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写真のシアトリカリティ2 マイケル・フリードに聞く

 写真のシアトリカリティ2  マイケル・フリードに聞く_b0138838_922293.jpg昨今の美術ジャーナリズムの凋落、美術批評の低迷は目を覆うばかりであるが、気骨のある批評誌が皆無という訳ではない。今回紹介する『photographers’ gallery press』という雑誌がそれだ。誌名から推測されるとおり、新宿にあるphotographers’ gallery というギャラリーから一年に一回程度発行される定期刊行物であり、先日、第9号が発行された。私はこのギャラリーを訪ねたことがなく、運営主体、あるいはギャラリーの展示と雑誌がどのような関係にあるのかわからないが、毎号、レヴェルの高い論文が収録され、読み応えがある。いくつかの書店にはバックナンバーが常備されているらしいが、私は書店や美術館のブックストアで本書を見たことがない。内容のみならずデザインやレイアウトも隅々まで配慮が行き届いたこのような批評誌が一体いかなる編集者、編集体制のもとに発行され、いかなる層に支持されているか、興味のあるところだ。
 さて最新号は帯にあるとおり、特集として「写真のシアトリカリティ2」、メインの記事として、マイケル・フリードへのロング・インタビューが収録されている。現代美術の批評に通じた者であれば、これらのキーワードを一瞥するだけでただちにこの特集の高度の批評性が理解されよう。フリードとシアトリカリティ、それにしてもなぜ「写真の」シアトリカリティなのか。実はこの雑誌でこれらの問題について特集が組まれたのは最初ではない。2006年に発行された第5号で「写真のシアトリカリティ」と題された最初の特集が組まれ、翌年に発行された第6号においてはマイケル・フリードが2005年に発表した「ロラン・バルトのプンクトゥム」と題されたテクストが訳出されるとともに、今回の特集でフリードにインタビューを行った甲斐義明氏の「写真とカラーフィールド・ペインティング―マイケル・フリードのジェフ・ウォール論」という論考が掲載されていた。フリードがバルトを論じたことにはさほどの感慨もなかった私であるが、ジェフ・ウォール論を発表したと知り、驚愕してしまった。さらに追い討ちをかけるように2008年にフリードはジェフ・ウォール論を含む浩瀚な写真論集『なぜ、写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』をイェール大学出版局から刊行した。フリードの美術批評と美術史研究になじんだ者であれば私ならずとも、その挑発的なタイトル、そしてよりによって彼が写真をテーマとした大著を江湖に問うたことに衝撃を受けるだろう。しかしそれ以上に驚くのはフリードの問題意識の一貫性である。特集のタイトルにあるとおり、彼の写真論において一つのキーワードとなるのはシアトリカリティ(演劇性)なる概念であるが、周知のとおり、この概念は1967年に発表された有名な論文「芸術と客体性」において、ミニマル・アートを芸術の敵として排撃する際にミニマル・アートの本質として提起された。フリードは60年代後半にフォーマリズム批評の規範とも呼ぶべき一連の論文を発表した後、突然現代美術の批評から撤退し、『没入と演劇性』に始まるいわゆる美術史三部作を発表する。フランス近代絵画を没入(absorption)と演劇性(theatricality)という対立概念でとらえるという発想はディドロに触発されたものであるにせよ、演劇性というミニマル・アート批判、つまりモダニズム美術擁護の中で陶冶された概念がフランス近代絵画という全く別の文脈に持ち込まれて鋭利な切れ味を示したことは当時きわめて刺激的に感じられた。ただしフリードは慎重に現代美術批評と美術史研究を区別しているため、これらの議論は表面上交差することはなかった。そしてこの概念が最初に提起されてからおよそ半世紀近くが経過した今日、こともあろうにポスト・モダニズム、現代写真の分析に同じ概念が導入されるとは、私でなくても知的な興奮を覚える事態であろう。
 フリードは私の知る限りでも1991年に来日していくつかの大学と美術館で講演を行った。その折に氏と語らう機会があったので、私はなぜ現代美術に関心を失ったか、率直に訪ねた覚えがある。興味を引くような作家も作品もなくなったというこれまた率直な答えがあり、実際にフリードはいくつかの文章の中で同様の感想を述べていたと思う。その後、98年にシカゴ大学出版局から『芸術と客体性』と題された60年代後半の現代美術批評をまとめた論集が刊行されるという事件はあったが、90年代以降の美術の中に議論に値するものはあまりないという点に関しては私も同意見であったから、私の中ではフリードが現代美術の批評に手を染めることはおそらくもうないと考えていた。ところが彼は2005年頃より矢継ぎ早に現代写真に関する批評を始めた。先にも触れたとおり、私はこの雑誌の第6号に掲載されたフリードのバルト論の訳者解題、そして甲斐氏の論文を通じてそのことを知ったが、原著を入手することができなかったので詳細を確認することができなかった。しかし昨年、先に述べた写真論集が刊行されたため、早速入手し、図版を参照しながらフリードの議論を追っていたところ、絶好のタイミングでこの特集が発行された訳である。
