ローレンス・ライト『倒壊する巨塔』

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 あれから10年近くが経とうとしているが、TVを通じて垣間見た阿鼻叫喚はまるで昨日のことのように思える。本書の表紙、黒煙を上げるツインタワーとそこへ突入する二機目の旅客機のイメージは21世紀を生きる人類にとって決して癒されることのないトラウマだ。
 しかし奇妙なことに、なぜこのような惨劇がもたらされたかを説得的に論じた本を私たちはほとんど知らない。猿のような大統領が叫んだ民主主義かテロリズムかという二分法は論外としても、自らの命を賭してまでなぜかかる蛮行に及んだか、私たちは「彼ら」について未だに何も知りえないまま、今日にいたっているのではなかろうか。私は本書を深い感慨とともに読み終えた。それは地道な取材を通して書き上げられた骨太のノンフィクションに対する賛嘆の念であると同時に、いかに自分がイスラム世界に関して無知であるかという苦い自覚であった。
 サブタイトルが暗示するとおり、本書ではウサマ・ビン・ラディンとアイマン・ザワヒリという二人の指導者の半生をたどりながら、アルカイダという組織の同時多発テロにいたる歴史が丹念に検証される。一方で対テロ部門の責任者としてアルカイダによるテロの危険性を誰よりも早く警告しながら不遇のうちに退職した後、世界貿易センターの保安主任へと転じ、一月も経たたずして9・11の中で絶命するジョン・オニールというFBI特別捜査官の数奇な運命が語られる。しかしいずれの人物もヒーローやサタンではなく等身大の人間として描かれ、彼らをめぐる物語も善悪の対立や未開対文明といったありきたりの構図に陥ることはない。もちろん本書をFBIとCIAの確執に由来する危機管理の失敗のケースステディとして読むこともできようが、私はそのような体制側の教訓には関心がない。スーダンからパキスタンにいたるイスラム諸国の丹念な取材から浮かび上がるのは知られざる中東の現代史、血と油にまみれた歴史だ。それにしても、と私は思う。何世紀も前の話ではない、私が生を享受した同じ時代に、戦地となったアフガニスタンやイラクばかりではない、サウジアラビアでもエジプトでも、なんと多くの民衆が支配者の暴虐、大国の理不尽な干渉、そして原理主義の圧制の中で塗炭の苦しみを舐めていることか。たまたま日本という国に生まれた私とイスラムに生を受けた人々との非対称性に目まいを覚える。
 本書の劈頭に登場するのはサイイド・クトゥブというエジプトからアメリカへの留学生をめぐる同時多発テロから半世紀以上も前のエピソードである。アメリカに留学しながらも資本主義に対する憎悪に燃えて帰国したクトゥブは過激な原理主義者として人々を扇動するが、投獄され拷問を受け、処刑される。しかしクトゥブが播いたアメリカへの憎しみの種は半世紀の後、未曾有のテロとして開花した。あるいはザワヒリもエジプトの刑務所で苛酷な拷問を受ける。ライトはゆえのない暴力を甘受しなければならない屈辱こそが同時多発テロの起源ではないかと論じる。それならばガザで、ボスニアで、あるいはアブグレイブで今もなお私たちは憎悪の種子を播き続けている。それらは将来、どのようなかたちで花を開くのであろうか。単にテロの表層をなぞるのではなく、その淵源を半世紀前にたどり、暴力の反復を活写する点で本書は予見的でさえある。
 私たちも時折、中東の凄惨な現代史の一端を垣間見る。例えば1994年にアルカイダの予備的なテロによってフィリピン航空機内で日本人ビジネスマンが爆殺され、1997年にはエジプトのルクソールでハネムーンの日本人を含む多くの観光客がイスラム集団を名乗るテロリスト集団に虐殺された。いずれの事件についても本書の中で言及があり、同時多発テロへといたる途上のメルクマールを画している。しかしそれはほんの一端にすぎない。79年、メッカ襲撃事件ではモスクに篭城した叛乱軍とサウジ軍の間で激しい戦闘が交わされ、数百から数千の死者が発生した。