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Living Well Is the Best Revenge

阿部和重『ピストルズ』

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 『群像』に連載時は「ピストルズ」と片仮名表記されていたから、pistols、拳銃のことであろうと思いこんでいたが、表紙にあるとおり、pistils、雌しべという意味らしい。『シンセミア』同様、ダブル・ミーニングの謎めいたタイトルであるが、「雌しべ」というタイトルからは直ちに作品の内容と深く関わる二つの主題系列が浮かび上がる。一つは植物、花、さらに香りといったフローラルな主題であり、もう一つは女性性という主題である。この長大な小説にこれら二つの主題が横溢していることは直ちに明らかになる。物語が始まるや、様々な花の名前が言及され、物語の主人公たる一族が操る秘術は植物や香水と深い関係を帯びる。「シンセミア」もsin semillaとsinsemilla の二つの含意をもち、前者は「種子がない」、後者は高純度のマリファナというやはり植物と関連した意味をもっていたことも想起されよう。「シンセミア」は一つの町を暴力と騒擾が襲うマッチョな物語であったのに対し「ピストルズ」は秘術によって他者を操る特殊な能力をもった菖蒲(あやめ)という一族の四人姉妹をめぐる年代記である。しかし女性性という問題に関して注目すべきは内容以前に文体だ。一人称によって語られるこの小説には、二人の話者が存在する。書店主石川と菖蒲家の次女で小説家のあおばである。説話的にはやや複雑な構造をもち、あおばの語りは石川に対してなされ、石川はそれをPC内に文書ファイルとして記録する。つまりこの小説は本人の独白も含め、PC内に残された石川の手記として読むことができる。石川という男性によって記された手記にいかにして女性性を賦与するか。語りにおける性差の問題は実はこの小説の成否に関わっており、阿部は巧妙な手法によってこれに応える。つまりあおばによる独白としては、ですます調の慇懃きわまりない特異な文体が導入される。石川の語りとあおばの語りは小説の内容において区別される以前に、文体をとおして弁別されるのだ。通常私たちは一つの文章が男性、女性のいずれによって書かれたかを意識しないが、「ピストルズ」における過度に女性的な語りに読む者は一種の居心地の悪さを覚える。文体における女性性の発露は語尾のみならず表記のレヴェルでも周到に計算されている。一例を挙げよう。文中には「ひみつ」という言葉が頻出する。もちろん「秘密」のことであるが、地の文中にこの言葉だけ平仮名で表記され、きわめて異様な印象を与える。しかし若い女性による語りの中であれば、「ひみつ」という言葉は様々なコノテーションとともにさほど違和感なく収まる。阿部は小説の形式的側面に拘泥する作家であるが、本作においても様々な形式的、文体的配慮がなされていることが理解されよう。女性の語りという手法が部分的に初めて用いられたのは『ミステリアス・セッティング』であったように記憶しているが、今から思えば、それは『ピストルズ』の準備ではなかっただろうか。私にとって本小説はまず文体の実験であるように感じられた。
 例によって形式的な側面ばかり論じてしまったが、続いて内容についてやや立ち入って検討することにしよう。この小説の舞台は山形県神町。阿部の出身地であり、実在する地名である。阿部はこの地を舞台にしたいくつもの作品を発表し、これらはヨクナパトーファ・サーガならぬ神町サーガと呼ばれている。本作品はほかの作品で言及された事件との関係が特に強い。私が気づいた限りにおいてもこれまでに発表された四つの小説と関係している。まずこの物語は全体として『シンセミア』の後日譚であり、『シンセミア』で語られた6年前の事件が別の角度から再話される。ついで『グランドフィナーレ』の主人公がこの小説の終盤で重要な役割を果たす。さらに登場人物の一人は、その特殊な苗字から中篇「ニッポニア・ニッポン」の関係者であることが推測される。そして最後でとってつけたように言及される事件は明らかに『ミステリアス・セッティング』のカタストロフであるはずだ。小説が互いに嵌入しあう構造は、フォークナーは言うに及ばず日本でも大江健三郎や中上健次の一連の作品にも認められ、阿部がこれらの作家を強く意識していることをうかがわせる。
