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Living Well Is the Best Revenge

デイヴィッド・リーフ『死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々』

デイヴィッド・リーフ『死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々』_b0138838_20271331.jpg 表紙の写真がよい。おそらくはマンハッタンの路上、書店かカフェの前であろう。ガラスの扉を背にして、きりっとした表情でやや上方を見上げるスーザン・ソンタグ。強い意志と知性が感じられる肖像だ。
 ソンタグは2004年12月28日、71歳で没した。本書はサブタイトルにもあるとおり、最期の九ヶ月、息子であるデイヴィッド・リーフの目を通してつづられたソンタグの闘病の記録である。ヨルダン川西岸地区のルポルタージュの仕事から帰国したリーフが母から血液検査の不調を告げられ、共に再検査の結果の告知に立ち会うことを求められる冒頭から、読者は直ちにソンタグの最後の戦地に召還される。本書を読んで初めて知ったが、実はソンタグは40代前半に進行性の乳がんのため、根治的な乳房切除手術を受けて一命をとりとめ、その後も定期的に血液検査を続けていた。乳がんからの生還自体が確率的には奇跡的なものであり、ソンタグは自身のこのような生を、苦痛と身体の毀損を代償に獲得しえたとみなしていた。がんが再発した懸念はその後も何度か検査の中で浮かび上がったが、「確率に打ち勝つ人」ソンタグはそのたびにそのような疑いを振り払ってきた。しかし2004年3月、彼女は息子のデイヴィッドとともに自らが白血病の一種、MDS(骨髄異形成症候群)という不治の病で余命いくばくもないという宣告を受ける。
 彼女が最初に手術を受けたのが40代前半というから1970年代のはずだ。私が初めて読んだソンタグの文章は竹内書店新社から刊行されていた『反解釈』(現在はちくま学芸文庫)所収のハプニングに関する論考であったが、この著作でラディカルな才媛の登場を印象づけてまもなく彼女は最初のがんとの戦いに赴いたこととなる。私が彼女の闘病生活を知らなかったことは無理もない。80年代以降もソンタグは常にアクティヴであり、そのような気配は全く感じられなかった。写真論をはじめとするいくつもの重要な著作、そしていくつかの小説を著し、よく知られているとおり、1993年には内戦状態にあったサラエヴォに赴いて、ろうそくの明かりのもとでベケットの「ゴドーを待ちながら」を演出した。あるいは今回、あらためてバックナンバーを繰って確認すると95年のことであるが、ソンタグは浅田彰らが主宰する『批評空間』誌の共同インタビューに応じ、浅田と柄谷行人を歯牙にもかけぬといった態度で、自分たちのような知識人(ソンタグによれば「私たちのような大人」)は漫画や大衆雑誌は一切読まず、TVも見ないと断言し、くだらぬTV番組に出演しているという理由で大島渚を全否定した。あるいは先日、村上春樹がそれなりに印象的な受賞演説を行ったエルサレム賞をソンタグも2001年に受賞しているが、この際、彼女はエルサレムでイスラエル軍による「一般市民への均衡を書いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の権利の剥奪」を強く非難する格調高い演説を行っている。さらに9・11の同時多発テロの後、熱狂的なパトリオシズムがアメリカを覆う中で、イラク爆撃を批判し、報復の恐れのない高空から殺戮を繰り返すアメリカ軍こそ他者を殺すために自ら死んでいく者より卑劣だと述べたことも記憶に新しい。(これら二つのテクストは日本語に訳され『この時代に想う テロへの眼差し』に収録されている。参照されたい)
 予想されることであるが、自らの病に向かうソンタグの姿勢も峻烈きわまりない。彼女は生き延びることをこの戦いの目的とした。延命医療の現場で重要視されるQOL、生活の質という概念はソンタグにとって何の意味ももたない。彼女は可能な限りMDSに関する情報を集め、少しでも生きながらえるためであれば、いかなる療法も受け入れると宣言する。苛酷な手術と治療を経て、ひとたび乳がんから生還したことが彼女の姿勢をかえって頑なにしたといえるかもしれない。日本人には病と共生するという発想があり、がんの場合も完治しなくともそれこそ「生活の質」を保つことが優先されることが多い。しかし彼女にとって病とはいかなる手段を用いても排撃すべき異物であり、妥協はありえない。これらのエピソードは私に口腔がんのために33回にもわたる手術を繰り返しながら、旺盛な活動を続けたジークムント・フロイトの晩年を連想させる。フロイトはともかく、ソンタグの姿勢には80年代にニューヨークのゲイ・サークルの中で猛威をふるい、おそらく彼女の知人の多くを死にいたらしめたエイズの猖獗に立ち会った経験、そして彼女同様、アメリカを代表する進歩的知識人であり、奇しくも同じ血液のがんでソンタグに先んじて逝ったエドワード・サイードの闘病生活が影響しているのではなかろうか。本書を通読することによって、80年代から90年代にかけて彼女が病という特殊な主題に拘泥した理由を初めて理解するとともに、私はこれら二つの著作『隠喩としての病』と『エイズとその隠喩』を直ちに読む必要を感じた。リーフによれば、サイードがやはり苛酷な処置によって「臨月の妊婦のように」腹を膨らませながら書き上げたという『晩年のスタイル』については既にこのブログで触れた。ソンタグもサイードも自らが書き上げるべき原稿、仕上げるべき仕事が残されている間はいかなる苦痛があろうとも病と共存することを拒む。二つの知性が人生の終幕にあたって病と和解ではなく対決することを選んだことに私は感銘を覚える。このような決意と選択に9・11以降のアメリカの知的状況、知識人の間にさえ不寛容の気運が広がり、ソンタグの言葉を借りれば「時代がますます悪くなる」状況が与っていることに疑いの余地はない。
 ソンタグは自らインターネットを検索し、デイヴィッドや友人たちを総動員してMDSの治療法、根治は不可能であっても寛解の期間を長らえる方途を探るが、入手できる情報は絶望的な内容ばかりである。最後の賭けであった骨髄移植も失敗し、病状は日増しに悪化する。死を前にした母のために何ができるか。内省をめぐらす著者の姿は痛々しい。もちろんこれは普遍的な問題である。私事となるが、私も父をがんで亡くし、今年に入って、年若い友人と先輩が続けざまにがんで逝った。いずれも長い闘病の後の死であり、この意味でも私にとって本書を読むことは辛い体験であった。しかし死を従容と受け入れるのではなく、徹底的に死に抗ったソンタグの最期の日々は、死をいかに迎えるかという誰もが避けて通ることができない問いに対する選択肢を広げ、知識人の表象というサイードの問いかけとも深く関わっているように感じられた。
by gravity97 | 2009-05-29 20:27 | 評伝・自伝 | Comments(0)