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優雅な生活が最高の復讐である

「マイ・フェイバリット―とある美術の検索目録/所蔵作品から」

b0138838_20135141.jpg 原著が日本語に翻訳されているかどうか私は確認していないが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の冒頭で引用される有名なボルヘスの文章がある。「シナの百科事典」からの引用として紹介される次のような箇所だ。

動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)数えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)今しがた壷を壊したもの、(n)遠くから蝿のように見えるもの

 なんとも奇怪な分類、というか分類という営みの不可能性を揶揄するかのようなテクストであるが、「マイ・フェイバリット」を見てすぐさま連想したのはこの一文であった。
 本展は京都国立近代美術館の学芸課長、河本信治氏が手掛ける最後の展覧会、いわば引退興行である。これまで「移行するイメージ」や「プロジェクト・フォー・サバイバル」、最近では椿昇の個展など、文字通り「近代美術館」の限界を確信犯的に露呈させるメタ展覧会を次々に企画してきた氏の花道が常識的な展覧会であろうはずがない。驚くべきことにこの展覧会は所蔵作品展である。展覧会に際して刊行されたカタログには背表紙に「京都国立近代美術館・所蔵作品目録Ⅷ」と印刷されている。それではいかなる所蔵作品が出品されたか。巻末のリストを見れば明らかだ。本展は京都国立近代美術館の所蔵品中、種別として【その他】に登録された作品を中心に構成されている。ある程度美術館という制度に通じたものであれば、この点から直ちに本展の批評性を理解することができるだろう。
 コレクションとは美術館の欲望であり、存在理由である。そしてある作品を美術館の所蔵作品として登記するためにはまずそれに位置を与える必要がある。一つの作品は種別に始まり、作家名、作品名、制作年、素材、サイズ、技法といった無数の分類の格子の中にその位置を定められる。同じような原理は例えば美術に関する学術論文、大学の講義、あるいはカタログ・レゾネといった諸制度に通底している。それらは多く「近代」と深く関わっている。河本氏が美術館における近代と現代の区別に拘泥する数少ない、というよりほとんどただ一人の学芸員であった点は留意されてよいだろう。実は「近代美術」とはこのような格子の厳密な設定によって成立している。試みに「作家」という分類を取り上げてみよう。「近代美術」において作家は個人でなければならず、成人でなければならず、多くの場合、男性、さらに言うならば白人男性でなければならなかった。マネに始まり、モーリス・ルイスに終わる「近代絵画史」の中でこのような枠組と矛盾する作家を私たちは一体何人挙げることができるだろうか。
 種別に関しても、「近代美術」はこのような分類格子の厳密な適用を要求する。クレメント・グリーンバーグは有名なテクスト「近代主義絵画」において、近代と絵画という二つの格子の交差の中で、絵画が還元的な営みとして一つの進化を遂げたことを説得的に論じた。グリーンバーグの所論に対して今日多くの批判が寄せられていることは私も理解しているが、彼は対象を絵画というメディウムに限定したがゆえにこれほどの影響力をもつ理論を提出しえたのであり、ネオ・ダダのごときクロスメディア的な表現への敵意も同じ理由による。河本氏が別の展覧会に際して論じたとおり、美術史の編纂を任務とした「近代」美術館がこのような制約から逃れらないことは必然であろう。近代美術館のコレクション・カタログを開いてみるならば、今述べたとおり、作家名から技法にいたる無数のデータが一つの作品を特定する条件として記載されている。そして多くの場合、そのような細目のさらに大きな前提として種別、作品のジャンルが設定されている。つまり大半のコレクション・カタログにおいては例えば彫刻、洋画といった種別に章立てがなされたうえで、作家や制作年に従って作品が配列されている。この点は作家や年代に比べて種別という分類が安定していることを暗示している。しかし少なくとも1960年代以降の美術を念頭に置く時、このようなジャンルの安定性こそが問題とされたこともまた明らかである。しかし単にジャンルの混交ということを主題にしたのであれば、この展覧会は底の浅い内容となってしまったであろう。この展覧会が真に革新的であるのは、企画者の問題意識が作品ではなく「近代美術館」に向けられているからだ。一例を挙げよう。京都国立近代美術館には工藤哲巳の《イオネスコの肖像》が収蔵されている。