 阿部の小説は日付が明確に書き込まれる場合が多い。再び形式的な話題に戻るが、本作品が実際に『群像』に連載されたのは2007年から09年である。物語の冒頭が設定されているのは2006年であり、物語の終盤で語られる「血の日曜日事件」は05年8月に発生している。したがってこの物語は05年8月をクライマックスとする一連の事件を06年という時点で語ったものであり、さらに最後に「補遺」として2013年の年記をもつ章が挿入されている。この小説における年記の明確さには理由があるだろう。この小説では一つの歴史を語ることが主題とされているからだ。出所の怪しいいくつもの文献を参照しながら菖蒲という特殊な能力をもつ一族の活動が遠くは弘法大師の時代から説き起こされる。このような発想が作中でも言及される半村良の『産霊山秘録』を直接に反映していることは明らかであろう。ただし半村が「ヒー族」なる超能力を操る家系の歴史を戦国時代から現在までの長いスパンで扱ったのに対して、『ピストルズ』で描かれるのは比較的最近、1970年頃以降という比較的短い期間の菖蒲一族と神町の関わりであり、その発端はいわゆるフラワー・ムーブメントである。フラワー・ムーブメントがこの小説の一つの主題であることは本書のカバーの下に隠されたよく知られた写真が暗示しており、語り手の石川が初めて菖蒲家を訪れた際、広大な敷地で繰り広げられる風景は1960年代から70年代にかけてのヒッピー文化のそれである。マリファナ、神秘体験、瞑想、あるいはフリーセックスといったヒッピー文化特有のモティーフがこの長大な小説の内容ときわめて親和的であることは読み始めると直ちに理解されよう。菖蒲一族は様々な植物を調合して作り出した薬品や歌声によって他者を思いのままに操るアヤメメソッドとよばれる秘術を一子相伝で伝える。しかもこの継承は一族の内部における権力の委譲を意味するから、子は親を倒すことによってこの秘術を我がものとする。したがって四女みずきによる秘術の継承はジェンダー間の闘争でもあり、みずきの修行を描いた箇所は作品の一つのクライマックスを形成する。『ピストルズ』は過去から未来へ、親から子へという時間軸を物語の原理としており、物語は時間軸に沿っていわば垂直的に展開されるのであるが、最後の部分で一挙に水平化され、この点は物語の成立とも深く関わっている。垂直と水平、ここで時間に対比されるのは空間ではない。石川がPCに文書ファイルとして残した菖蒲一族の物語はウイルスに感染したファイル共有ソフトを介してインターネット上に流出してしまうのだ。かくしてアヤメメソッドによって本来ならば石川の記憶から消去されるはずであった一族の物語を私たちは『ピストルズ』という小説として読むこととなる。情報の秘匿を意味する一子相伝というモティーフと遍在する情報としてのインターネットを対比させ、両者の対立に絡めて語りの必然性を導入する構造も巧みである。
 かくのごとく小説の形式的完成度は高い。阿部との対談の中で蓮實重彦が本作品を高く評価する理由も理解できる。しかし私はいくつかの不満を感じた。阿部の小説にみられた疾走感が感じられないのだ。『ピストルズ』は七つの章によって構成されているが、それぞれは例えば菖蒲家におけるフラワー・ムーブメントの高まり、あおばの異母姉妹の紹介、あるいはみずきの修行といったテーマに細分され、有機的な統一性を欠いている。章によっては冗長に感じられる箇所もあり、最初に述べたほかの小説との関係も、いささか強引、時にこじつけめいてちぐはぐな感じがする。クライマックスの「血の日曜日事件」もあまりにあっけない。端的に言って、形式における完成度にまで内容が達していない印象が強いのである。形式と内容の乖離はこれまでも阿部の小説を読む際に時折感じていた点であるが、『ピストルズ』においては文体の実験が一定の成果をあげているだけに惜しまれる。
聞くところによれば『シンセミア』と『ピストルズ』は神町サーガ、長編三部作のうちの二篇として構想されているという。作家の力量に疑問の余地はない。最後の一篇を鶴首して待つこととしよう。
by gravity97 | 2010-05-01 08:06 | 日本文学 | Comments(0)