ACTION PAINTING

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 ジャクソン・ポロックが20世紀美術において最重要の画家の一人であり、彼の創始した「アクション・ペインティング」が近代美術の結節点であるのみならず、それ以降の美術に決定的な影響を与えた点は今日広く認められている。しかしこの点を展覧会として検証する試みはこれまでほとんどなかった。本書は昨年1月27日から5月12日までバーゼルのバイエラー財団美術館で開催された「アクション・ペインティング」という展覧会のカタログであり、ポロックのアクション・ペインティングを同時代、そしてそれ以後の作家に与えた影響という観点から検証する内容である。これまでに企画され、同じ問題を扱った数少ない展覧会が、例えばアクションや重力といった問題を主題として、むしろ絵画を解体する契機としてアクション・ペインティングをとらえていたのに対し、あくまでも絵画を中心に据えてポロックの革新を検証した点に本展の独自性が認められよう。
 アクション・ペインティング受容におけるアポリアとはそれが文字通りアクションとペインティングという二つの局面に関わっていることに起因する。両者は写真と絵画、原因と結果あるいは時間と空間といったいくつもの対立へと展開可能であろうし、ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグという二人の批評家を対比させてもよい。この展覧会はこのうち後者に焦点をあてて、アクション・ペインティングの可能性を探る内容といえよう。
 展覧会にはポロックを含めて27名の作家が出品している。展示そのものは未見のため、図版として掲出されている作品が全て出品されたか否かについては判断できないが、ポロックの作品14点を含め、レヴェルの高い内容であることは明らかである。しかし展示の構成はやや散漫な印象を受ける。出品作家たちはいくつかのグループに分けることができよう。それはポロックと同時代に活動した抽象表現主義の第一世代の作家たち(ヴィレム・デ・クーニング、アーシル・ゴーキー、ロバート・マザウェルら)、アンフォルメルやコブラといった同時期のヨーロッパの動向(アスガー・ヨルン、ジャン・フォートリエ、ピエール・スーラージュら)、色面抽象からポスト・ペインタリー抽象へ向かう作家たち(クリフォード・スティル、ヘレン・フランケンサーラー、モーリス・ルイスら)といったまとまりである。アンフォルメルきってのアクション・ペインターであるジョルジュ・マチウの不在はいささか政治的な配慮も感じられないではないが、作家名を見れば明らかなとおり、これらの作家をアクション・ペインティングの語によって一括することはさすがに強引に過ぎる。正確には数点の例外を含みつつも1950年代から60年代にかけての欧米における表現主義的抽象絵画を通覧する展覧会と総括されるべきであろう。
 もっともアクション・ペインティングを参照項としたことによって、いくつかの興味深い作品が加えられているようだ。例えばモーリス・ルイスが1956年に制作した作品はステイニングを用いながらも明らかにアンフォルメルと親近性をもつ。このタイプの作品は大半が破棄されたため、カタログ・レゾネを見ても10点ほどしか作例がない。あるいはエヴァ・ヘスについてもドローイングはよく知られていたが、カタログに掲載されたアクション・ペインティング風の絵画は私も初めて見る作品であった。日本からはベルリンのギャラリーが所蔵する白髪一雄の作品が出品されている。私はかねてより作品の質において白髪はポロックに拮抗できる数少ない画家と考えており、この問題は水平性や画面との接触、作品のサイズといった問題とも絡めて、機会があればあらためて論じてみたい。
 カタログを一覧して、私はむしろアクション・ペインティングをその限界において理解した。端的に言ってこれらの絵画は絵画性という枷から自由でないのだ。多くの絵画において色彩が多用されている点に留意しよう。ポロックの場合も1952年前後、つまりポーリング絵画の末期に描かれた作品では多くの色彩が導入され、《ブルー・ポールズ》のごとき大作も残されている。しかしながら一見した際の派手さにもかかわらず、これらの作品は質的に必ずしも高くない。むしろポーリング絵画の達成は色彩が抑えられ、モノクロームに近い作例に求められる。本展覧会にポロックの色鮮やかな作例が多く出品されている点は暗示的である。多様な作品が出品されているため、一括することは難しいが、ここに並べられた「アクション・ペインティング」の共通点の一つとしては色彩の多用を指摘することができよう。ストロークの動勢を強調するためには、それらが個々に識別される必要があり、色彩が導入されたといえるかもしれない。この点はむしろ物質性を強調するアンフォルメル絵画との間の微妙な距離と関わっており、あるいはやはりアクション・ペインティングとの関係が指摘される日本の前衛書との関係においても興味深い論点を提起する。
 さて、本展にはリンダ・ベングリスの《ベビー・プラネット》という作品が出品されている。蛍光色に近い色彩は今述べたアクション・ペインティングにおける色彩の過剰の典型であるが、重要な点はこの色彩は塗料や絵具ではなく、ラテックスという素材に与えられた固有の色彩であること、それが撒布された状態で、すなわち水平に実現されていることである。カタログの中には彼女が作品を制作している模様を撮影した写真も掲載されているが、床に向かって缶から塗料を注ぐベングリスのアクションがポロックのパロディであることは明白だ。このカタログには同じように出品作家たちの制作の状況を記録した多くの写真が添えられているが、その中で画面を水平に置く必然性を有す作家がポロック以外にはベングリスと白髪の二人だけである点は注目に値するだろう。そしてベングリスの写真から私は素材を床に撒布するもう一人の作家をたやすく連想する。溶けた鉛を床に投げつけるリチャード・セラである。セラのアクションは「アクション・ペインティング」のきわめて即物的な解釈である。同じ時期に活躍し、例えば1990年にホイットニー美術館で開かれた「ニュー・スカルプチュア」のごとき展覧会でその親近性が指摘されたベングリスとセラのうち、一人だけがこの展覧会に召喚された点は今述べたアクション・ペインティングの限界と深く関わっている。床の上に撒布された蛍光色のラテックスはなおも絵画的とみなされて「アクション・ペインティング」の系譜に回収されるのに対して、飛び散った鉛はもはや絵画とは無縁とみなされる。この微妙な、しかし決定的な断絶こそが、ミニマル・アート以降の新たな美的感性の到来を告げるものであった。しかしながら同様のリテラリズムの兆候は実は同じ「アクション・ペインティング」展に出品された《蜘蛛の巣の中から ナンバー7 1949》のごとき作品に胚胎している。すなわちカンヴァスの表面を切り裂いてむき出しにされたファイバーボードはイメージではなく、素材の物質性としても了解可能であった。しかしそれが視覚上の盲点、一種の不在と読み替えられ、あくまでも絵画の、そして視覚性の内部に位置づけられた時、「アクション・ペインティング」に潜在したもう一つの可能性は切り捨てられることとなった。

by gravity97 | 2009-02-15 09:58 | 展覧会 | Comments(0)
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