ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

スティーヴ・エリクソン『エクスタシーの湖』

b0138838_21145765.jpg スティーヴ・エリクソンが2005年に発表した小説の邦訳が刊行された。エリクソンの翻訳に関しては奇妙なねじれがあり、近作については出版社として集英社と筑摩書房、翻訳者として柴田元幸と越川芳明が交互に訳書を刊行してきた。本書は内容的には1999年に原著が発表された『真夜中に海がやってきた』の続編であるが、日本ではそれ以前に発表された『アムネジア・スコープ』がいわば割り込むように先に翻訳されている。したがって私たちは本来ならば続けて読むべき二つの小説の間に、それ以前に発表された、直接の関係のない作品を読むこととなった訳である。この二つの小説は連続性が強く、特に本書の難解さを思う時、可能であれば続けて訳出されるべきであったと感じる。もちろんあらためて両者を通読すればよいのであろうが、残念ながらそれほどの余裕はない。私は『真夜中に海がやってきた』とその解説にざっと目を通したうえで本書に取り組んだ。
 1999年と2005年、二篇の小説が発表された二つの年記の間に何が起きたか。いうまでもなく、2001年9月11日の惨劇である。幻視者エリクソンが、終末のヴィジョンとも呼ぶべきこの事件にインスパイアされないはずがない。本書の中では、ニューヨークならざるロスアンジェルスの中心に、グランド・ゼロならざるレイク・ゼロ、Z湖と呼ばれる湖が出現する。頁を開くや、エリクソンが好んで描く妖しいカタストロフのイメージが横溢する。水というモティーフは明らかに前作から持ち越されている。『真夜中に海がやってきた』の最後で東京を襲った大洪水は、地中から湧き、次第に成長する湖としてロスアンジェルスに出現する。東京、歌舞伎町で客と記憶を交換するメモリー・ガールという仕事に就いていた主人公クリスティンは『エクスタシーの湖』ではカークという息子とともにロスアンジェルスに暮らす。カークの出産と湖の出現が同期していることが暗示するとおり、クリスティンと湖は秘密めいた関係がある。エリクソンのほかの小説と同様、『エクスタシーの湖』もストーリーを要約することはきわめて難しい。鮮烈なイメージが次々に弾けるように繰り広げられ、ストーリー以前にイメージに眩惑されてしまうのだ。クリスティンは湖の出現の意味を知っていた。湖は彼女からカークを奪うためにロスアンジェルスの交差点に最初は水溜りとして出現したのだ。物語が全体の三分の一ほど進行したあたりでクリスティンはカークをゴンドラに乗せてZ湖に漕ぎ出し、経血の赤い夜明けの中で湖に身を投げる。実際に本書を手に取らないとわかりにくいかもしれないが、湖に身を投げたクリスティンの意識はこれ以後、本書の左頁を貫通する一行のテクストとして巻末まで続く。つまりここから小説のテクストが二つに分裂する訳である。メイン・テクストも以後、時に字数や行数が一定でない特殊なレイアウトによってつづられ、視覚的にも波のたゆたいや主人公たちの心情を暗示するという、視覚詩に近い手法が採用される。後で述べるとおり、この手法は小説の成否に関わる点である。エリクソンがこのような手法を用いたのは初めてであり、内容も含めて、おそらく本書で初めてエリクソンの小説に触れる読者は大いにとまどうことあろう。
 本書では今述べた一行で延々と続くテクストが鍵となる。このテクストは湖に身を投げたクリスティンの意識の流れであり、湖への投身はもう一つのロスアンジェルスへの移行を意味している。この点を認識するならば、この難解な小説の構造はある程度理解できる。もう一つの現実という主題はエリクソンを読みなれた読者にとっておなじみのものである。読み進むに従っていくつもの二重性があらわとなる。カークを伴って湖に漕ぎ出すクリスティンの挙措そのものが文中でも言及されるアブラハムの供犠、わが子イサクを神に生贄として差し出す身振りに重ねられ、もう一つのロスアンジェルスにはクリスティンの分身とも呼ぶべきルル・ブルーが存在している。双子を懐妊していたはずのクリスティンのもとにはなぜか息子カークしかいない。