Living Well Is the Best Revenge

tomkins.exblog.jp

優雅な生活が最高の復讐である

原武史『滝山コミューン一九七四』

 3年前に刊行され、書店で手に取りながら読む時機を逸した本書が思いのほか早く文庫に入った。若干の加筆訂正があるとのことでもあり、文庫化されたタイミングで通読する。
 1974年、東京郊外の滝山団地。筆者である原が通う東久留米市立第七小学校で、一部の教師によって児童を主体とした自主的な学習や生活に取り組む指導が進められた。原は次のように記す。「私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶこととする」一見、理想の共同体のごとく感じられる「滝山コミューン」での日常は、しかし原にとってきわめて抑圧的な体験であった。およそ30年後、社会学者となった原が当時の記憶と記録を掘り起こし、この異和感の由来を探った記録が本書である。したがって本書は小学校時代、とりわけ小学校6年生の夏というきわめて限られた期間、自分が感じた居心地の悪さを広く社会的、歴史的な背景を視野に容れながら分析した記録ということができるだろう。普通なら忘却してしまう幼時の記憶に拘泥し、30年後に検証するという屈折はそれなりに切実であるし、それゆえか本書は講談社ノンフィクション賞を受賞したとカバーに記されている。しかし本書を読み終えた感想は一言で言って生ぬるい。ノンフィクションと呼ぶにしては調査やインタビューが場当たり的で、参照される資料も限定されているうえに書誌的な言及がほとんどない。佐野眞一や鎌田慧のノンフィクションやルポルタージュに馴染んだ私にとって、本書は感傷に基づいた学者の回想でしかない。
 実は私は原と同世代である。したがって本書の中で言及される事件や風潮について、私も原とほぼ同じ年齢で経験している。例えば本書の中で原が通った第七小学校の事例が先進的な例として朝日新聞の連載コラムで取り上げられたという記述があるが、このコラムとは当時朝日新聞に長期連載され、大きな反響を呼んだ「いま、学校で」という記事であろう。この連載を当時小学校高学年であった私も毎朝読んだ記憶がある。ただし地方で育った私には大都市圏の学校における教師と児童、親と児童、そして児童相互の葛藤のニュアンスがよくわからない。おそらく原は気づいていないだろうが、同じ時代に地方都市で育った者が読むならば、本書の記述には無自覚の特権意識が見え隠れしている。このような無意識はこれに先立つ60年代末、高校時代の回想であるが、自己美化に満ち満ちた四方田犬彦の『ハイスクール1968』、あるいは東京ではなく阪神間を舞台とした中島らもの青春記『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街』などを読んだ際にも感じられた。人は少年期あるいは青年期を与えられた場で一度しか生きられないとはいえ、たまたま都市部に生まれたという偶然によって自分たちが恵まれた環境で成長したという事実にこれらの書き手たちが全く無自覚な点にかねてより私は不審を感じている。
 本書に戻ろう。東京郊外、新興のマンモス団地の中にある東久留米市立第七小学校はきわめて特殊な環境下にあったと原は指摘する。児童のほとんどが団地に住んでいたため、きわめて同質的な社会集団が形成されていたからだ。高度成長時代の末期、労働問題はいたるところでストライキとして噴出する。国鉄のストライキ、あるいは日教組に指導された教職員のストライキが頻発し、しかも革新系の政党の支持者が多い団地において、ストライキは漠然とした支持を得ていたという。反安保闘争、ベトナム反戦運動と続いた「政治の季節」が72年の連合赤軍事件で終焉し、代わって個人主義、私生活主義が台頭するという教科書的な戦後史観を原は拒絶する。つまり「政治の季節」が終わったはずの70年代中盤においてもなお社会主義の理想は持続し、民主主義や自主性といった理念が息づいていた。このような理念はことに1970年代、郊外の団地(この問題は島田雅彦がいくつかの小説で主題化したサバーヴィアニズムの問題とも関連づけられてよいだろう。ちなみに島田と原は同年代のはずだ)をバックグラウンドとする教育現場においてなおも信奉されており、自主的なPTA活動の確立、文部省検定を通らない算数の教科書の使用といったかたちで第七小学校においても実践されていた。そして何よりも重要なのは日教組から生まれた全国生活指導研究協議会という民間教育団体が主導する「学級集団づくり」という手法が、片山という若い意欲的な教師を通じてもたらされたことである。私はこのような手法が当時どの程度普及していたかわからない。