんど唯一、例えばドナルド・ジャッドやアンディ・ウォーホルのごとき作家たちと交流し、これらの後続する作家たちに敬意をもって遇されたことの理由も理解される。ニューマンの絵画と今、ここに共に在るという意識はきわめて身体的なセンセーションなのである。これに対しロスコ・ルームにおける「今、ここ」とは身体的というより精神的、瞑想的な体験である。いずれの作品の前においても私は絵画と直面しながら、絵画とは異なった異様な存在と対峙している感慨を受ける。しばしば崇高の名で呼ばれるこのような感情はニューマンとロスコで微妙に異なるように感じる。今のところ私は両者の相異をうまく言葉にすることができないが、今回それを感受しえたことは大きな成果であった。このような感慨は疑いなく二人の絵画の本質と関わり、おそらく彼ら以前には実現されえなかった絵画の位相を示している。私の言葉を用いるならばそれは絵画において近代と現代を分かつ。作品の形式や内容ではなく、場との関係とも呼ぶべき作品の外部への開かれが絵画の現代を画しているのだ。そしてこのような認識は図版や液晶を介しては決して得られることがない。この点を再確認するためにもはるばる佐倉まで足を運び、ニューマンの作品の前に実際に立つことが必要なのである。ボワ教授は同じ認識を「ここにわたしがいる」というカタログの論文タイトルとして確言する。ニューマンの場合、作品の前に作家や妻アナリーが立つ写真が多く残されているが、作品と観者の関係を示唆するこの種の写真が実は作品の本質と深く関わっていたことを私は今回の展示によってあらためて思い知った。
 先述した回顧展の際に発表された多くの論文と比べても、今回のカタログ中、今触れたボワ教授の論文は出色の内容といえよう。ニューマンのジップ絵画の成立とその意味が実に緻密かつ明快に論じられている。1988年に発表された「ニューマンを知覚する」という論文の問題意識がさらに深化され、通読して久々に知的な興奮を覚えた。おそらく翻訳も優れているだろう。おそらく、と書いたのはカタログに原文が収録されていないためだ。著者との契約によって原文の収録が禁止されたと推測するが、せめて末尾にタイトルのみでも示すことが出来なかっただろうか。副題の「バーネット・ニューマンの絵画における側向性」のうち、この論文のキータームである「側向性」の原語は何か、私としては大いに気になる。この論文では1949年の《アブラハム》という比較的地味な作品が綿密に分析されている。今回の展覧会の作品選定に寄稿者は関わっていなかったと考えるが、展示とテクストをもう少し有機的に関連させる努力ができなかったのだろうか。もしもこの作品が会場に展示されていたら、私はこの論文を読んだ後、その内容を確認するためにもう一度美術館を訪れたことと思う。
今回の展覧会を見て、私はあらためて展覧会という営みの奥深さに触れた気がする。個々の作品、展示の方法、ボワ教授の論文、どれも素晴らしい。しかし展覧会についての哲学が不在であるため、この展覧会は全体としてなんともちぐはぐな印象を与える。展覧会とは端的に企画者の哲学が試される場なのだ。

08/11/10 追記
最近、この展覧会の成立について、間接的にではあるが関係者から事情を聞く機会があった。それによると、作品の状態が悪い場合が多いため、ニューマンの作品の借用はきわめて困難であり、この点数が限界であろうとのことであった。したがって上に記した私の評は少々厳しすぎるかもしれない。いうまでもなく私は状態の悪い作品を日本まで運んで展覧会を開くよりは現地に見にいくべきだという立場である。
ニューマンに限らず色面抽象絵画の表面の不安定さの理由も今後検証されてよい問題であろう。
Commented by rinopo at 2010-12-13 01:39 x
こんにちは。
ぼくも気になったので調べましたが「側向性」の原語はlateralityのようです。原著の収録されている書籍の目次がAmazonのページで見られます。
http://www.amazon.com/dp/0300109334
Commented by gravity97 at 2010-12-23 20:13
rinopo氏のコメントにあるとおり、側向性の言語は laterality らしい。コメントを見落としていたので遅くなったが貴重な情報をお寄せいただいたrinopo氏に謝意を表す。
