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Living Well Is the Best Revenge

「マーク・ロスコ」展

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 川村記念美術館で「マーク・ロスコ」展を見る。素晴らしい展覧会であった。数年に一度、美術館で魂が震えるような体験を味わうことがある。はるばる佐倉まで赴いたかいあって、私にとって久しぶりの、国内で味わうことのまれな感覚を覚えた。
 昨年、同じ美術館でモーリス・ルイスを見た際に、ロスコ・ルームが閉鎖され、そこに展示されていた作品がテート・モダンに貸し出されている旨の表示がなされていたが、今回は逆にテート・モダン所蔵の作品などを迎えて、メインの展示室は15点の大作で構成されている。それらはいずれもニューヨークのシーグラムビル内のレストラン、フォー・シーズンズの内装として注文され、結局ロスコが契約を破棄してまで展示を拒絶した、いわくつきの作品である。ロスコがこのような決断を下した理由も興味深いのであるが、「カタログ」を参照するならば、いくつか微妙な問題をはらんでいてその経緯は必ずしも判然としない。ひとまずここではこの問題についてこれ以上踏み込むことは控える。
 この美術館の展示はアプローチが絶妙だ。最近リニューアルされた常設においても階段を上がるにつれてバーネット・ニューマンの《アンナの光》が姿を現し、みごとな効果を醸しだしている。今回の展覧会でもシーグラム壁画をめぐってロスコとテート・ギャラリーのノーマン・リードの間で交わされた書簡やテートにおける展示プログラムの模型など、興味深い資料が展示された最初の部屋から狭い回廊を通ってメインの展示室に向かうと、まず正面左側、高い位置に掲げられた五点の作品が目に入り、視線を転ずると次第に正面の壁面に展示された大作の五連画が明らかとなる。私が絵画的法悦とも呼ぶべき感銘を受けたのはこの瞬間であった。続いて(正面に向かって)右側に二点の横長の大作、そして正面に対面して三点の大作が設置されている。ロスコ・チャペル同様に自然光を用いて、ホワイトキューブの空間に配置された赤褐色のシーグラム壁画は個々の絵画というよりも空間として圧倒的な印象を与える。この空間を構成する作品は現在、テート・モダンとワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵の作品、そして川村美術館のコレクションによって構成されている。私はテートのロスコ・ルームに何度か通ったことがあるし、ヒューストンのロスコ・チャペルも訪れたことがあるが、今回の展示はそれらにも増して、圧倒的な存在感を与えた。思うに前者は作家の名前を冠した部屋に展示されていたにせよ、やはり広大な美術館の中の一室という思いが拭えず、また後者はフィリップ・ジョンソン設計によるチャペルのあまりにも瞑想的な雰囲気が作品との純粋な対面を妨げていたのではなかろうか。
 今回の展示では今述べたとおり自然光が採用され、人工照明も併用されていた。このため天気や時間によって画面は微妙な精彩を帯び、白い壁面を背景にロスコの絵画の特徴とも呼ぶべき内部から滲出する光のような効果が最大限に生かされていた。作品が設置してある位置は通常の絵画の展示に比べて高く、いくつかの作品にみられるロの字状の構造とともに垂直性が強調されている。作品の設置については配置や間隔にシンメトリーへの配慮が認められるが、画面自体は対称性を欠いている。大画面にもかかわらず、作品相互の感覚が著しく狭いことはこれらの連作が壁面を埋め尽くす文字通り壁画として構想されていた点を暗示している。巨大な色面に直面した際の衝撃、崇高と呼ばれるにふさわしい感覚はバーネット・ニューマンやクリフォード・スティルに共通し、この意味で同じ美術館においてロスコのシーグラム壁画とニューマンの《アンナの光》の前に佇むことができるのは奇跡と呼ぶべき幸運であろう。

