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Living Well Is the Best Revenge

辻井喬『叙情と闘争』

 セゾン・グループの総帥であった堤清二が辻井喬という筆名で多くの詩集、小説を発表してきたことはよく知られている。本書は彼が読売新聞に一年間にわたって連載した回顧録である。カヴァーには二人の名が併記され、タイトルの「叙情と闘争」もこのような分裂を暗示している。帯の惹句にも「文学者と経営者、二つの顔を往来した半生」とある。連載時にも折に触れて読んでいたが、単行本として刊行された機会に改めて通読してみた。
 私は辻井喬という詩人/小説家の作品を読んだことがないし、特に読みたいとも思わない。この回顧録の中にはいくつかの詩が引用されているが、読んでみても特に感慨はない。マッカーサーから中曽根元首相まで、その交遊の幅は綺羅星のごとき華やかさであり、帯に記された言葉どおり、政治家や経営者だけでなく、安部公房から田中一光にいたる作家や美術家、文化人の知己も多い。ことに三島由紀夫との深い関係がうかがえる。文中に「精神性を大事にする人の世界と毎日を実利の世界に生きている人との、音信不通と言ってもいい断絶」という言葉があるが、堤/辻井はこの断絶の間で生きなければならなかったのだろう。元衆議院議長で西武グループの創業者である父堤康次郎へのアンヴィバレンツな思い(これは小説の主題となっている)や複雑な親族関係とその確執はよく知られた話であるが、回顧談でありながら、これらの点に関してはあまり生々しい言及がない。必ずしも幸せな生涯を送ったとはいえない母と妹についての言及はやや感傷的で、著者の屈折は行間からうかがえる。先にも述べたとおり、毎回錚々たる面々との交流の記憶が語られるが、名前こそ華々しいものの彼らとのつきあいに情熱や思い入れが感じられず、総じて他者に冷淡な印象を受けるのは、著者の性格と醒めた文体、いずれによるか判然としない。
 連載中より私は堤清二が80年代をいかに回顧するかという点に個人的な興味があった。西武百貨店とセゾン・グループは明らかに当時の先端的な文化を牽引していた。インターネットもアマゾンも存在しない時代、海外の美術に関する文献や外国の展覧会カタログを手に入れるためには池袋西武のアール・ヴィヴァンに足を運ぶことがほとんど唯一の方法であり、そこに集められたおびただしい美術洋書に私はいつも圧倒された。稀覯書や絶版書も充実し、私は数年間探し回っていたモーリス・ルイスの画集をここで見つけた日のことを今もよく覚えている。同じ池袋西武にあった西武ブックセンターの人文書の書棚の充実も今日にいたるまで語り草となっており、何という名であっただろうか、その一角には現代詩を専門とする小さな書店さえ存在していた。本書の中では特に言及がないが、このような充実の背景には実務を司る有能な担当者とともに、詩人であり経営者であった堤の意向が働いていたのではなかろうか。ウェブ上に無尽蔵の書籍を備えた仮想書店が存在する今日、逆に文化あるいは知といった営みを書籍の集積という具体的な現実を通して実感することはきわめて困難となっている。80年代から90年代にかけて、場所もあろうに百貨店の中にかかる異常な書店群が成立していたことは特記されてよかろう。
 辻井喬『叙情と闘争』_b0138838_20535371.jpg本書を読むと小説家、詩人から画家、デザイナーにいたる「西武系文化人」と呼ぶべき一群の存在も明らかである。例えば田中一光、小池一子、糸井重里らの名前は無印良品、西武百貨店と関連しても記憶されている。評価は分かれようが、彼らの仕事はバブルに向かう消費社会の感性を的確に反映していた。さらに比較的知られることのない事実であるが、実は当時の西武の文化戦略の周辺には90年代以降、頭角を現す若い才能が多数存在した。例えば本書を読んで私はセゾン・グループのグループ史編纂委員会に作家の車谷長吉が在籍していたことを知った。保坂和志も西武百貨店に勤務していたはずであり、変わったところでは阿部和重が渋谷のシードホールで映写技師を務め、その体験は『アメリカの夜』に反映されている。そのほか今日、音楽や美術の批評の第一線で活躍する批評家の中にもセゾンと深い関係を持つものは多い。
