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Living Well Is the Best Revenge

奥泉光『シューマンの指』

 昨年刊行され、野間文芸賞を受賞した『神器―軍艦「橿原」殺人事件』はいささか冗長に感じられた。奥泉光の小説はあまり長くない方がよい。書き下ろしで発表された本作品は全編に張り詰める緊張感と随所に張り巡らされた小説的技巧という点で『神器』よりはるかに奥泉の本領が発揮されている。
 多くの奥泉の小説と同様、本編も一篇のミステリーという性格を宿している。中盤で一つの殺人事件が語られ、物語はその犯人探しと読めないこともない。しかしながら奥泉の小説が一筋縄で終わるはずはなく、最終的には一種のメタ・ミステリーとして物語は閉じられる。ミステリーである以上、内容に深く立ち入ることは控えなければならないが、冒頭で開陳される魅惑的な謎そのものが本書のテーマと深く関わっている。それは物語の語り手、里橋優のもとへ留学中の旧友、鹿内堅一郎から送られてきた一通の手紙であり、鹿内がシューマンの生地、ツヴィッカウを訪れた際に偶然にも二人の共通の友人であるピアニスト、永嶺修人の演奏会に立ち会ったことが記されていた。しかし永嶺はかつてなんらかの事故もしくは事件によって指を切断したのではなかったか。果たして一度指を切断した者がピアニストとして聴衆の前に立つことは可能か。当然ながらここで読み手の関心は永嶺が指を切断することとなった事情に向けられる。しかしこの経緯については物語の終盤まで明かされることがなく、読者は宙吊りにされたまま物語の中に置き去りにされる。このあたりの語りの巧みさは奥泉らしい。
 さて、タイトルからも明らかなとおり、この小説は音楽を主題としている。かつてエドワード・サイードは今日の文学的知識人が古典音楽についての常識的知識をもちあわせていないことを批判した。音楽といえばロックと現代音楽にしか関心のない私にとってまことに耳の痛い指摘である。楽曲や演奏に関する学殖に満ちたこの小説は古典音楽に素養のある者であればさらに楽しむことができようが、私のごとき音楽に無知な者に対しても物語として圧倒的な魅力を備えている。音楽を主題とした小説として私は例えば平野啓一郎の『葬送』を連想する。ドラクロアとショパンを主人公としたこの芸術家小説も絵画や楽曲を言語によって表象しようとする力技であったが、『シューマンの指』ではさらに深く「音楽」の本質が言語の俎上に上げられている印象がある。
 本書の大半は里橋が残した手記という体裁をとっている。正確には里橋と鹿内、長嶺らがシューマンに倣って結成した「ダヴィッド同盟」という結社の中で交わされた6冊の交換日記の最後の巻に記された内容である。したがってここに書かれた内容の真偽は書き手である里橋に帰せられる。クリスティーの『アクロイド殺人事件』を持ち出すまでもなく、奥泉ほどの書き手がミステリーを書くにあたって一人称の話者を選ぶ場合、なんらかのたくらみがめぐらされていることは容易に予想されるだろう。
 里橋はかつて音楽大学でピアノを学んだが、大学を中退し音楽も放擲し、医者として働いている。音楽との決別は長嶺の事件と関連しているであろうが、その詳細は語られない。物語は回想と現在の間でゆるやかな振幅をもちながら展開する。音楽大学受験を志していた里橋は自身の高校に入学した天才的な美少年ピアニスト、永嶺修人と知り合い、年下の永嶺を導師として音楽の神秘に触れる。シューマンを跪拝する長嶺は里橋や鹿内らとともに「ダヴィッド同盟」なる結社を結成する。先に述べたとおり、私は知識がないため読み過ごすしかないが、シューマンをめぐるペダンティックな議論はこの小説の一つの山場を形成している。高名なコンクールで入賞し、天才ピアニストと呼ばれる永嶺の演奏を里橋は生涯に三度だけ聴く。それらはいずれも本小説にとって決定的な事件と関わっている。最初の機会は先に触れた殺人事件が起きた夜であり、里橋はそれを「幻想曲の夜」と呼ぶ。永嶺が演奏したのはシューマンの《幻想曲ハ長調》。二度目は武蔵野市民ホールにおいて永嶺の師匠が企画したジュニア・コンサートの場であり、永嶺が弾いたのはシューマンの《ピアノソナタ第三番ヘ短調》。そして最後は「ダヴィッド同盟」に加わった里橋、永嶺共通の知人の別荘におけるシューマンの《天使の主題による変奏曲》の演奏であった。おそらくこのような選曲についてもシューマンの音楽に通暁していればなんらかの意味を読み取ることができるかもしれない。未読の読者も多かろうから、暗示的な指摘にとどめるが、三度の演奏は直ちに殺人や狂気、身体の毀損といった凶々しいイメージと結びつき、長嶺に関わった人間はほとんど例外なく悲惨な死を遂げ、あるいは失踪する。シューマンの音楽はあたかもこの不吉な物語の通奏低音のようである。語り手あるいは長嶺の口を通して語られるシューマンの生涯そのものも暗い影を刻印されている。シューマン自身も切断こそしていないが、過度の練習もしくは病気のために若くして指が麻痺したためピアニストとして生計を立てることを断念している。さらに本書の中では明確に言及されていないが、伝記的事実をひもとくならば、シューマンは晩年におそらくは梅毒が原因と思われる狂気の発作に襲われている。この時、シューマンと登場人物は二重化される。別の言葉で言えば登場人物はシューマンの分身なのである。
 鹿内堅一郎からの手紙とともに幕開けした『シューマンの指』は、終盤で「幻想曲の夜」の殺人をめぐるいくつもの推理が重ねられた後、やはり登場人物の一人から一人に宛てられた短い手紙とともに終幕する。この小説は書き手の異なった三つのテクストから成り立っており、つまり物語の本編たる里橋優の手記は二つの短い手紙の間に挟みこまれている。きわめて緻密に考え抜かれた構成である。ひとたび手記を読み終え、物語の一応の決着を見届けた後、最後に添えられた手紙を読んで読者は驚愕するに違いない。この手紙によって里橋の手記の意味は一変するのだ。このようなどんでん返しは小説でしかありえず、本作品は奥泉らしい説話の超絶技巧である。種明かしにならない程度にほのめかすならば、先にも述べたとおり、この小説は無数の分身をめぐる物語である。(シューマンの批評に登場する『ダヴィッド同盟』も分身の集合体であることを明らかに奥泉は意識している)小説と音楽、超絶技巧という点で奥泉をシューマンの分身になぞらえることはさすがに過褒であろうか。
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by gravity97 | 2010-09-18 20:57 | 日本文学 | Comments(0)