鎮圧された叛乱軍の残党62人は全員斬首刑に処せられた。あるいはタリバンが支配するアフガニスタンで繰り広げられた原理主義イスラムの宗教的圧制はポル・ポト治下のカンボジアを想起させる。彼らは1998年にビン・ラディンをサウジアラビアへ引き渡した見返りに得た資金と物資をもとにマザリシャリフという土地でパレスチナやボスニア・ヘルツェゴビナもかくやと思われる少数民族への無差別虐殺とレイプを行った。あるいは本書中、「少年スパイ」という章ではザワヒリを逮捕するためにエジプト秘密警察が非道このうえない手段で関係者の家族を篭絡するが、その顛末たるや正視に耐えない無残さだ。もはや正も邪もない。本書の中で語られる、同時多発テロのはるか以前、中東の地で繰り返された暗澹たる暴力の歴史に私は慄然とした思いにとらえられた。
ビン・ラディンという謎めいたカリスマについても、本書の中では仔細にその閲歴が検証される。巷間に伝わる狂信者やテロリストといったイメージとはほど遠い、サウジ王家とも親交があり、ビン・ラディン・インターナショナルという日本でいえば大手ゼネコンの有能な経営者であった男が、いくつかの屈折を経験しながら次第に同志を糾合してアメリカへのジハードを実現していく過程が綿密に記述される。しかし本書を読む限り、カリスマ性はあっても、何度も挫折を繰り返し、同時多発テロの成功に関しても僥倖といった側面が多いことは明らかである。テロリズムに対して、体制はそれを一人の個人の犯罪と矮小化しようとする。しかしそれは例えば連合赤軍事件を指導者の資質に還元するような政治的操作であり、私たちが真剣に考えるべきは、なぜモハメド・アタをはじめとする比較的高い教育を受け、イスラムにおいて安定した地位を得られたであろう若者たちが自爆テロに走ったかという今日においてもなお十分に究明されていない問題である。パレスチナで、サウジアラビアで、なぜ有為の若者たちが自らの命を犠牲にしても多くの人々の命を無差別に奪おうとするのか。かつてハニ・アブ・アサドの「パラダイス・ナウ」というフィルムを見た時、私は日々の仕事に出勤するかのように自爆テロへ向かう若者たちのメンタリティーに暗然とした思いにとらわれたが、本書を読むとその機制がいくぶん理解できたように感じる。おそらく一つの鍵はイスラム法学者や宗教的指導者によるファトワー(教義判断)といわれる判定であろう。ファトワーとは少なくとも日本に住む私たちにとっては理解しがたい概念であるが、法律や慣習とは異なるレヴェルで民衆を強く統制し、しかも宗教的倫理性を帯びた規範である。オウム真理教がポアという概念によって、殺人を正当化しようとしたことが想起される。アルカイダは自爆テロと無辜の人々の殺害を是とするファトワーによって武装した。おそらくアルカイダのテロの特異性は自爆という手段を用いる点にある。かかるテロはパレスチナ人によってしばしばテルアビブで繰り返された。きわめて個人的、場当たり的であったインティファーダに対し、アルカイダははるかに組織的、計画的に自爆テロを準備し、実行する。若者たちが嬉々として自爆テロに赴く理由についてライトは次のように説く。「華々しく、しかも意味のある死。人生の喜びや努力のしがいのない政府の抑圧下に暮らし、経済的損失に人々が打ちひしがれている場所では、そうした誘惑はとりわけ甘美に響いた。イラクからモロッコまでアラブ人が統治する各国政府はどこも自由を圧殺していた」王族や族長といった石油をめぐる利権をもつ人々が無益な浪費を重ねる一方で、そのような利権から見放された人々がいかに悲惨な生を営んでいるかについては本書の中で繰り返し語られる。石油によってもたらされた富の偏在が、生きるに値しない現実を生む。しかし現在、「彼ら」のではない、私たちの社会はこのような現実の上に初めて持続することが可能なのである。
同時多発テロはパンドラの箱を開けた。原理主義と不寛容が世界に蔓延し、未だに希望は現われていない。
by gravity97 | 2009-10-07 07:40 | ノンフィクション | Comments(0)