私が通っていた小学校にも本書の一つの章のタイトルとなっている「代表児童委員会」のようなものは存在していたと記憶する。あるいはこのような手法が今日の教育現場ではどのように総括されているかについても知りたいところである。いずれにせよ、「学級集団づくり」とは学級をより小さな班という構成単位に分割し、学級活動に対して各人に一定の役割や責任を分担させ、優秀な班と劣った班(ボロ班)を決めるために班対抗の競争をさせるという手法である。これが果たして「教育的」な指導であろうか。片山に指導された5組の児童たちは次第に「代表児童委員会」の主要なポストを占め、ロボットのように学校を支配する。このように内面化された恐怖政治の一つの頂点が児童たちによって「自主的に」計画された林間学校であった。きもだめしや登山、食事作りといった一見楽しげな催しが「学級集団つくり」を介して統制されることについての強い異和が語られる。私も集団生活とか団体行動が大嫌いだから、原の感慨はわからないでもない。高い理念と熱い情熱をもった教育が現実にはきわめて独善的なふるまいに終始することは十分にありうる。あるいはティーンエイジャーを利用して、しかも彼らの内発によって残酷な統治や支配を実行する手法は原も言及するヒトラー・ユーゲントから紅衛兵、最近ではポル・ポト治下のクメール・ルージュの少年兵まで歴史的にたどることができるかもしれない。
 b0138838_2193335.jpgしかし所詮は「滝山コミューン」、コップの中の嵐ではないか。
 私が本書を批判的に読む理由は、原が「滝山コミューン」に対置し、小学校では得られない安らぎを得たと回想する場が「四谷大塚」という悪名高い受験予備校であるからだ。原は日曜日ごとにこの予備校の試験に通い、強制も指導もない休日を過ごす。鉄道好きの父親の影響、そして毎週、四谷や代々木に通う通学の途上、多くの鉄道を乗り継いだ体験が後年の原の鉄道趣味を培ったこと、あるいはこの移動と関連して語られる御用列車や天皇をめぐるいくつかのコメントも本書の読みどころであり、最近の原の仕事の片鱗もうかがえる。原は「四谷大塚」について語り始める際に「私はいまでも、この時点で中学受験の権化というべき四谷大塚と関わりをもったことを恥ずかしく思っている」とその印象を率直に記している。そして現実においても自主的な学習を是とする「滝山コミューン」にあっては、週末ごとに学習塾へ通うことは指弾されても仕方のない行為であった。この本の随所で塾通いについて感じた居心地の悪さが記される一方で、当時交流した数少ない友人の多くが「四谷大塚」に通っていたことも記されている。「滝山コミューン」から疎外された原にとって、「四谷大塚」が一種のアジールとなったことは十分に推測されよう。しかし私立中学受験希望者を集めては試験を課し、選別するシステムは「滝山コミューン」以上にくだらない。「四谷大塚」に関する記述が機械的で淡々としているのは原がこの点を自覚していたことを暗示しているだろう。本書の中で第七小学校の同級生の母が著し、講談社から刊行されたという『有名中学合格―母親が書いた初めての中学受験モーレツ日記』(それにしてもなんというタイトルだろう)という本から引用がなされるが、当時の「教育ママ」のなんとも救いようのないメンタリティがうかがえる内容である。原も説くとおり、「滝山コミューン」はきわめて特殊な例かもしれないが、学校では疎外され、受験塾とその行き帰りにかろうじて安らぎを得る小学生の姿には同情を禁じえない。当時の日本の教育システムに根本的な病根があったのか。あるいは同様の苛酷な状況は今日も都市部では続いているのであろうか。
同じ時代に学校生活を送りながら、私はそのような息苦しさを感じたことがない。それは単に私が「学級集団づくり」とも私立中学受験と無縁な、のどかな地方都市で日々を過ごしていたためであろうか。先に私は本書の類書として四方田犬彦と中島らもの回想を挙げた。原、四方田、中島の三人に共通する点はいずれも都市部の教育熱心な家庭に育ち、名門と呼ばれる学校に通ったことであるが、彼らはいずれも学校生活の中で深刻なアイデンティティー・クライシスに直面する。彼らの回想を読むならば、今見たとおり原が小学校時代に、四方田が高校時代に、そして中島が大学時代に経験した挫折は三人にとって深いトラウマとなったことがうかがえる。最初に私は都市に生きる者の「恵まれた環境への無自覚」について語った。彼らの体験をどの程度普遍化できるかはわからないが、かかる精神的危機は彼らが育った「恵まれた環境」の代償なのだろうか。
by gravity97 | 2010-07-08 21:11 | ノンフィクション | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック