マルセル・プルースト『花咲く乙女たち』

 『失われた時を求めて』は私がこれまでに読んだ小説の中でも最も深い余韻を残すものの一つである。しかしこの長大な小説を正面から論じることは私の手に余る。このブログの中で私はこの小説についてこれから何度か論じてみたいと考えるが、まずはプルーストに倣って個人的な記憶から始めることとしよう。
 2004年の冬、私は比較的長期間、ニューヨークに滞在する機会を得た。仕事のための出張とはいえ、途中、オースティンとサンフランシスコへ数日間赴くことを除いて、同じ宿舎で過ごし、自由な時間も多かったので、私はこれまで読む余裕がなかった長い小説に挑戦することにした。プルーストを持参することに躊躇はなかった。実は私はそれまでに二度この小説を繙きながらも、いずれも「スワンの恋」を読み終えたあたりで挫折していたのだ。大学時代に求めた新潮社版全七巻のうち、ひとまず最初の二巻をスーツケースの筐底にしのばせて私はニューヨークに向かった。読書は思ったより順調に進み、確か出張の途中で「ゲルマント公爵夫人」を日本から送ってもらい、滞在中にこれら三冊、全体のほぼ半分を読み終えたと記憶している。
 その年、ニューヨークの冬は零下20度くらいの猛烈な寒さであった。しかも宿舎がハドソン・リバー沿いのマンションであったため、外出すると川面から顔に吹きつける風は寒さではなく、痛みを感じさせた。予想していたより読書が進んだのはおそらく外出が困難であったという事情も働いていただろう。私は毎朝、アムステルダム・アヴェニューにあるスターバックスに通い、温かいコーヒーを飲みながら一時間ほどプルーストの長編に取り組むことを日課とした。プルーストの小説を読み進めるためには一定の膂力が必要とされる。それはジムで毎日課せられた距離を泳ぐことにも似た、その場においては苦行にも近い体験であった。今でも『失われた時を求めて』の白い背表紙を手に取ると、スターバックスの窓越しに見たニューヨークの朝の雑踏が思い起こされるが、それはいつのまにか幸福な記憶へと転じている。
 小説を読んだ場所と状況について長々と書き連ねたが、それというのもこの小説のテーマが土地の記憶と深く関わっているからである。この小説には様々な土地の名が登場する。コンブレ、マルタンヴィル、あるいはパリやヴェネツィア。その中にはメゼグリーズとゲルマントのごとく、小説の中で対立的な象徴性を担わされた地名さえある。決して舞台が次々に転換される印象はないが、いくつかの土地をめぐる記憶がこの小説を構成している。帰国後も私は出張のたびに本書を携え、ほぼ半年をかけてこの長大な小説を読み通した。結果的にこの本を読んだ記憶は私の中で国内外のさまざまの土地と分かちがたく結びつくこととなった。偶然とはいえ、自宅の書斎ではなく、それぞれに記憶に残る土地でこの本を読み進めたことは作品の内容に適っていたような気もする。

 さて、今回は本書の中で私が一番印象に残っている情景について記すこととしよう。それは第二篇「花咲く乙女たち」の第二部、奇しくも「土地の名・土地」と題された章の中、一群の少女たちが語り手の前に姿を現す場面である。土地の名はバルベック。物語の語り手、マルセルが祖母とともにしばらく逗留するノルマンディーの海沿いの街の名である。ジルベルトという娘への淡い思いが断たれ、失意というほどではないにせよ、傷心のマルセルはこの地でそれからの生涯に大きな意味をもつこととなる何人かの人物に出会う。祖母と旧知のヴィルパリジス夫人の甥で後に親友となるサン・ルー、あるいは後年、驚くべき秘密が暴かれるシャルリュス男爵、モネを連想させる画家のエルスチール。(語り手の記憶をとおして読者は既にこれらの名前に馴染んでいる場合もあるが、注意深く読むならば彼らとマルセルが初めて現実に出会うのはこの海辺の街である)そしてこのような出会いの最後を飾るかのように、滞在先のグランド・ホテルの外で手持ち無沙汰に佇むマルセルの前に六人の「花咲く乙女たち」が現れる。ある者は自転車を手で押し、またある者はゴルフのクラブをもって浜の堤防から近づいてくる娘たちの描写に私はひときわ鮮烈な印象を受けた。この部分を読んだ時、私は物語の中に突如明るい光が射し込んだような思いにさえとらわれたのである。
 今回、この文章を書くにあたってその部分を再読してみたが、意外にも初読の際ほどの感銘を受けることはなかった。その部分だけを再読するのと物語の流れの中でこの箇所に逢着するのでは小説から受ける印象が全く異なるように思う。幼時を過ごしたコンブレの思い出、スワンやオデット、そしてスワンの娘のジルベルトとの関係が語られる「スワンの恋」は物語の中に動きが比較的少ない。しかもよく知られているとおり、物語は話者であるマルセルの記憶というフィルターをとおして語られるため、しばしば往還と停滞を繰り返し、冗長で際限がない。先ほど思わず苦行という言葉を用いてしまったが、この冗長さの体験を甘美さと読み替えることができるようになった時、読者は初めてプルーストの小説の真髄に触れることができる。しかしそのような境地に達するまではしばらく時間がかかる。私にとって停滞していた物語に初めて動きが感じられたのは「土地の名・土地」の冒頭で回想されるバルベック出発の場面である。祖母とともに鉄道でノルマンディーまで赴き、現地のホテルに滞在する。語り手の移動(正確には移動に関する記憶の発動)とともにそれまで宵寝のまどろみの中に滞留していた物語は賦活され、精彩を帯びる。動き始めた物語を祝福するかのように、輝く浜辺の方から華やかな娘たちが登場する。それは私にとってこの長い長い小説の中で最も強い印象を与える場面となった。スワンとオデット、あるいはマルセルとジルベルトをめぐる際限のない物語を根気よく読み進める中で次第に私の小説に関する感性が研ぎ澄まされ、この箇所における物語の転調をはっきりと意識できたのであろうか。それとも単に酷寒のニューヨークに一人で滞在していた私にとって、夏のノルマンディーの海水浴場に現れた娘たちのイメージがあまりにも魅惑的であったためであろうか。
 
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マルセルの前に現れた娘たちの一人こそ、後年の「囚われの女」、アルベルチーヌ・シモネであった。マルセルとアルベルチーヌの不幸な恋愛はこの小説の後半の主要なテーマとなる。第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」(プレイヤッド版では「逃げ去る女」)の中ではこの長大な小説をとおして二度目の鉄道旅行が語られる。マルセルは祖母ではなく母とともに、バルベックではなくヴェネツィアに向かう。しかしこの時、既にアルベルチーヌはこの世の人ではなかった。

by gravity97 | 2009-05-01 06:20 | 海外文学 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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