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優雅な生活が最高の復讐である

Richard Serra 《AFANGAR》

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 あなたは「世界の果て」という言葉からいかなるイメージを思い浮かべるだろうか。私は世界の果てについてきわめて明確なイメージを抱いている。それはアイスランド、レイキャビク近郊、ヴィディ島の風景だ。
 そこには9対のモノリスが屹立している。リチャード・セラが1990年に設置した《アファンガー》という作品である。私は1998年にロサンジェルス現代美術館で開催されたセラの回顧展のカタログで初めてその風景を目にした。荒涼とした大地、暗い海岸を臨む断崖近くに対を成して設置された18点の石板。わずか6枚のモノクロの図版に私はたちまち魅せられてしまった。まさしくこれは世界の果ての姿だ。
 先日、1991年にチューリッヒで出版されたこの作品の美しいカタログを入手することができた。英語と(私にとって未知の言語でありおそらくは)アイスランド語が併記されているが、テキストはほとんどなく、さながら「世界の果て」の情景の写真集といった趣がある。ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェティ》やマイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》を想起すれば理解されるとおり、ランド・アートに共通する特質は訪れることの困難であり、ウォルター・デ・マリアは《ライトニング・フィールド》についての簡潔な解説を「孤絶こそランド・アートの本質である」という印象的な言葉で結んでいる。しかしながらヴィディ島はレイキャビク近郊というから決して訪れることが不可能な地ではないし、屹立する石板は《スパイラル・ジェティ》のごとく風化することもない。私はいつの日か、これらのモノリスの傍らに立ちたいと強く感じる。
 タイトルの由来について、いろいろと調べてみたのだが、言葉の意味も含めてよくわからなかった。おそらく何かの固有名詞ではないだろうか。作品についてはカタログ中に次のようなコメントが付されている。
Stations, Stops on the Road / To Stop and Look ; Forward and Back / To Take It All In
途上の留という言葉から直ちに連想されるのは Stations of the Cross 、つまりキリストの十字架の道行きである。通常は14の場面から成り立つこれらの情景は古来よりキリスト教美術の伝統的な図像でもあった。そして現代美術においても同じテーマで重要な先例がある。いうまでもなくバーネット・ニューマンが1958年から66年にかけて制作し、現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収められている14点の連作「The Stations of the Cross」である。セラの作品はニューマンと無関係ではありえないだろう。現実の場に位置を占めるセラの作品は「場の感覚」を主張するニューマンの正当な後継者であり、なによりも垂直に屹立する《アファンガー》のイメージは禁欲的なモノクロームのニューマンのジップ絵画連作を強く連想させ、ニューマンの彫刻とも親近性をうかがわせる。
 もう少し詳しく作品を記述しよう。今述べたとおり作品はいずれも対の石板として設置されている。カタログにはタイトルの横に「九つの場所、二つの高度」という言葉が付されている。対の石板はヴィディ島の周囲を取り巻くように島内の9箇所に設置され、島を上空から鳥瞰した写真によってその状況はある程度理解できる。この点は十字架の道行きのごとく、一つのパッセージとして作品が構想されている点を暗示しているかもしれない。二つの高度とは4 メートルと3 メートル、異なった高さの二つの石板、それぞれ最上辺が海抜9 メートルと10メートルを標定していることを意味する。
 直立するモノリスは直ちにキューブリックのフィルムを連想させる。あるいは墓標やオベリスク。多様なコノテーションをもつ点はセラの寡黙な作品の中ではむしろ例外的である。素材はこの島固有の黒灰色の玄武岩であり、石という素材もセラの作品としては珍しく、これ以前にはおそらく1982年にフィレンツェ近郊に設置した作品しか例がない。セラ自身もフィレンツェの作品について触れたテクストの中で、彫刻における素材の重要性を説いた後、自身が多用する鉄に比べて元素的な素材である石が時間という問題と深く関わっていることを強調している。2006年にニューヨーク近代美術館で開かれたセラの二回目の回顧展のカタログテクストでリン・クックは《アファンガー》に触れ、玄武岩の使用がこの作品に二つの意味を賦与している点を指摘している。一つは垂直の構造とあいまって境界を画定し、海抜高度を標定する標点としての意味であり、もう一つはこの島の地質学的な特性との関連である。セラは作品が設置される場所と深く結びつくべきであるという主張を繰り返してきたが、クックが指摘する意味は土地との関係があまりにも生々しく、セラの作品の中でも例外的な印象がある。私の手元には1998年にドイツで刊行されたセラの版画のカタログ・レゾネがある。この中にも1991年に制作された「アファンガー」と題された一連の作品が存在する。その一部は上に示したカタログにも収録されているが、面的な要素で構成される場合が多いセラの版画やドローイングの中で、線的な要素を強調したアファンガー連作は異彩を放っている。立体においても版画においてもアイスランドの小さな島に触発された作品が一種の特異点を形成している点は興味深い。その理由はおそらく最初に述べた「世界の果て」に比される風景と関わっているだろう。クックによれば1988年の最初の訪問以来、セラもこの島の風景に畏怖の念を抱いたという。この点において《アファンガー》と北ヨーロッパにも分布するドルメンやメンヒルといった巨石記念物の相似は暗示的である。都市空間を強引にねじ伏せ、時に作品撤去にまで発展する議論を引き起こしてきたセラでさえ、アイスランドの絶景を前にして、風景への強引な介入ではなく、いわば土地の霊、ゲニウス・ロキに導かれて作品を構想せざるをえなかったというべきであろうか。
 セラの作品といわゆるランド・アートとの共通点と差異は一編の論文の主題たりうる。私の印象としてはセラの作品の場合、設置される場所は所与の条件である場合が多く、場との間に交わされる緊張が作品の大きな魅力であった。《アファンガー》において作品はむしろ場と親和している。アイスランドの荒地に屹立する異例の作品はセラのみならず野外に設置される作品と場との関係にいくつもの重要な示唆を与える。
by gravity97 | 2009-01-10 10:04 | 現代美術 | Comments(0)

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