村上春樹『めくらやなぎと眠る女』

 少し前、ベルギー人のキューレーターと会食する機会があった。話が日本文学に及び、日本の作家で誰が読まれているか尋ねたところ、私より少し上の世代に属すると思われる彼女は「私の世代ではミシマ、でも今では圧倒的にハルキ・ムラカミ」と答え、私が発売された直後の『1Q84』を見せたところ、嬉しそうに携帯で表紙を撮影していた。
 村上春樹の長編が世界各国で翻訳されていることはよく知られているが、短編集に関してはアメリカのクノップフから刊行された『象の消滅』(1993)がいわば底本として存在し、同じ短編を収録した短編集が各国の言語で出版されているらしい。出版に付随する権利関係の錯綜を回避するためらしいが、そうであれば一層、どの短編を選択するかは重要であろう。日本では2005年に刊行された『象の消滅』に続いて、同じクノップフを版元とする第二短編集『めくらやなぎと眠る女』の「翻訳」が最近新潮社から刊行された。当初は日本の複数の出版社から出版された短編がアメリカの一つの出版社によってコンパイルされて翻訳され、それが再び新潮社という日本の出版社から短編集として刊行されるというのは考えてみると変な話である。
 さて、以前にも書いたとおり、村上春樹については『アンダーグラウンド』系列のノンフィクション以外、私はほぼ全ての小説を読んできた。『象の消滅』はアメリカ人の編集者によって収録作品が選択され、テクストそのものは(若干の異同はあるにせよ)日本語で発表された時と同一であるから新作を読む楽しみはない。それにもかかわらず、しゃれた装丁に引かれてこの本を買い求め、一読した私は驚いてしまった。作品のセレクションが素晴らしいのだ。村上春樹の作品はとぼけた味わいのあるショート・ショートからシリアスで不気味な短編まで多岐にわたる。日本語で読んでいてもなかなかつかむことができないその全体像がこの短編集によってくっきりと焦点を結んだように感じられたのである。収録された作品は必ずしもよく知られた作品ばかりではない。さまざまな短編集から選ばれた作品はこの短編集の中に位置を占めることによって、新たな魅力を得たように感じた。おそらくここには編集という、日本で軽視されている営みの真髄があるだろう。本書から私はマルカム・カウリーの『ポータブル・フォークナー』を連想した。カウリーという批評家によって編集され、入念な紹介を付したアンソロジーが刊行されたことによってそれまで難解さのゆえにほとんど無視されていたフォークナーの小説は一挙に世界文学として脚光を浴びた。もちろん村上は既に欧米でもある程度の知名度を得た作家であっただろう。しかしいくつかの短編集の中からテイストの異なる17の短編が選びぬかれ、配列され、そして英語に翻訳されることによって村上春樹はハルキ・ムラカミとなったのではなかろうか。この過程に日本人は関わっていない。私はあらためて編集という営為がきわめて創造的な行為であること、そして欧米圏におけるその成熟を思い知った気がした。
 『めくらやなぎと眠る女』には24の短編が収められており、二つを合わせると村上の主な短編はほぼ網羅されているといってよいだろう。村上には『神の子どもたちはみな踊る』という連作短編の傑作があるが、これは『地震のあとで』というタイトルで英訳が刊行されているらしい。もう一つの連作短編集として2005年の『東京奇譚集』があるが、この内容は本書に全て収録されている。村上は作品を新たに収録するにあたって手を入れる場合が多く、例えばタイトルにもなっている「めくらやなぎと眠る女」は最初『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録され、『レキシントンの幽霊』収録時に改訂され、さらに今回の短編集に収める際にも訂正がなされている。このあたりのテクスト・クリティークも個人的にはなかなか興味深いが、私は一愛読者であって研究者ではないので、ひとまず措く。
 『象の消滅』の巻頭には編集者であるゲイリー・フィスケットジョンの序文、自分の短編が英訳され、とりわけに『ニューヨーカー』誌に掲載された際の喜びを率直に語った村上の自序など、刊行にいたる経緯を記したいくつかテクストが付され、それなりに興味深く読んだ。これに対して『めくらやなぎと眠る女』は作家自選による短編集であるためか選択がいささか甘い。『東京奇譚集』は優れた短編集で連作といっても作品相互の関係がほとんどないとはいえ、これを全て収録するのはいかがなものか。あるいは「蟹」という短編は『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた「野球場」という短編中で言及される小説を実際に村上が書き下ろしたもので、むしろ村上龍的な味わいのややグロテスクな小品である。この短編は英語版しか存在しなかった訳であり、日本語版を発表する際の読者サービスかもしれないが、私としてはほかの短編を採ってほしかった気がする。全般に作品の選択がわかりやすく、『象の消滅』にみられた意外性、端的に言って編集の批評性が見当たらないのだ。この短編集も日本語以外の言語の使い手によって、可能であれば編者のイントロダクションとともに刊行してほしかったと思うのは私だけだろうか。
 例によって形式的な側面からやや批判的なコメントを加えたが、実際に本書を読むこと、さまざまの短編を再読することは実に愉しい体験であった。例えば『ノルウェイの森』の原型である「蛍」は完成度の高い、とりわけ最後の場面が印象に残る抒情的な佳作であり、おそらく多くの読者にとって村上の短編のベストの一つであろう。(それゆえこの短編が『象の消滅』に収められていなかった点に編者の批評性を感じたのである)あるいは私は「とんがり焼の盛衰」「かいつぶり」といったシュールな笑いを誘う短編が大好きなのであるが、おそらくそれはこれらが収録された『カンガルー日和』を、修士論文を執筆する合間に息抜きのように読んでいたことが影響しているだろう。ちょうど今のような暗い12月のことだ。あるいは『東京奇譚集』冒頭の「偶然の旅人」は私が最も好きな村上の短編であるが、以前この作品を再読した折、ある知人と偶然の再会があった。小説自体も偶然の出会いを主題としており、現実と小説の不思議な一致は、村上の言葉を借りるならば「小説の神様が片目をつぶって微笑みかけている」かのようであった。
 
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村上の短編を読むならば、かくのごとく次々とさまざまな小説的記憶がよみがえる。不思議に楽しい思い出が多い。喪失や不安をめぐる小説の重い内容とこれに反してリラックスした記憶の鮮やかな対照もまた私がこの作家に魅せられる理由かもしれない。先に記したとおり、海外ではこれら二つの短編集と連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』以外に村上の短編は翻訳されていないらしい。これらに収録されていない多くの魅力的な短編を思う時、私はあらためて日本語を読めることの幸運を感じる。
by gravity97 | 2009-12-16 22:02 | 日本文学 | Comments(0)