 私はこの展示には賛辞を惜しまない。しかし展覧会の在り方としては、本展は作品の本質に関わるいくつかの問題を抱えているように思う。先に述べたとおり、今回の展示ではいわゆるシーグラム壁画30点のうち、15点が出品されている。シーグラム壁画のデータはカタログ・レゾネから容易に特定できるが、ロスコほどの作家の作品借用に関しては様々な問題が介在しているであろうから、出品作品の選択がある程度偶然に支配されることは私も理解している。しかしこれらの作品が当初、一つの部屋の全体に配置されるものとして構成されていた以上、それらをいかに配置するか、壁画プログラムはきわめて重要な問題であるはずだ。そもそもこれほどの大画面の配置がその場で決定されるはずがなく、最初の部屋に展示してあったテートのロスコ・ルームの模型はこのような配置が入念な配慮のもとに行なわれてきたことを暗示している。ロスコを持ち出すまでもなく、通常の展覧会においても、担当学芸員が建築模型と模型に合わせて縮小した作品の図版を用いて事前に展示室内の配置を構想することはよくあることだ。それどころか今回の展示においては作品のサイズに合わせて壁面が設置された可能性が高い。15点の作品の配置は展示の根幹に関わっている。しかし展覧会において、これに関わる説明が一切ないのはどういうことであろうか。私の見落としがなければ、この点について多少とも言及しているテクストは、この展覧会のホームページの中で作品が設置される高さと作品の間隔についてロスコ自身の言葉と関連させてごく短く触れた箇所だけである。「カタログ」の冒頭に掲げられた写真を参照するならば、おそらく佐倉での展示は昨年この展覧会がテート・モダンで開催された際のインスタレーションをある程度踏襲している。しかし『美術手帖』に掲出された図版と比較するならば、作品の順番は異なっているようである。二つの展覧会では作品に若干の異同があった可能性もあるが、私の手元にはテート・モダンのカタログがないため今のところ確認できない。ロスコがこれらの壁画によって空間そのものの創出を試みた以上、今回、企画者がどのような意図と配慮のもとに展示空間の再現を試みたかについては十分な説明があってしかるべきではないか。その根拠を示さないのは作家に対して敬意を欠いた態度に感じられる。せめて川村記念美術館における展示風景を図版として残すべきであろう。インスタレーションやミニマル・アートの作家の場合、展覧会が始まってから会場の写真を撮影したうえでカタログを制作する、あるいはカタログの別冊として残すことは日常的に行なわれている。なぜこのような努力がなされていないのだろうか。
 この問題は今回の展覧会の「カタログ」と関わっている。今回の展覧会の意義は単にロスコの展覧会を開いたことではない。たとえ半数とはいえ、作家の生前にさえ実現しなかったシーグラム壁画を一同に展示したことに求められる。したがって企画の意図に沿うならば、今回のカタログは当然シーグラム壁画に集中すべきであるように思われる。ところが美術館ではなく淡交社が制作した今回のカタログを見て驚く。そこには展示されていない作品まで図版が掲載されている一方で、今回の壁画プログラムの詳細についてはほとんど触れられていない。この理由により私は先ほどからこの奇怪な画集を括弧つきの「カタログ」と呼ぶしかないのであるが、結果的に展覧会の輪郭はきわめてあいまいになっている。例えば展覧会ではテートのノーマン・リードとの間で交わされたこれらの壁画の帰趨をめぐるきわめて重要かつ興味深い資料が展示されている。ところがこれらはなぜか「カタログ」に一切掲載されていない。その代わりに収録されているのはドーリ・アシュトンの回想やらなんら新鮮味のない下品な評伝やら、シーグラム壁画と直接の関連をもたない資料ばかりである。もちろん当事者であるアシュトンの回想はいくつもの興味深い内容をはらみ、寄せられたいくつかの論文もそれ自体は示唆に富む。しかしそれらはロスコに関する論集として出版すればよい内容である。展覧会と「カタログ」は完全に乖離している。
 最近このような「カタログ」が増えてきた理由ははっきりしている。展覧会とは切り離して書籍として書店でも販売可能な形態をとることによって、美術館はカタログ制作に関わるリスクを回避し、出版社はあまり労力を用いることなく、さしあたり話題性のある刊行物を出版して、美術館で販売できる。あるいは学芸員にとってはカタログ編集という面倒な仕事を出版社に押しつけることもできる。なんという安易さだろうか。この結果、残されるのは展覧会の記録でもなく、本格的な論集でもない、鵺のような奇怪な書物である。この「カタログ」の編集に携わった関係者の一人が最近あるところでロスコに関する一冊のまともな日本語の画集もない現在、代表作を網羅し、研究論文や評伝まで加えた決定版ともいえる文献を「この展覧会を契機に」刊行できたと自画自賛する文章を書きつけているのを目にした。笑わせてはいけない。一人の作家の展覧会を組み立てるということは、作家が何を考えて作品を制作したかに真摯に向き合うことである。少なくともシーグラム壁画を展覧会の主題とする以上、カタログで扱われるべきは個々の作品ではなく、絵画が展示される場所であるはずだ。展覧会が開かれることを渡りに船と、「代表作」の小さな図版を数点加えた安易な編集でロスコの芸術を世に問おうという姿勢は、作家に対する無理解に起因する。さらにいえば作品の前に足を運ばずとも書店で入手可能なお手軽な「カタログ」でこの偉大な作家についてなにごとかを語ったつもりでいる傲慢さそれ自体が作品の体験を何よりも重視したロスコに対する冒涜以外のなにものでもない。
 必ずしも説明責任を果たしていないにせよ、展覧会そのものは作家の意図に誠実に応答する、優れた内容であったと感じる。それゆえ一層私は展示と「カタログ」の懸隔が気になるのだ。確かに欧米に比べて、日本の場合は展覧会に関わる業務の専門化が遅れている。しかしつかのまの展示に対して、展覧会図録は基本文献として公準化される。両者は一体であると私は信じている。この展覧会ではしなくも露呈した両者のギャップが暗示するのは、今日の美術館と学芸員の質的な劣化、あるいは展覧会という文化産業の商業主義化のいずれであろうか。

図版は川村記念美術館ホームページより転載
by gravity97 | 2009-05-22 21:23 | 展覧会 | Comments(0)