ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

ケン・オーレッタ『グーグル秘録 完全なる破壊』

b0138838_21215837.jpg 1998年。まだわずか10年ほど前の事だ。スダンフォード大学の大学院に在籍していたラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという二人の若者が一つの会社を設立する。10年余りの時を経て、この会社は世界的な巨大企業へと成長し、単に莫大な収益を上げるだけではなく、人類の社会や文化を根底から覆す可能性をもったいくつものプロジェクトに手を染める。ほとんどSFのようなエピソードであるが、会社名を聞けば誰でもその事実を認めざるをえない。いうまでもない、あなたも私も毎日利用しているグーグルだ。なぜこのようなことが可能であったのか。そしてグーグルは私たちをどこに連れて行こうとしているのか。『ニューヨーカー』の敏腕記者がこの二つの問いに正面から取り組み、丹念な取材をもとに著したのが本書である。鍵を握る人物や企業がめまぐるしく交替し、ITに詳しくない者にとっては意味不明の言葉が次々に登場する。この種の訳書によくあることとはいえ、原語を片仮名に置き換えただけの生硬な翻訳はお世辞にも読みやすいとはいえないが、グーグル内部、そしてグーグルに批判的な関係者からの綿密な聞き取りに基づいた内容は、以前このブログで取り上げた、NHK記者が番組制作の片手間に書いたグーグル礼賛のつまらないルポとは訳が違う。
 大学での起業から経営をめぐる試行錯誤、ヘッドハンティングと企業買収の応酬。無数のインタビューをとおして浮かび上がるグーグルの歴史はインターネット黎明期の年代記としても興味深い。読めば読むほど、グーグルが特異な企業であることが理解できる。創業者のペイジとプリンは経歴が示すとおり、純粋なエンジニアである。彼らは世界中の全ての情報を検索可能にするという壮大な野心のもとに、次々に画期的なプロジェクトに着手する。彼ら二人がきわめて優秀なエンジニアであったことは間違いないにせよ、IT技術の急速な革新とインターネット環境の整備、さらには彼らのような起業家を支援する投資家の存在といったいくつもの時代的な背景が重なり、グーグルの奇跡は可能となったのであろう。創業時のグーグルの社風が徹底的なエンジニア重視であったことは本書を読むと直ちに理解される。エンジニアにとって働きやすい環境を整備することが最大の目標であり、社員が無料で利用できるカフェレストランをはじめとするさまざまの福利施設やサーヴィス、エンジニアのために効率化された社内組織、さらに就業時間の20パーセントを仕事とは無関係の各自の研究に充ててよいとする有名なルールなど、「エンジニアの楽園」と呼ぶにふさわしい環境が整備される。しかし研究機関ならばともかく、ひとつの企業としてグーグルが生き延びるためには収益を得ることと、マネージメントを専門とするスタッフが必要とされる。オーレッタは多くの関係者にインタビューを重ねて、意地悪くいうならば「理系の専門馬鹿」によって設立されたグーグルがいかにして巨大な企業へと成長したかをあとづける。結論を単純化して述べるならば、収益に関してはアドセンスとアドワーズという検索連動型広告の導入によって、従来のシステムとは全く異なった画期的な広告の手法を開発する。スタッフに関しては、ペイジとプリン自らが面接官を務める面接試験を経て、紆余曲折の結果、現在のCEOであるエリック・シュミットという有能な経営者を得て、企業としての地歩を固める。しかしながら本書を読む限り、この経緯も決して単純ではない。今では考えられないが、草創期において、グーグルは検索エンジンとしての優秀さは広く認知されながらも全く収益を上げることができない時期がしばらく続いたという。またシュミットを獲得するまでの複雑な経緯、さらにシュミットが加わった後、ペイジ、プリンとシュミットの微妙な関係などもきわめて興味深く、本書の読みどころであろう。先にも述べたとおり、グーグルの特異さはこれほどの大企業でありながら、エンジニアが完全にイニシアティヴを握っている点に求められる。全ての情報を検索可能にするという理想は確かに人類にとって一つの夢かもしれない。そしてグーグルの技術力はもしかしてそのようなことが可能となるかもしれないという幻想を抱かせる。いかなる高い理想のもとに開発されようとも科学技術自体は没価値であり、善でも悪でもない。しかしグーグルは「邪悪になってはいけない」という有名な社是を導入することによって、開発する技術が善であることを自らのレゾン・ド・エートルとして提唱する。今日、企業が利益を社会に還元することはなかば常識とされている。しかしここまで無邪気に自らの善性が事挙げされる時、私たちは当惑を覚えざるをえない。このような無邪気さは本当にその技術力によって裏打ちされているのであろうか。検索によって有用な情報と有害な情報をともにピックアップすることができるが、その内容を技術的に区別することは不可能なはずだ。私はグーグルを牽引するエリートエンジニアたちが抱く技術と人間性に対する奇妙な自信と楽天主義をなんとも不可解に感じる。とりわけ本書で縷述されるとおり、巨大企業に成長したグーグルが組織の宿痾とも呼ぶべきさまざまの弊害を露呈させつつある現在、このような理想を掲げ続けることは果たして可能であろうか。
