ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

 8月にフォークナーを読む。今年の夏がミシシッピーのごとき炎暑の夏であればよかった。
私は大学の教養時にフォークナーを耽読した。当時は『響きと怒り』『八月の光』『サンクチュアリ』そして『アブサロム、アブサロム!』といった代表作が普通に文庫本で手に入ったのだ。『アブサロム、アブサロム!』は集英社文庫に収められていた。篠田一士による同じ翻訳であるが、先般、池澤夏樹の編集による河出書房新社版世界文学全集の一巻として新装版が刊行されたことを機に再読することにした。かつて通読したことは覚えているが、初読の際には、とにかく読みにくく、内容の理解に抗うかのような異様な小説であったことしか覚えていない。文字のポイントも非常に小さかった印象がある。活字の大きさはともかく、今回、内容を文庫版と比較して難解さの理由が判明した。今回の全集版には巻末に作家自身が作成した年譜と系譜(登場人物の紹介)さらには地図が収められている。文庫版には年譜しか収録されず、それが作家本人の手によることも明記されていない。このため最初に読んだ際には特に参照しなかった訳だが、今から思えば、これでは物語を理解できようはずがない。今回、再読にあたってはまず年譜と系譜を何度も読んで物語の枠組を確認したうえでおもむろに本文に取り組む。
 この小説は語りが異常に入り組んでいる。冒頭で読者は暑い9月のミシシッピー、ブラインドを閉ざした熱気のこもる部屋に招き入れられる。物語を語るのはミス・コールドフィールドという老女。実に鮮烈な幕開けだ。しばらく読み進めると聞き手はクウェンティン・コンプソンというハーヴァード大学に進学した青年であることが明らかになる。そして冒頭の描写から明らかなとおり、彼らの背後にも三人称の語りを操る匿名の話者が存在し、作者にも擬せられる匿名の話者はこの後もたびたび物語に介入する。続く二章から四章まで、聞き手は同じコンプソンであるが、語り手はコンプソンの父親に代わる。五章はそのほとんどをローザ、つまりミス・コールドフィールドの内的独白が占める。フォークナーは活字の字体を変えて、五章の語りがいわば意識の流れであり、通常の語りとは異なる点を形式的に暗示する。字体の変調はこの長い小説の随所に認められる。六章以降はコンプソンがハーヴァード大学の寮の自室で友人シュリーヴ・マッキャノンを相手に自分の見聞を語る。語りの構造をひとまずこのように整理するならば、この小説の要に位置するのがクウェンティン・コンプソンであることは理解できるが、現実には語りが相互に嵌入し、語り手は判然としない。このため読者はいずれの登場人物に焦点化することも困難で物語はきわめて錯綜する。
 なぜかくも複雑なナラティヴが要請されるのか。この問いに答えることはさほど難しくない。『アブサロム、アブサロム!』で語られるのはトマス・サトペンなる人物の汚辱にまみれた一生である。ウエスト・ヴァージニアのプア・ホワイトの息子として生まれたサトペンはトラウマとなった幼年時代の屈辱に追われるように西インド諸島に渡り、なにかしらやましい仕事の結果巨万の富を手に入れてジェファーソンに帰還する。フォークナーの多くの物語の舞台となるヨクナパトーファ郡の町に多くの黒人奴隷とフランス人の大工を引き連れて到来したサトペンはそこに巨大な屋敷を建設し、町の商店主の娘、エレン・コールドフィールドと結婚し、ヘンリーとジューディスという二人の子をもうける。しかし自らが封印した過去の中からよみがえるかのようにいくつもの忌まわしい事件がサトペンの身辺で出来し、サトペンは破滅していく。近親姦と兄弟殺し。アメリカ深南部を舞台として、物語は神話的な様相を呈す。フョードル・カラマーゾフやレオポルド・ブルームを想起してもよい。野卑で俗悪な人物が神のごとき深みを帯びるという奇跡、それは優れた文学に共通する特質といえないか。サトペンの一代記、そして彼の子供たちをめぐる忌まわしい物語は常に他者によって語られる。しかも時系列は錯雑し、容易にその全体を見通すことはできない。神話との類比を考えるならば、この点は容易に了解される。神は決して一人称で語ることはない。神は矛盾しあう語りの中にこそその姿を現す。物語に神話的な奥行きを与えるために、フォークナーはきわめて意図的にこの晦渋な語りを採用したことが理解されよう。そして謎めいた語りの中から呪われた物語が次第に姿を現す場に立ち会うことがこの小説を読む醍醐味であろう。
 再読していくつかのことを感じた。まずフォークナーの小説には奴隷制がその影を色濃く落としている。ヨクナパトーファ・サーガを構成する物語は南北戦争後を舞台としている場合が多いから、黒人奴隷という制度自体は廃止されている。しかしアメリカ深南部において、奴隷制という暴力装置の痕跡はなおも生々しく残存し、差別や私刑、強姦や殺人といった主題に結びつくことはフォークナーの読者であればたやすく理解できよう。『アブサロム、アブサロム!』においてもこのような暴力性がいたるところで突出し、それは厩の中で黒人と半裸で血まみれになってあえぎながら殴り合いを繰り返すサトペンの姿に象徴されている。差別が物語を駆動する決定的なモメントとなっているのである。一つの社会における規範の喪失はこの小説の隠された主題であり、それは奴隷制という人間性の退廃と密接に結びついている。
 差別という問題と関連するならば、私はあらためてこの小説と中上健次の小説、とりわけ秋幸三部作との強い類縁性に驚いた。兄弟殺し、妹との相姦、そして父殺し、これらは『枯木灘』から『地の果て、至上の時』にいたる物語の中で正確に反復されている。私はフォークナーを読んだ後に中上を読んだから、当然この点に気づくべきであったが、思い至ることがなかった。『アブサロム、アブサロム!』の語りはそれほどまでに難解であったということであろう。しかしこのような類似の指摘は中上の小説を貶めることにはならない。それどころか日本語でフォークナーに拮抗する小説を書き上げた点に逆に世界文学としての中上の可能性を認めることができる。
 b0138838_154655.jpg『地の果て、至上の時』が『枯木灘』の後日談であるように。『アブサロム、アブサロム!』もまた『響きと怒り』という後日談をもつ。前者で物語の要の役割を果たしたクウェンティンは後者において入水自殺を遂げる。そしてここでも規範の喪失という主題が特異きわまりない語りの手法を介して浮かび上がる。ここで『響きと怒り』について詳しく触れる余裕はないが、この二つの小説ではいくつかのモティーフが共有され、ともに破滅と崩壊が語られる。ヨクナパトーファ・サーガとは総体として凋落する一つの時代の肖像といえるかもしれない。それは具体的には南北戦争後のアメリカ深南部という特定の時空と関わっていた訳であるが、同じような規範の喪失、凋落の予感を今日の日本に重ねあわせるのは私だけであろうか。
by gravity97 | 2009-09-14 15:05 | 海外文学 | Comments(0)