Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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「絵画の庭 ゼロ年代日本の地平から」

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 国立国際美術館で「新築移転5周年」を記念して「絵画の庭―ゼロ年代日本の地平から」が開催されている。地下二階と地下三階のフロア全てを使い切る規模の展示は、私が記憶する限り昨年の「杉本博司 歴史の歴史」以来であり、これまでにもほとんど例がない。この一事からも美術館の力の入れ方が理解できよう。出品作家は草間彌生を別格として1956年生まれのO JUNから1984年生まれの厚地朋子まで合わせて28名。基本的に各作家が一つのブースを割り当てられ、個展形式で作品を展示している。
 タイトルが示すとおり、展示された作品は原則として絵画に限定されるが、作風においても世代においても多様である。過去に同じ美術館で開かれた展覧会の中から私は同様の展示を直ちに想起することができる。すなわち1987年の「絵画1977―87」、89年の「ドローイングの現在」あるいは近年の「エッセンシャル・ペインティング」である。これらのうち、おそらく1975年にニューヨーク近代美術館で開催されたバーニス・ローズの「ドローイング・ナウ」から着想され、ドローイング概念の拡張、特に建築家のドローイングの独自性を再認識させた「ドローイングの現在」以外、私はあまり感心しなかったが、今回の展覧会もこれらの展示に連なり、作家選定の基準を意図的にあいまいにしている。この点は、絵画のみを対象とした企画ではないが、東京国立近代美術館が断続的に開催してきたシリーズ展「現代美術への視点」と好対照を示している。後者は例えば「色彩とモノクローム」とか「連続と侵犯」といったテーマの下に毎回実施され、私の印象ではいずれも韜晦的でテーマと作品の関係が判然としない。展覧会とは端的に批評であり、政治である。したがって私はこれら二つの系列の展覧会におけるテーマの欠落と晦渋に対して批判的であるが、テーマが与えられれば、展示が引き締まるわけでもない。学芸員のマスターベーションのように垂れ流されてきた多くの「テーマ展」を顧みるならば、本展にみられる批評性の意志的な不在もそれなりに一つの見識と考えられよう。
 今回の出品作家の選定は企画者が一人で行ったらしい。分厚いカタログに一篇だけ収録されたテクストの中でその詳細が語られている。しかし草間を除いて1956年生まれ以降の世代から選ぶこと、男女の比率を同じ程度にすること、関西在住、あるいは関西出身の作家を重視することといった選考理由はあまりにもネガティヴであり、むしろ最終的な顔ぶれからあとづけされたと考えられる。ただしこのような基準自体は特に批判するにあたらないだろう。何人かの学芸員が議論して作家を選ぶという手法は結局責任逃れに終始する。企画者がきわめて丹念に作品を実見したうえで作家を選定したことは、展覧会を一覧する時、明らかであり、責任を引き受ける姿勢は好ましい。例えば「プライマリー・ストラクチュアズ」や「態度がかたちになるとき」といった後世に名を残す展覧会がキューレーターや批評家のディクテイターシップに貫かれていたことを念頭に置くならば、優れた展覧会は本質において専制的であるはずだ。
 本展で扱われるいわゆる「ゼロ年代」というディケイドを考えるにあたってこの問題は意味をもつ。なぜなら「ゼロ年代」の美術を規定した二つの展覧会はいずれも今や日本を代表する二人の批評家の専制の下に企画されたからである。カタログテクスト中でも言及されているが、二つの展覧会とは1999年に椹木野衣が企画した「日本ゼロ年」と2007年に松井みどりが企画した「マイクロポップの時代―夏への扉」であり、いずれも水戸芸術館現代美術ギャラリーで開かれている。私の見るところ「絵画の庭」は(実際の年齢的にはさほど離れていないが)意識の上で断絶した三つの世代によって構成されている。まず会田誠、奈良美智、(本展への出品を辞退したという)村上隆ら、「日本ゼロ年」に連なる作家たちであり、「ゼロ年」にできやよいも出品していたことを想起するならば、草間もこの範疇で理解することが可能であろう。第二の世代は青木陵子、杉戸洋、タカノ綾、森千裕ら「マイクロポップ」に出品し、あるいは「マイクロポップ」的な感性を共有する作家たちである。私の考えでは加藤泉や村瀬恭子もこのグループに属す。そして最後に彼らよりさらに若く、およそ2008年頃より作品の発表を始めた作家たちである。もちろん奈良は「ゼロ年」ではなく「マイクロポップ」に出品しているし、O Junや小林孝亘といった企画者好みの、いずれのグループにも属さない作家が何人も存在しており、例外を指摘することは容易であるが、大枠としてこのような理解に誤りはないだろう。この時、本展覧会は椹木と松井によってかたちづくられた「ゼロ年代美術」を絵画の領域で追認する試みと考えることができよう。一見批評性や政治性を欠いたこの展観は実はその欠落によって一つの政治性を行使するのである。
