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Living Well Is the Best Revenge

ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』

 長い小説なので図書館から借りて読もうという了見がよくないのだろう。長編好きの私が何度か挑戦しながらも通読できない例外的な作家がドン・デリーロである。『リブラ 時の秤』も『アンダーワールド』も重厚さと評判に魅かれて手にしたものの、ともに挫折というか読了しないままに返却したことを覚えている。ただしいずれの小説にも名状しがたい読みにくさがあった気はする。この読みにくさについてはいずれこれらの小説に再挑戦する際に考えてみる余地はあるかもしれない。
 『アンダーワールド』の表紙カバーでは屹立するツインタワーのイメージが鮮烈であったが、本作品はそのツインタワーの崩壊とともに幕開けする。2001年9月11日の同時多発テロ、とりわけ世界貿易センタービルの崩落が小説の背景となる。物語は世界貿易センターにオフィスをもつエリート・ビジネスマン、キース・ニューデッカーがタワー崩壊の中でからだ中に灰を浴び、顔面に無数のガラスを突き立てたまま自宅の玄関に現われる衝撃的な場面とともに幕を開ける。錯時法を用いた語りは決してわかりやすいものではないが、物語の輪郭をたどることはさほど困難ではない。キースは編集者である妻リアンとジャスティンという娘とマンハッタンに暮らし、夫婦関係は必ずしも良好ではない。双方に愛人の存在が暗示され、キースが家庭を顧みずに同じタワー内に勤務する友人たちとポーカーに明け暮れていた様子も浮かび上がる。物語は9・11以前と以後、二つの時間を往還する。それにしても戦時下ならばともかく、資本主義の牙城とも呼ぶべき大伽藍が人為的で物理的な攻撃を受けて、多くの人命もろとも壊滅するといったカタストロフを一体誰が予想しえただろう。キースのポーカー仲間の何人かはタワーの中で絶命し、リアンはキースの死を確信する。作中でキースやリアンが味わった恐怖がニューヨーク市民に広く共有されたであろうことは想像に難くない。解説によれば、デリーロ自身も事件直後にグラウンド・ゼロに赴いたという。しかしこのようなカタストロフを小説として作品化することはたやすいことではない。作品が発表されるまでに要した6年間という時間はそれを暗示しているだろう。
 私たちはこの事件を小説に反映させた例として既にイアン・マキューアンの『土曜日』を知っている。この小説の中でマキューアンは理由のない暴力とそれからの癒しを洗練された手つきで脳外科医の一日に挿入した。冒頭で語られる火を噴きながらヒースローへと向かう飛行機のイメージはあくまでもメタファーとして機能していた。しかしながらデリーロの場合、そのような優雅なメタファーや容易な癒しは存在しえない。作品の随所に倒壊するタワーの内部やタワー倒壊後のニューヨークの情景が描き込まれ、タイトルの「墜ちてゆく男」とはタワーから落下するビジネスマンの衝撃的な写真を連想させる。しかし『墜ちてゆく男』は世界貿易センターの崩壊を扱った小説ではないし、そのように読まれるべきではない。「墜ちてゆく男」のもう一つの含意はすぐに明らかとなる。それはスーツを着込み、安全ベルトを装着して高所から飛び降りるパフォーマンスアーティストである。デイヴィッド・ジャニアック。マンハッタン各所でこのパフォーマンスを繰り返し、事件の記憶を生々しく留める男の名前は物語の終わり近くで彼の死亡記事とともに明らかになる。三章から成るこの小説は各章のタイトルとして人名が当てられ、ジャニアックは最後の章のタイトルである。あと二つの章のタイトルも内容と深く関わる。第一章のタイトルとされるビル・ロートンとはジャスティンに高層ビルに住む兄妹とともに空を監視するように命じる空想上の男であり、ジャスティンは兄妹の住む高層のアパートメントに双眼鏡を持参して飛来する飛行機を監視する。ビル・ロートンという名前はマス・メディアの中で繰り返されるビン・ラディンという固有名詞が子供たちの想像力の中で変異したものであることが明らかとなる。第二章のアーンストン・ヘキンジャーとはリアンの母、ニナの愛人であるマーティン・リドナウの本名である。ヨーロッパ出身で美術品のディーラーであり、ドイツの過激派との関係が示唆されるマーティンもビル・ロートン同様に謎の存在であり、その正体は最後まで明かされることがない。メインプロットとは無関係の三人の名前が章の題名とされている点は暗示的である。三者に共通するのはキースらにとって正体不明の他者であるということだ。
