「ヴィデオを待ちながら」

 ヴィデオ、それはなんとも過渡期的なメディアだ。むろん絶えざる技術革新という観点に立つならばいかなるメディアも過渡期にあるといえるかもしれない。しかし21世紀初頭という時点において、それは一方で映画=フィルムという産業化されたメディアに後続しながらも、コンピュータ・グラフィクスに代表されるデジタル・イメージが覇権を握る今日、もはや絶滅危惧種とも呼ぶべき位置にある。レンタルヴィデオの隆盛が暗示するとおり、取り扱いの難しいフィルムの代用として、あるいはTV映像を録画、再生するうえでの簡便さゆえに、ヴィデオは多くの場合、既に存在する映像を記録するメディアとして用いられてきた。しかし開発当時、ヴィデオは表現の地平を広げる画期的なメディアとみなされ、多くの作家たちが様々な実験を繰り返した。次代の新技術が導入されるまでのつかのまの間、メディアの消長のはざまに花開いた豊かな成果はかつてのサイレント映画を連想させる。
 東京国立近代美術館で開かれている「ヴィデオを待ちながら」は1970年前後に制作された「ヴィデオ・アート」に焦点をあてた野心的な展覧会である。思うに当時のヴィデオ作品を実際に見ることはフェルメールやマサッチオの作品を実見すること以上に困難である。実体を伴う絵画や壁画であれば美術館や礼拝堂に行けば作品に接することはできる。しかしヴィデオ作品は現在いかなる機関に所蔵されているか必ずしも明確ではなく、型式や上映方式も作品や地域によって異なる。さらに展覧会として組織する場合は映示条件の確認や著作権の処理など、作品ではなくその周辺に煩雑な問題が発生するはずだ。多くの困難を乗り越えてこのような重要な展覧会が日本で実現されたことは喜ばしい。
 先ほど70年前後のヴィデオ・アートに関する展覧会と書いたが、厳密にはこの定義は正しくない。例えば下に示したリチャード・セラの《鉛をつかむ手》は当初ヴィデオではなくフィルムとして上映されており、あるいはフランシス・アリスの印象的な映像は2000-02年という年記を伴っている。しかしこのようなゆるやかな定義によって、70年前後のヴィデオ・アートが提起した問題の本質がより鮮明に浮かび上がるように感じられた。会場入口に置かれたジョン・バルデッサリの《I Am Making Arts》(この作品にフェミニズム的な解釈を与えたジル・ミラーのヴィデオが同じ展覧会に加えられている点は心憎い演出である)が展覧会の姿勢を暗黙のうちに語っている。この点を考えるにあたっては展覧会から除外されている作品を考えるのがよかろう。同時期にやはり映像を用いて発表されながらも今回出品されていない作品の一つは同じ時期に隆盛したハプニングやパフォーマンスを記録した映像作品であり、もう一つはエキスパンデッド・シネマと呼ばれたサイケデリック、感覚的な映像である。つまり、行為の記録としての映像と感覚的な体験としての映像は本展覧会から注意深く排除されている。この結果、この展覧会の主流を占めるのはきわめて思弁的、概念的な作品の系譜であり、バルデッサリの同語反復的な作品はその典型である。会場の劈頭にナム・ジュン・パイクではなくアンディ・ウォーホルの作品が置かれたこともこれと関係している。ヴィデオ・アートの代名詞と呼ぶべきパイクの場合はTVブラやTVガーデンが示すとおり、TVモニターへのフェティシズムが濃厚であり、映像の内容は比較的単純だ。これに対して、今回出品されたウォーホルの作品はきわめて早い時点でヴィデオ・アートの本質である自己言及性を主題としている。
 展示は五つのセクションから構成されている。「鏡と反映」「芸術の非物質化」「身体/物体/媒体」「フレームの拡張」「サイト」という五つのテーマはよく練られている。出品作はよく知られた作品が多く、私も研究書や展覧会カタログのスティル写真として既に見知っていたが、実見するのは初めてという場合が多かった。会場を一巡して多くの発見があった。まずヴィデオというメディアの草創期に、多くの作家が自らの姿を撮影した作品を制作していることにあらためて驚く。「鏡と反映」というセクションで紹介される作品の大半において作家自身がヴィデオの中に映り込み、現実とヴィデオの間の微妙なずれの反復、拡張が作品の主題とされている。この時、ヴィデオとは特殊な鏡の隠喩であり、カタログにも収録されたロザリンド・クラウスの規範的な文献が「ナルシシズムの美学」と題されていたことの意味があらためて了解された。特にヴィトー・アコンチの作品が興味深い。そこでは見ること/見られることという対立、あるいは見られながら見る/見ながら見られるという主体の分裂的な在り方がヴィデオという手段を用いて時に知的に、特に暴力的に分析されていた。