 本書の中には「セゾン現代美術館」なる一章があり、1981年、軽井沢にこの美術館が「マルセル・デュシャン展」とともにオープンした際の興味深い回想がつづられている。この美術館は現在も存続しているが、セゾン・グループとの関連を論じる時にまず触れるべきは西武美術館、後のセゾン美術館であろう。1975年に西武美術館として開館し、89年にセゾン美術館と改称し、「ウィーン世紀末」という展覧会で幕開けしたセゾン美術館は日本の美術館の歴史を語る際に特筆すべき存在である。80年代から90年代にかけて西武/セゾン美術館は百貨店に併設された美術館としてはまとこに異例かつ画期的な展覧会を次々に企画した。つまり普通であれば収益と販売促進の目的で、それゆえほとんど「美術」とは無関係な企画が続く百貨店内の美術館でありながら、美術館に伍する、それどころか美術館でさえ企画できない斬新な展覧会が陸続と組織された。堤の回想を読むといくつかの事情が理解できた。例えば西武美術館では1982年に「芸術と革命」というロシア・アヴァンギャルドを扱った重要な展覧会が開かれたが、このような展覧会を可能にしたのは堤が70年代後半より培ったソビエト連邦の各機関との太いパイプであり、さらにその背後には学生時代に遡る日本共産党と堤との複雑な関係が垣間見える。むろん全ての展覧会が堤の肝煎りで企画された訳ではなく、優秀な美術館スタッフの存在も大きいだろう。今直ちに思いつくだけでも84年のヨーゼフ・ボイス展、87年の「もの派とポストもの派の展開」といった展覧会は本来ならば公立美術館が企画すべき画期的な展示であった。さらにこの美術館は西武美術館時代には「アール・ヴィヴァン」、後年のセゾン・アート・プログラム時代には「SAPジャーナル」といった歴史的な美術ジャーナリズムの出版元でもあった。これらの活動に関して堤の存在は企業のオーナーというよりパトロネージュと呼ぶべきものではなかっただろうか。経営者と美術館のこのような関係は、フジサンケイグループの鹿内一族と彫刻の森美術館の関係と対比する時、きわめて興味深いのであるが、別の機会に譲ろう。
 西武/セゾン美術館の活動がいわゆるバブル経済と同期していた点は興味深い。私も当時、いくつかの展覧会でこの美術館と一緒に仕事をしたことがある。エネルギッシュで公立美術館にありがちな制約のない学芸員たちとの協同は楽しい思い出である。バブルの破綻とともに、当然のようにセゾン美術館も閉鎖が決まった。1999年のことである。同じ時期に東武美術館も閉館となったこともあり、美術館が冬の時代に入ったことを象徴する事件とみなされた。しかしそもそもこの国の美術館に冬以外の時代があっただろうか。この本を読んであらためて感じるのは、美術館の要諦をなすのは建物でもコレクションでもなく、人であるという事実だ。西武/セゾン美術館の場合、キューレーターのみならずグループの総帥が「実利より精神性を重んずる」生き方に理解があった結果として、いくつもの重要な展覧会や出版物が可能となったのではないか。私は堤清二という個人になんら幻想を抱くことはないし、セゾン文化を礼賛するつもりもない。しかし本書を読んでこの異例の経営者なくしては採算を度外視した異例の文化事業はありえなかったという思いを強くした。この意味で西武/セゾン美術館をめぐる文化の高揚は単に一人のカリスマの存在に帰せられるかもしれない。それをバブルの徒花と呼ぶことはたやすい。しかしバブルに沸き立つ当時、この国にはなおもこのような冒険を許す社会的度量があった。ほとんどの美術館が成果主義、営利主義にがんじがらめにされた今日の日本といずれが「文化的」であるかはおのずから明らかであろう。
by gravity97 | 2009-06-27 20:55 | 評伝・自伝 | Comments(0)