 ポーカーに明け暮れ、外泊を繰り返していたキースはタワー崩壊の阿鼻叫喚の中から自宅へ帰還する。しかし物語は当然ながら蕩児の帰還といった枠組に収まることはない。キースは崩壊するタワーの中で拾ったブリーフケースを持ち主の女性に届け、彼女と関係をもつ。リアンは同じマンションの中で耳障りなイスラム系の音楽を流し続ける女性のもとを訪ね、口論の果てに彼女を殴る。あるいはリアンが参加する認知症の初期段階の患者たちとのセッション。テロとは比べるべくもないが、いくつかの不穏なエピソードが相互に関係なく散りばめられる。作品を通じて作者であるデリーロの存在は希薄である。このような非人称性は現代文学の一つの特性であり、小説の手触りを無機的なものとしている。全てを俯瞰する話者の視点は神に比せられようが、何千人もの人が瓦礫に埋もれるという惨事の後でまず問われるべきは、神の存在そのものである。神が存在するのであれば、なぜこのような事件を許すのか、そもそも旅客機を乗っ取って世界貿易センターに突入した「テロリスト」たちも別の神を信じていたのではないか。マーティンとニナの間で交わされる議論はドストエフスキー的な色彩を帯びる。
 b0138838_2039373.jpgこの小説と喚起的な文体は9・11というカタストロフの周囲を時間的にも空間的にも旋回するような印象を与える。崩壊する世界貿易センターがその中心にあるが、その周囲を旋回しながらデリーロが描出しようとしたのはアメリカというきわめて抽象的な場ではないだろうか。なぜならこのような小説はアメリカ以外のいかなる国においても成立しえないからである。それは同時多発テロがアメリカで発生したからではない。かかる混沌、多様性、複数の声がまぎれもなくアメリカを表象しているからである。例えばこれらの点をトマス・ピンチョンとスティーヴ・エリクソンのテクストの傍らにおいて検証することは興味深い主題を形成するだろう。しかし同時にこの小説には明らかに異物として挿入される三つの断章が存在する。それはハンブルグで、ロスアンジェルスでテロを準備する「テロリスト」たちの肖像であり、そこにはアミド(モハメド・アタ)という実行犯の実名さえ記されている。これらの断章の存在は物語、つまり「アメリカ性」に強い負荷を与える。「ハドソン回廊」(ハイジャック機が飛行したハドソン川上空のことであろう)と題された巻末の断章においてアミドらに制圧された航空機内の模様が描かれた後、世界貿易センターへの突入を介して、物語の焦点は航空機内の実行犯からタワー内のキースへと転換され、凄絶なクライマックスが現出する。最初に述べたとおり、この小説は時間的には同時多発テロの以前と以後を往還する構造をもつが、最後の瞬間にいたっていわばゼロ時間の中へ全てが流れ込み、航空機とタワー、「テロリスト」と犠牲者たち、アメリカと非アメリカが炸裂する。かかる緊張感、幻惑的なイメージを喚起することは小説という言語以外では不可能であろう。デリーロの硬質の文体、無機的な声はこのような主題にみごとに応じている。
 一つの都市や共同体を破壊する災厄。私はこのような災厄に拮抗する文学の系譜が存在するように感じる。むろんそのような主題を取り上げたからといって優れた作品となる訳ではない。デリーロの作品が形式と文体によってこの困難な試みに挑戦したとするならば、寓意という手法によって同じ試みに挑んだ例として、私は村上春樹の『神の子どもたちは皆踊る』を別の機会に分析してみたい誘惑に駆られる。

 なお、昨今のパレスティナ情勢の緊迫を反映したのであろう。このブログの同じカテゴリーで取り上げたガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男たち』が河出書房新社より先頃、新装版として復刊された。書店で実際に手に取られたい。
by gravity97 | 2009-03-24 20:41 | 海外文学 | Comments(0)