続くセクションでは、今日、コンセプチュアル・アート、ボディ・アート、プロセス・アートあるいはアースワークとして分類される多様な作品が紹介される。これらの動向は現実の時間と関わり、作品が具体的な形式をもたない場合が多く、それゆえヴィデオのモニターを介して私たちの前に現前する。反復、循環、位置の転換といったモティーフが作家を横断して、幾度となく提示される。個人的にはアコンチに続いて、セラとブルース・ナウマン、ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェティ》、さらにゴードン・マッタ=クラークらの伝説的なヴィデオを見ることができたのが収穫であり、70年代に美術の領域でかくも知的な探求が重ねられていたことにあらためて深い感動を覚えた。ヴィデオを実見したのは今回が初めてであるにせよ、かかる美術の磁場に慣れ親しんだ私にとって、知性を欠いた今日の美術に何ら共感がもてないのは仕方がないことである。先に述べたバルデッサリとジル・ミラー、あるいはスミッソンとフランシス・アリスやタシタ・ディーンの作品を比較する時、前者に対する批判あるいはオマージュとして後者の作品が構想されていることも明らかであり、形式をもたない作品の継承と発展という問題もまた興味深い。
 今回の展覧会は展示の方法もテーマに即していた。近年のいわゆる「ヴィデオ・インスタレーション」の流行とともに私たちは暗室の壁面全体にクリアな映像を投影する手法になじんできた。しかし今回、このような大規模なプロジェクションは例外的であり、多くの作品が比較的小さなTVモニターに淡々と上映されていた。モニターの下部に映像の解説が直接掲示されている点も無造作といえば無造作であるが、考えてみれば、それらの作品が発表された当時、壁面へヴィデオを投影する技術は存在しなかったから、モニターの使用は当たり前のことであるし、それ以前にこれらの作家が上映方法ではなく、上映する作品の内容を重視したことを考えるならば、展示効果に阿ることのない今回のインスタレーションはきわめて正当といえるだろう。VHSヴィデオの形態を模した特異な判型のカタログも充実した内容である。この分野に関する日本語の基礎的文献がほとんど存在しないという状況を考慮したのであろう。担当学芸員が当時の状況を概観した「序論」のほかにクラウスの「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」(1976)、ベンジャミン・ブクローの「リチャード・セラの作品におけるプロセス彫刻とフィルムについて」(1978)、リズ・コッツの「ヴィデオ・プロジェクション:スクリーンの間の美学」(2004)という三つの論文が再録され、資料性が高い。ヴィデオ・アートをハードウェアとの関係で論じた最後の論文もそれなりに興味深いが、私であれば年代的にも展覧会の内容を深めるためにもこれに代えて、スミッソンの出品作について論じたクレッグ・オーエンスの「アースワーズ」(1979)を収録するだろう。いずれにせよ、高名な論文でありながら、『オクトーバー』の創刊号に掲載された後、ほかの論集に収録されず、参照することが比較的困難であったクラウスの論文が日本語で読めるようになったことはありがたい。ところで以前から気になっていた点であるが、クラウスが援用するラカンの理論は70年代以降、イギリスの映像理論誌『スクリーン』でもしばしば論及されていた。ノーマン・ブライソンのゲイズ/グランスといった概念にみられるとおり、ローラ・マルヴィ、カジャ・シルヴァーマンらの理論がいわゆるニュー・アート・ヒストリー系の研究を裨益したことはよく知られている。しかしなぜかこれらのイギリス系の映画理論は今日にいたるまでヴィデオ・アートの研究に応用された形跡がない。果たしてこの点は映画とヴィデオの差異、ナラティヴィティーの有無に起因するのであろうか。今後考えてみたい問題である。
 今回の展示を私は2時間ほどかけて巡った。映像を全て見ると15時間程度かかるという。本展覧会を機に東京国立近代美術館としても何点かの作品を収蔵する予定があるとも聞いたが、最初に述べたとおり、これらの作品は今後再び目にすることはきわめて困難である。国内で上映する機会を増やす意味でも、もう一箇所、京都国立近代美術館あたりに巡回させることはできなかったのだろうか。画期的な内容であるだけに、この点を少々残念に感じた。
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by gravity97 | 2009-06-04 21:48 | 展覧会 | Comments(0)