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Living Well Is the Best Revenge

コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』

 これはまぎれもない傑作である。ただし本書は誰もが気楽に読める小説ではない。それどころか多くの者が思わず眉をひそめる内容であろう。
 具体的な年と地名についても言及があるが、舞台は19世紀中盤、開拓時代のアメリカ中西部。名前を与えられない主人公、「少年」は14歳で家出をした後、各地を放浪し、ならず者たちと渡り合う。物乞いと盗み、刃傷沙汰と暴力の果てに、「少年」はグラントン大尉という無頼漢を頭目としたインディアン討伐の頭皮狩り隊に加わり、インディアンたちの殺戮を続ける。頭皮狩り隊とはその名のとおり、殺したインディアンの頭皮を剥ぎ取り、その数に応じて報酬を受け取るという残虐無残な部隊である。グラントンをはじめ、人間性の片鱗もうかがえぬ男たちは灼熱の太陽のもと、暴力と退廃が支配する砂漠地帯を転進する。殺戮の合間に報酬を求めて立ち寄った町でも彼らは殺人や略奪、強姦に明け暮れ、悪疫のごとく忌み嫌われる。しかし彼らだけが暴力に染まっている訳ではない。インディアンたちも白人たちを襲撃して残忍に殺戮する。実際にグラントンたちも襲撃を受け、隊員や斥候として随行するデラウェア族のインディアンらが次々と惨殺される。それにしても悪夢のような道行きだ。胸の悪くなるような殺戮の応酬。ここに書くこともはばかられるほどグロテスクなエピソードが延々と続く。ここには『サンクチュアリ』において「自分が想像しうる最も恐ろしい物語を描こうとした」フォークナーの遠い残響がうかがえるかもしれない。
 かくも無残な物語がなぜ傑作なのか。それはこの小説が虚無という主題に明確な言葉を与えているからだ。私たちは世界に意味がないという事実に耐えられない。私たちの生、人間という存在、歴史という営み、私たちはこれらがなにかしらの意味をもつと信じている。逆にいえばその意味を探求するために文学や美術が存在するのではなかろうか。この小説はこのような前提をあっさりと否定する。冒頭から巻末までひたすら繰り返される非道な行為の数々、それは私たちが世界の意味の枠組とみなしてきた例えば神、あるいはヒューマニズムといった超越した理念の破綻をあからさまに示している。この点をドストエフスキーと比較してみよう。『カラマーゾフの兄弟』においても次兄イワンが三男アリョーシャにトルコ兵が幼児に対して働く蛮行の数々を語る。神が存在するにも関わらず、なぜこのような所業が許されるのか。イワンが提起するのは神への懐疑である。しかしイワン/大審問官がとる反キリストという立場は、逆にいえばキリスト=神を拒絶することによってその存在を認めている。したがってそのような不条理が存在するにも関わらず神を信じること、正確には神を信じる自由を担保することは逆説的にも熱烈な信仰告白たりえたのである。しかしもはや私たちにそのような楽天的な思考は許されないことをこの苛酷な小説は教える。
 『ザ・ロード』同様、この小説でも特異な叙述形式がとられている。登場人物に関してほとんど内面描写がなされず、会話も全て地の文の中に織り込まれている。一文が異様に長く、視覚的にリアルでありながら行為の主体が不明確な詰屈した翻訳は明らかに原文の文体を反映しているだろう。マッカーシーの文体の異常さに触れたければ、巻末の一頁に満たぬ「エピローグ」を一読することを勧める。物語の内容とは直接の関係をもたないからこのパッセージだけ読んでも読書の愉しみを減じることはない。(そもそも巻末にかかるエピローグが置かれていること自体も異様なのであるが)私はこれまでかくもいびつな文章を読んだことがないが、逆にこの小説の魅力の大半、そしてかくも困難な主題への取り組みを可能にした条件はこのような異常な文体に求められる。風景も人物も行為も発話も均質化された語りの中では人間も語られる風景の一部と化し、特権的な位置を与えられることがない。