グロテスクなオブジェのアッサンブラージュによって構成されたこの作品は60年代的なクロスメディアの気風を伝えている。しかしこの作品は本展覧会には収められていない。その理由は《イオネスコの肖像》が「彫刻」に分類されているからではないだろう。工藤の場合、いかに従来の彫刻と異質に感じられるにせよ、作家の意識はジャンルそして「近代美術」という枠組をなんら問うことがないからである。《イオネスコの肖像》は一風変わった「彫刻」として大きな違和感なく、近代美術館のコレクションに収められる程度の作品である。この展覧会はこのような守旧的な作品を問題としない。これに対して同じ「彫刻」に分類されながらもこの展覧会の出発点に位置するのはデュシャンのレディメイドである。知られているとおり、京都国立近代美術館はデュシャンに関する優れたコレクションを有している。有名な《泉》や《壜乾燥機》は既製品に作家がサインすることによって作品として聖別される。これらの作品は既に美術史、さらに言えば現代美術史の劈頭に既に登記されているから、さすがに美術館としても「その他」という項目に分類することはできなかったであろうが、実はこれらこそ「その他」という種別にふさわしい作品ではなかろうか。私の考えではレディメイドとは絵画、彫刻といった近代美術のジャンルの外にある。先に引用したボルヘスの奇怪な分類に倣うならば、レディメイドはいわば「この分類自体に含まれていないもの」といった位置を与えられているのではないか。分類に属しながら分類の外にあることをその成立条件とするきわめてパラドキシカルな存在、その存在を内部に含むことが分類の意味自体を無効化してしまう、きわめて異様な存在としてレディメイドは「近代美術館」に受け入れられるのである。このような図式は直ちにゲーデル問題へと接続可能であるが、本論はレディメイドを論じる場ではないので、これ以上は敷衍しない。
 さて近代美術館が既成のジャンルに分類することが困難な作品を受け入れるためには二つの方法がある。一つは分類概念の可塑性を広げて、強引にいずれかの分類に引き入れる方法であり、本展の出品作であればクルト・シュヴィッタースのメルツ絵画を「油彩画」に分類することがこれにあたる。もう一つは新たにジャンルを加え、ジャンルを逸脱する作品をその中に投入する手法だ。実はこれに際して、近代美術館は二つの項目を設けている。一つはいうまでもなく「その他」であり、もう一つは「資料」である。後者は「作品」に対立するが、実は両者の区別に明確な規定はない。展覧会で壁面に麗々しく展示されるのが「作品」であり、最後のコーナーに展示ケースの中に一括して展示されるのが「資料」と考えるとわかりやすいが、ポスト構造主義を経過した私たちはこのような区別にそもそも意味があるのかという問いを立てる必要があろう。さらに美術館とアルカイヴの関係が様々な角度から検証されつつある今日、「資料」の問題もこれからの美術館にとって大きな課題となるだろう。「マイ・フェイバリット」に出品された作品の多くが「その他」とともに「資料」に分類されている点も、「資料」なる項目が今日の美術館に対して示す批評的な位置を示している。一方、分類の難しい作品をひとまず「その他」という融通無碍のジャンルに放り込む手法も多用されてきた。レディメイドのオブジェから巨大なカラー写真、家具にコーヒーセット、そこに含まれた「作品」のあまりに雑然とした様子、無規則性から私は思わず「シナの百科事典」を連想してしまうのだ。このような項目を立てることによってかろうじて保持される「近代美術館」という制度は一体どのような意味をもつのか。この概念的な展覧会を通覧し、細部から全体へ、瑣末から本質へのみごとな反転に久々にキューレーションという営みの妙を味わった思いがした。
 やや語弊があるかもしれないが、全館を使用した所蔵品展でありながら日本画がほとんど出品されていないこの展覧会から京都国立近代美術館の「名品」は意図的に排除されている。このような展覧会は東京国立近代美術館では開催しえないだろう。かくも過激な展覧会が許容される点にこの美術館特有のアナーキズムを看取することができる。聞くところによれば、近々実施される二回目の事業仕分けでは、国立美術館も対象とされるとのことである。美術館に市場原理を導入しようとする成果主義の台頭に私は心底うんざりしているが、もはや国立の施設もかかる趨勢と無縁でない。果たして今後もこのようなラディカルな展覧会を継続することが可能であろうか。それとも愚劣な収益主義の展覧会を垂れ流す多くの美術館に追随することとなるのか。美術館とキューレーターの真価が問われる状況である。
by gravity97 | 2010-04-11 20:15 | 展覧会 | Comments(0)

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