村上春樹『1Q84』BOOK3

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 一年ほど前、このブログに刊行まもない『1Q84』のレヴューを書いた折には「完結性が高いので続編が執筆されるとは考えにくい」と記したが、しばらくして続編が執筆されていることが明らかとなり、先日、BOOK 3が刊行の運びとなった。一篇の小説を二度批評することは変な感じもするが、それに値する小説ではある。最初に二巻まで発表され、時間をおいて三巻が刊行されるという経緯は『ねじまき鳥クロニクル』と同様である。新作を読むにあたり最初からもう一度通読したため、やや遅れての書評となった。
 ここではBOOK2までを既に読了した読者を想定したうえで、これから読む読者の感興を殺がぬ程度に内容に立ち入って論じたい。といっても最初に目次に目を通すならば、物語の帰趨は明らかだ。前回も書いたとおり、『1Q84』は形式性がきわめて高い。BOOK1とBOOK2ではいずれも、青豆と天吾という二人の主人公をめぐって拮抗する物語が交互に語られる。二つの物語は次第に接近するのであるが、最後まで交差することはない。この点は目次からも明らかだ。いずれの章もタイトルに二人の名前のいずれかが表記され、それぞれ12章ずつ、分量的にも均等である。この形式は長調、短調それぞれ12曲で構成され、作中でも言及されるバッハの平均律クラヴィーアと対応しているかのようだ。グレン・グールドの演奏によって名高いこの楽曲集が1巻と2巻から成立しているという事情も私が『1Q84』はBOOK2をもって完結と考えた理由であった。これに対してBOOK3は全31章で構成され、青豆と天吾に加えてもう一人の人物の名前が章のタイトルに冠せられる。新たに加わるのは、「空気さなぎ」の発表後に天吾のもとを訪れ、恫喝とも買収ともつかない申し出を行う奇妙な風体の男、牛河である。ちなみに村上春樹の小説にはいくつかの小説に同じ名前をもった人物が登場するが、牛河は『ねじまき鳥クロニクル』にもほぼ同じ役回りとして登場していた。BOOK3でも牛河、青豆、天吾の章が順序よく整然と配置された後、「青豆と天吾」と題された最終章が配される。既にこの時点で作品の内容がほぼ予想されるし、実際にこの予想が裏切られることはない。しかしたとえ結末が予想されたとしても本書を読む楽しみは損なわれないだろう。
 BOOK2の最終部で1Q84年が閉ざされ、そこからの脱出が不可能であることを知った青豆は拳銃を口にくわえる。この場面で青豆の章が終えられたため、私たちは青豆の死と天吾との再会が果たされずに物語が終わった印象を受けたのであるが、正確には「引き金にあてた指に力を入れた」という記述に留まっている。今回再読してみると、BOOK2からBOOK3への移行はきわめて滑らかであり、自殺を思い止まった青豆はごく自然に物語に復帰する。実は青豆の翻意はBOOK2の最後の章、父親が入院する療養所を訪れた天吾の不思議な体験と密接に関わっており、この物語の緻密な構成の一角を占めている。再開された物語の展開は比較的容易に予想される。青豆と天吾はいつ、どの世界で再会することとなるか。読者の興味はこの点に向けられ、いくつかの新たなエピソードを加えながら、物語は再会の時に向けてゆるやかに動き始める。その過程でBOOK3に持ち越された謎のいくつかについては一応の解決が与えられる。前回のレヴューで私はこの小説において村上の作品の中でも「言葉が最も念入りに彫琢されている印象」について論じた。この印象は今回も変わることがない。世評も高く、大ベストセラーとなったBOOK1、BOOK2同様に、構成そして表現いずれにおいてもきわめて綿密に練られた印象があり、物語はみごとに完結する。
 しかしかかる完結性は果たしてこの小説にとって望ましいものであっただろうか。かつて蓮實重彦は『小説から遠く離れて』という興味深い小説論の中で、当時発表された、作者も内容も全くことなるいくつかの小説が実は同じ構造をもっていることを指摘したことがある。その際に引用されたのは例えば村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、井上ひさしの『吉里吉里人』、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、さらに中上健次の『枯木灘』、そして村上春樹の『羊をめぐる冒険』であった。私はBOOK3を読み終えて、この評論を連想した。『1Q84』はきわめて独創的な物語でありながら、その構造において非常に単純というか、伝統的な説話構造に立脚している。青豆と天吾、「さきがけ」と「柳屋敷」、NHKと証人会そして1984年と1Q84。この小説にはいたるところに対立的、二元的な構造が成立している。物語を駆動するこのデュアリズムは神話や伝説でもおなじみのものである。二つの物語の並立がフォークナーの『野生の棕櫚』のごとく最後まで無関係に交差するのであれば、そこには物語の構造に対する批評性が成立するし、少なくともこの小説がBOOK2で完結していればこのような可能性がありえた。しかしBOOK3で再び青豆と天吾をめぐるラブ・ストーリーが再開された時、それは予定調和的な結末を予想させる。さらに1984年と1Q84の往還というモティーフもきわめて図式的である。高速道路にあるエッソの広告看板のエピソードをめぐり、二人が最後に別の「1Q84」へ移行した可能性は暗示されつつも、この小説は一種の異界伝説として読むことができよう。そしてBOOK2まで漂っていた村上の小説特有の不気味さもBOOK3ではいくぶん希薄となる。特に「梃子で持ち上げた岩の間から這い出してきたとんでもないもの」と形容され、正体不明であった牛河が主要な登場人物の一人となって、その履歴や言動がつぶさに語られる時、もはや彼は読者に負荷を与える存在ではない。BOOK2の途中で一旦姿を消した小松をめぐるエピソードも同様だ。BOOK3を読むと、それまで物語に緊張を与えていたいくつかの問題に解決が与えられる。小説の冒頭に登場した天吾の母のイメージ、あるいは天吾の父と母の関係。父というモティーフが初めて村上の小説に導入された点は何人もの論者が指摘している点であるが、父をめぐる謎解きはやや安易ではなかろうか。私は小説とは必ずしも因果論によって説明されるべきではないと考える。むしろ因果論を超えた奇妙な歪みが与えられた時、精彩に富むように感じるのである。
 『1Q84』は単にベストセラーになったということだけでなく、小説家としての村上の到達点を示す高い完成度をもつ小説である。結末も多くの読者にとって受け容れられやすいものであり、おそらく作家の代表作の一つとして今後も長く読み継がれることとなるだろう。ただ私はこの小説を最後まで通読し、多くの未完の小説の書き終えられた姿を夢想するのと逆に、もしこの小説がBOOK3まで書き進められることなく、BOOK2で終えられていたらどうであったかというありえざる夢想もまた禁じることができない。
by gravity97 | 2010-05-17 09:58 | 日本文学 | Comments(0)

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