この点は今述べたヒューマニズムの破産と深く関わっているだろう。「少年」はこの小説を最初から最後まで見届けるが、決して物語の語り手といった役回りではない。そもそも彼の内面は最後まで私たちに閉ざされている。世界はいわば登場人物たちと無関係に存在し、人物は前景化されることなく、出来事の継起のみが淡々とつづられる。内面描写がなされないため、読者はいずれの登場人物にも焦点化することができないが、一人だけ圧倒的な存在感を与える人物が登場する。眉毛も睫毛もない禿頭の巨漢、「判事」である。グラントンに帯同し、平然とインディアンを殺戮する「判事」はいくつもの外国語に通じ、深い学識をもち、ダンスや楽器の名手でもある。「判事」は殺戮の道すがらグラントンの部下たちに奇怪な寓話や倫理観を語って煙に巻く。彼はアパッチ族を虐殺した後、生き残りの小さな男の子を自分の鞍に乗せて連れ去り、数日間面倒をみた後、思いついたように殺してはその頭皮を剥ぐ。この物語においては生も死も何の意味ももたない。あとがきの中で翻訳者の黒原敏行は「判事」を『闇の奥』に登場するクルツと対比させていたが、学知(外国語の習熟あるいは土器や骨角器への関心)と芸術的才能(楽器の扱いや素描の技術)が残虐な行為、非人間的な精神となんら矛盾することなく同居する「判事」という存在は、近代以降の人間の在り方の暗喩かもしれず、あるいはこのブログで何度か取り上げたアドルノ的アポリアの表象かもしれない。
 「世界は意味もなければ不条理でもない。ただ単にそこに『ある』だけである」と記したのはアラン・ロブ=グリエであった。ロブ=グリエが無機的なヌーヴォー・ロマンに託した認識をマッカーシーはこの凄惨な物語の中で別のかたちで開陳する。古生物の風化した大腿骨を発見した「判事」は「この骨に神秘的なところなど何もない」と断言し、怪訝な顔の兵士たちに「この世に神秘などないということこそ神秘的である」と説く。意味なき世界、神秘なき世界にあって小説を書くことはいかなる意味をもつか。そもそもそこで文学は可能か。殺伐とした内容にも関わらず、『ブラッド・メリディアン』は本質においてきわめて思弁的な、小説についての小説なのである。20世紀以降、同様の認識、つまり人間は世界の中心ではなく、ヒューマニズムはもはや失効したという発見が言語学から哲学にいたる様々な領域でパラダイム・シフトを引き起こした。ここで詳述することは控えるが、例えば現代美術においても私は非人間的な作品の連綿たる系譜を直ちに想起することができる。(非人間的というのは人間性に反するという意味ではなく、人間とは無関係に存在するという意味である)文学の領域ではひとまずバタイユの名前を挙げることができようか。しかしバタイユと比してもこの小説が圧倒的に優れている点はこのような認識をその内容のみならず、形式、つまり独特の文体において実現している点である。
 コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』_b0138838_1045235.jpgタイトルのメリディアンとは子午線の意味であるが、あとがきで黒原は『ツァラトゥストラはかく語りき』を引きながらニーチェ的な絶頂という含意を読み取っている。最初に本書の主題は虚無であると論じたが、ニーチェとの暗合はなんとも示唆的である。物語の中でも一箇所、この言葉が言及されている。野営地の焚火のかたわらで、無辜の者を殺戮する不気味な寓話を語った後、「判事」は次のように述べたうえでニーチェの永劫回帰に近似した思想を語る。「人間に関しては生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の絶頂(メリディアン)は同時に黄昏でもあるんだ」ブラッド・メリディアン、血の絶頂。虚無の支配の暗喩、ヒューマニズムへのアンチ・テーゼとしてこれほど適切な言葉があるだろうか。
 最後に一言。さほど長い小説でもないが単純な誤植が目についた。これほどの作品に対して失礼であろう。出版業界全体の質的劣化を反映しているのでなければよいのだが。
by gravity97 | 2010-01-30 10:10 | 海外文学 | Comments(0)