 私は写真を専門に研究している訳ではないし、フリードの新しい大著を精読した訳でもない。ここでは今後検討されるべきいくつかの論点を指摘するに留めたい。実際にフリードの写真論について論じることはかなり難しいとみえて、フリードのインタビューの後に収録された林道郎氏の解説もいつになく難解な印象を受けた。おそらくそれはバルトからソンタグにいたる一連の写真論の文脈に、主として20世紀アメリカ美術とフランス近代絵画研究の中で陶冶されたフリードの作業仮説を挿入することの困難に起因しているだろう。実際にインタビューの中で言及される「被視性(to-be-seenness)」、あるいは「隔離世界性(world-apartness)」といった重要な概念はフリードのこれまでの研究と微妙な距離をとるように感じられるが、言及される写真家について十分な知識がないため、インタビューの中で説かれるところは必ずしも判然としない。しかしこれらの概念はひるがえって絵画の研究に際しても有効かもしれない。
 ジェフ・ウォールのごとき写真家であれば、フリードが論じる意味はわからないでもない。人物を中心に据えたいわゆるコンストラクテッド・フォトであり、多くの場合、なんらかの物語性が暗示されている。それらはフリードが時に批判的、時に好意的にとらえたフランス近代絵画の演劇的/没入的伝統との親近性を感じさせる。例えば『なぜ、写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』中、ジェフ・ウォールに関する論考の冒頭に掲げられた作品は実在の画家、エイドリアン・ウォーカーが解剖学の実験室で切断された腕をデッサンしている模様を撮影したものであるが、デッサンに没入している画家の姿は、甲斐も指摘するとおり、例えば机の上にトランプの札を立てる遊びに集中しているシャルダンの絵画を連想させる。さらにいえば解剖というモティーフ、メスを連想させる尖ったペンを手にした画家の姿から私やはりフリードが犀利な分析を与えたトマス・イーキンスの《グロス・クリニック》も連想された。あるいは上に掲げた表紙に掲載されている図版はやはりジェフ・ウォールが三島由紀夫の『春の雪』に触発されて制作した作品なのであるが、この作品を介してフリードが「豊饒の海」について語るのを聞くのはなんとも嬉しい驚きではないか。(実際にフリードの写真論にはヴィトゲンシュタインと並んで、三島から川端康成へ宛てた手紙が引用され、三島の『春の雪』に関する長い脚注で終わっている)没入というテーマ、あるいはオリエンタリズムとの関連でいえば、私は同様に周到なコンストラクテッド・フォトを制作するやなぎみわについてフリードがどのように判断するか、再会する機会があれば是非尋ねてみたいと考える。今みたとおり、ウォールとシャルダンの対比は理解しやすい。しかしさらに驚くべきというか、フリード的な思考のアクロバットに幻惑されるのはウォールの《モーニング・クリーニング》という作品、ミース・ファン・デル・ローエ設計のバルセロナ・パヴィリオンの室内を洗浄する掃除婦の情景をなんとモーリス・ルイスのアンファールッド・シリーズと結びつける議論である。作品のサイズ、構成要素を画面の両端にまとめる構図、窓の洗浄とルイスにおける絵具の流れの一致といった共通性が指摘されるが、抽象絵画と迫真的な写真。強引といえば強引、刺激的といえば刺激的な論点だ。さすがに私もここまでの飛躍にはついていけない気がするが、かなり強引な議論でも読むと納得というのが、フリードの美術批評/美術史研究を読む醍醐味であったから、フリードの大著についてはいずれ腰を据えて精読しなければなるまい。
 私の考えでは絵画と写真を論じるにあたって、最大の差異は表面に求められる。物質として成立する絵画の表面と、なめらかなイメージの広がりとしての写真の表面。インタビューの中でもこの点は中心的な論点の一つであったが、果たしてこの点を考慮することなく、両者を統一的なパースペクティヴの中に論じることができるか。私は大いに疑問に感じるし、この点に関してはインタビューの中でフリードの口が重いように感じられたもう一つの話題、メディウムの限定性の問題とも深く関わっているだろう。
 それにしてもこれほどレヴェルの高いインタビュー記事は最近読んだことがない。写真という領域ではあるが、この国で批評という営みが継続され、それを伝えるメディアが存在することに安堵の思いがある。フリードの大著に取り組むためには覚悟がいるが、このようなイントロダクションが存在することはまことに心強く感じられる。
by gravity97 | 2010-07-02 09:24 | 現代美術 | Comments(0)