 私はこの展覧会自体はきわめて意義のある試みであると考える。中国からデンマークまで世界中の作家を麗々しく紹介する展覧会が続くこの国で今日、日本の若い世代の作家をまとめて紹介する展覧会は皆無に等しい。関西であれば「アート・ナウ」や「つかしんアニュアル」、関東であれば「ハラ・アニュアル」や「今日の作家」。かつては若い世代に焦点をあてた多くの集団展が組織され、若い作家たちの目標が存在した。しかし美術館が冬の時代に入り、最初に消滅したのはこの種の展覧会であった。比較的ヴェテランの世代を対象とした「近作展」を継続してきた国際美術館が今回、1980年前後に生まれた若手までを包摂したかかる展覧会を開催したことは国立美術館として当然とはいえ、意味のある試みである。出品作家選考にあたって関西という地域性が多少加味されたということであれば、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル」のごときアニュアル展が国際美術館発信の展覧会として今後企画されてもよいように感じる。
 展覧会の開催の意義を十分に認めつつも、やはり私が納得できないのは出品されている作品の質だ。私がこの展覧会を見て関心をもったのは先に述べた三つの世代のうち、最後の世代、多く20歳代の若手の作品である。一つにはこれらの作家を初めて見たという理由があるだろうが、この理由は形式的にも説明することができる。あらためてカタログを参照する時、何人かの若手においてきわめて独特の画面分割がなされていることに気づく。ことに年齢順に配置されたカタログの最後に置かれた二人、つまり最若手の二人である坂本夏子の有機的なグリッド構造、厚地朋子における画面の奇妙な連続と切断は新鮮に感じられた。この点は画面の地と像が初めから明確に分節されている先行する世代と対照的である。つまり先行世代は画面の中にイメージを置くことに何の疑問も感じていないのに対し、最若手の画家たちは少なくともそれが自明ではなく、絵画がなんらかの枠組の中に成立することに対して自覚的なのである。いうまでもなく支持体への関心はモダニズム絵画の中心的な課題であった。私は今もなお平面性や視覚的イリュージョンを信奉する頑迷なモダニストではないが、絵画を質において判断するだけの経験と感性はもちあわせていると思う。例えば奈良美智の稚拙でプライヴェイトなドローイング、悪趣味な発想に単なる技術で形を与えただけの会田誠の面白主義のどこに絵画的な価値があるのか。彼らの絵画がこの十年の日本のペインティングを代表し、ここに並べられた絵画が絵画史を形成するとするならば私は索漠とした思いにとらわれざるをえない。おそらくこのような状況には美術市場における商業主義の蔓延と美術ジャーナリズムの退廃が大きく与っているだろう。ここで詳述するつもりはないが、村上隆が作品によって収益を確保することを制作の目的として公言して以来(それは展覧会の価値が入場者数と利益率によって判定されると「改革論者」が恥ずかしげもなく公言した時期とほぼ同期している)、作家やギャラリストの意識が大きく変わってしまった。一方、『美術手帖』に象徴される美術「ジャーナリズム」がギャラリーと結託して、一部の画家のプロモーションとしか理解できない低俗な情報誌となっていることも自明のとおりだ。いずれも一つの見識であろうから、勝手にすればよいが、結果として私たちの目に触れる絵画の質が著しく低下していることに憂慮の念を禁じえない。私は具象的な傾向の回帰そのものを否定するつもりはない。しかし私が具象性に意義を認めるのはゲルハルト・リヒターのごとくたえず絵画という形式との間の緊張を失わない場合に限る。ここに出品された大半の絵画において具象性は絵を描くことにお気軽なアリバイに終始している。この点はリヒターと例えば「エッセンシャル・ペインティング」のエリザベス・ペイトンを絵画の質において比較すれば直ちに明らかではないだろうか。
 展覧会のカタログには詳細で情報に富み、考え方によっては不毛の年表が収録されている。目をとおしてあらためて驚く。この国では1995年、今はなきセゾン美術館で開かれた「視ることのアレゴリー」以来、モダニズムの系譜に連なる絵画のまともな展覧会が途絶えているのだ。代わって絵画の動向を物語る指標となっているのがVOCA展である点は象徴的だ。(このあたりの経緯をVOCA展の講評を手掛かりに論じた福住廉のエッセイは示唆に富む。国際美術館の月報に掲載されているから参照されたい)一方で「マイクロポップ」と「絵画の庭」、もう一方でVOCA展。もしも日本の21世紀初頭の現代絵画が本当にこのような二極の間に形成されたとするならば、私がもはや自らの信じる批評言語によって応接すべき余地はないだろう。

by gravity97 | 2010-03-01 10:14 | 展覧会 | Comments(0)
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