このテクストの原文は2002年にフィラデルフィア美術館で開催されたニューマンの回顧展の際に刊行されたシンポジウムの記録に掲載されていたらしい。著者とどのようなやりとりがあったかはわからないが、10年近く前の論文を典拠に関する記述もないままカタログのメイン・テクスとしてト収録する企画者の態度に私は大きな疑問を感じざるをえない
Commented by zimzum at 2010-12-24 04:29 x
初めてコメントを書かせていただきます。
少なくとも、今回、ニューマンの代表作である《ワンメント》やボア氏が度々論文の中で触れている《アブラハム》、晩年の《アンナの光》と比される初期の代表作《英雄的にして崇高なる人》が借用できなかったのは、MoMAでの抽象表現主義の展覧会と重なってしまったためでしょうね。
Commented by gravity97 at 2010-12-24 21:44
いただいたコメントに若干の補足を加えておきたい。コメントにあった展覧会は来年4月25日までMoMAで開催されている所蔵作品による抽象表現主義展のことである。私は未見でカタログにも出品作のチェックリストが付されていないため、確言はできないが、図版から判断するにこの展覧会に出品されたニューマンの作品は数点の版画を除いて、油彩画は《ワンメント》と《英雄的にして崇高なる人》、《野生》の3点であり、《アブラハム》は出品されていない模様である。アン・ティムキンによって企画されたこの展覧会もなかなか興味深い内容であり、機会があれば論じてみたい。
Commented by zimzum at 2010-12-25 00:36 x
返信ありがとうございます。
自分はこの展覧会を実見しましたが、gravity97さんが挙げてくださった作品の他にも、《アブラハム》と《二つの縁》、《ザ・ヴォイス》、《ワンメント3》同室に展示されていましたよ。実際はアン・テムキンのカタログに未掲載のものも多数出展されていて、質・量ともに濃密な展覧会でした。
Commented by gravity97 at 2010-12-26 20:51
zimzum氏よりMoMAにおける抽象表現主義展に関して私のコメントの誤りを訂正いただいた。深謝の意を表したい。このところフットワークが悪く、海外の展覧会に関してはカタログのみを参照して批評する場合があるので、今後も事実誤認や不適切なコメントに関してはお読みいただいた方からの率直な批判をお待ちしている。
Commented by depassant at 2011-02-01 01:33 x
初めて書き込ませていただきます。ニューマン展カタログの制作に間接的にたずさわった者です。カタログ、また何よりも展覧会についてたいへん丁寧なコメントを頂戴しましてまことにありがとうございました。気がついたのが最近で御礼が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。
なお、カタログ中のボワ論文、当初は英語原文も収録の予定でした。かなり最後の段階になってから省くことに決まったようです(わたしもその間の事情はつまびらかにしないのですが、おそらくは価格を抑えようという配慮からかと推測します)。もちろんその場合、初出時の書誌情報は記しておくべきでしたし、ご指摘のあった「側向性」をはじめ、キーワードには原綴を添えるなどの措置も、本来ならば不可欠だったと思います。とはいえ、カタログの編集は学芸員の方が展覧会準備と同時並行で(ほぼ単独で)担当されていましたので、そうした細やかな対応にまでは、さすがに手が回りかねたのではないかと思います。
Commented by gravity97 at 2011-02-04 20:56
本展覧会のカタログについて関係者の方からコメントをいただいた。わざわざこのブログをお読みいただき、コメントをいただいたことに感謝する。
ボワの論文の掲載に関しては、おそらく出版関係のエージェントが介在したであろうから原文が掲載されていないことも条件の一つであったかと推測したが、もちろん原文の典拠が明記され、容易に参照できるのであれば、原文が収録されていないことに大きな問題はない。
匿名の立場から特定することが可能な相手を繰り返し批判することは好まないし、もとよりこのブログの目的ではないので、以後、この問題については触れないが、いただいたコメントは甘すぎる。忙しかろうが、展覧会を単独で担当しようが、既発表の論文をカタログに掲載する際に典拠を記すことは学芸員であれば常識以前の問題だと私は考える。
by gravity97 | 2010-10-12 20:57 | 展覧会 | Comments(8)