 いうまでもなくグーグルの全ての活動は情報の流通という問題と関わっている。翻って広告も一つの情報と考えることができよう。必要な情報を得る過程で、それと関連した商品に関する情報(広告)に触れる機会をつくること。新聞やTV、あるいは雑誌といった媒体もこのような枠組に関しては基本的にグーグルと変わるところがない。しかしグーグルの場合、決定的に異なるのは情報を無料で得ることができることだ。音楽や映画といった娯楽も一つの情報と考えるならば、有料か無料かという差異が一つの業界にとって死活的な意味をもつことは容易に理解される。オーレッタは特に新聞社と音楽業界に集中的に取材して、グーグルが推進する一連の試みが著作権や報道のモラルといった問題とどのように抵触するかを検証する。オーレッタの取材は「邪悪でない」はずの企業が秘める攻撃性や傲慢さ、秘密主義に肉迫している。今日、グーグルがもたらす変化は劇的であり、それがどのような帰結をみるかについて誰も確信をもって論じることができない。『GOOGLED : The End of the World As We Know It』という原著のメインタイトルは直訳するならば「グーグル化された」といった意味であるが、日本語タイトルの『グーグル秘録 完全なる破壊』とは今述べたような状況を暗示している。
 本書を読んで私はあらためて二つの懸念を抱いた。まず一つの私企業がかくも膨大で詳細な個人情報を掌握することの恐怖である。むろんもしこれらの情報が漏洩することがあれば、それはグーグルという企業にとって致命的なダメージを与えるから、本書の中でも関係者がそのような危惧を一笑に付す記述がみられた。しかし私たちの行動、思想、嗜好から性癖までを一元的に管理するシステムが成立しうるという悪夢ではなく現実、それは私にとっていかなるディストピア小説より恐ろしい。本書の中に2008年のグーグル・ツァイトガイストという大集会において登壇した創業者の一人、サーゲイ・プリンが最近自らの母がパーキンソン病であると診断されたこと、遺伝子分析の結果、自らも同じ病気を発症する確率が判明し、それに基づいて自分の人生を設計できることは「ツイている」と述べたというエピソードがある。この挿話が意味するところは明らかだ。私は直ちに遺伝子的に管理された未来社会を描いたSF映画「ガタカ」を連想した。グーグルの技術は今や究極の個人情報とも呼ぶべき遺伝情報の管理へと道を開こうとしている。つまり人が生まれながらにしてその遺伝子的形質によって検索され、選別され、管理される社会。むろんこれは今のところは悪夢にすぎない。しかし一企業が開発した「中立的な」技術が国家によって、独裁者によって統治のための道具として使用された例は歴史に事欠かない。(本書に記載された記事ではないが)各国の諜報機関はグーグルに強い関心をもち、そのような機関との関係について問われたグーグルは例によって木で鼻をくくったような返答をしたという。中国からの撤退問題でも明らかなとおり、グーグルは今や国家に対しても脅威を与える存在であるが、両者の関係は今も必ずしも明確ではない。
 グーグルという検索エンジンを介す時、情報は質ではなく検索頻度によって評価される。「群衆の叡知」といえば聞こえはよいが、クリックされやすい情報が集中的に消費されるシステムによって世界が一元的に覆われることにも私はなんとも不気味な印象を受ける。かかる検索アルゴリズムこそグーグルの秘密の核心であり、それは恣意の介入する余地がない機械的なプロセスであるという。それは真実であろう。しかしそれならば人間もまたかかる検索アルゴリズムの一部、機械の一部と化しているのではなかろうか。人は検索をすることによって、グーグルにデータを与える。そしてそれらのデータは世界を多様にするのではなく、均質化する。世界を一つの機械とみなす発想は古来より存在したが、グーグルの検索エンジンはこのようなモデルの最新かつ完璧な実現形態ではないか。そこでは人のために検索エンジンが存在するのではなく、検索することによってのみ人は世界に対して意味をもつ。かかる倒錯からは例えば映画「マトリックス」における現実と仮想現実の反転するイメージなども連想されよう。
 私はいささか飛躍しすぎただろうか。繰り返しとなるが、本書を通読して私はグーグルがきわめて異例の企業であることをあらためて認識した。今日、携帯電話やPCなしに社会生活を送ることができないように、今や私たちは検索という営みなしの生活を想像することはできない。携帯電話やPCはハードウエアであるから、代替可能である。これに対して検索とは人間の精神のあり方と関わっているように思われる。それに関わる技術が今やただ一つの私企業に独占されているという事実はさらに深く思考されてよいのではないだろうか。
by gravity97 | 2010-07-28 21:22 | ノンフィクション | Comments(0)