クリスティンが身投げした近未来のアメリカは内戦状態であり、湖の消長、傍受される怪電波、湖に身を投げた女の関係を探る軍隊の司令官ワンは天安門事件において素手で戦車に立ち向かった青年であることが暗示される。ワンはシャトーXという館のSMパーティーでボンテージ・クイーン、ブロンテから鞭打たれるが、ブロンテこそカークの分身、双子の片割れなのである。ブロンテはSMパーティーの狂乱からケール(いうまでもなくカークの別名である)という青年によって助けられた後、行く先の定かでない列車に乗ってプエブロ・インディアンの居住区へと向かう。クリスティンの投身を契機として湖の水が引き始めた世界ではKと呼ばれる女性(彼女もまたクリスティンの分身である)の息子キムと日本人との混血の美女サキ、彼らの娘のアンジーが湖の出現した場所を訪ねる。様々な分身、相互に矛盾するストーリー、幾重にも及ぶ時間のねじれが相互に乱反射するかのようだ。
 この小説が『真夜中に海がやってきた』の後日譚であることは先に述べたが、二つの物語は相互に嵌入しあっている。クリスティンやルル・ブルーは両方の小説に登場し、前著においてはクリスティン/ルル・ブルーのごとく、アンジーとサキは同一人物であった。(サキの名は原子爆弾が炸裂した長崎からとられているという)さらに注意深く読むならばほかの小説もこの物語の中に侵入している。クリスティンが居住するホテル・ハンブリンは『アムネジア・スコープ』の語り手の宿でもある。あるいはシャトーXの中で私たちは懐かしい名前に出会う。バニング・ジェーンライト。バニングとは『黒い時計の旅』の中でヒトラーのためにポルノ小説を執筆する巨漢ではないか。この物語の中ではヒトラーが生き続ける20世紀の偽史がバニングによって執筆される。複雑な入れ子構造をとりながら、多くの物語でエリクソンもまた無数の偽史を書き連ねる。20世紀初めのパリ、禁酒法時代のシカゴ、敗れざる第三帝国。これまでのエリクソンの偽史においてはある程度具体的な時代が特定されたのに対して、本小説でエリクソンは初めて未来の年記を書き入れた。先に述べた複雑なテクストの構成がこれらの物語相互の位置を推定することを著しく困難にしている。個々のストーリーは矛盾しあい、錯綜する。最初にも述べたとおり、エリクソンの小説の前で私たちは次々に炸裂するがごとき異様なヴィジョンに眩惑される。洪水や砂嵐に襲われる都市、氷結した街路と干上がった水路、喚起力が強く、多く終末論的なヴィジョンの数々に私たちは魅了される。私の知る限り、このようなイメージを駆使する作家としてはJ.G.バラード、サルマン・ラシュディらが連想されるくらいである。この小説においても、赤い夜明けや水没する都市、エリクソンが描くヴィジョンがきわめて視覚的であることに私たちはあらためて気づく。この小説の一部が文字を独特に配置した一種の視覚詩として成立していることは最初に述べた。イメージのみならず、活字のレイアウトによって視覚的な効果を強化することはエリクソンが意図的に選んだ方法であろう。テクストの中を貫通するクリスティンの意識の流れは最後でもう一度メインのテクストに回収される。原著の活字組に対応して、かなり苦労して本文のレイアウトが組まれたことは容易に想像される。しかし私はエリクソンの小説はここで一種の飽和点に達してしまったように思う。形式的にあまりにも錯雑したテクストは逆にイメージの喚起力を弱めているように感じられるのだ。『エクスタシーの湖』はエリクソンの優れた小説が備えていた一種の速度、ドライブ感を失っている。正直言って、この小説を読み進めることはかなり厳しい体験であった。特に左頁の中央を貫通するテクストの存在には絶えず異和感を覚え、波打つような文字のレイアウトもむしろテクストへの集中を阻害するように思われた。多義的なイメージ、錯綜するストーリーが時に像を結び、時に像を解く。そのような像と戯れることがエリクソンの小説を読むことの悦楽なのであるが、この小説では必ずしも十分な効果が得られていないようだ。作家は少々技巧に淫しすぎたのではなかろうか。
by gravity97 | 2010-01-21 21:18 | 海外文学 | Comments(0)