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ポール・オースター『幻影の書』

ポール・オースター『幻影の書』_b0138838_23162787.jpg 10年以上にわたって、新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も期待を裏切られたことのない作家はさすがにあまり例がない。ポール・オースターは私にとってこのような異例の作家である。書庫で調べてみると最初の邦訳、『シティ・オブ・グラス』が1989年の発行であるから、ほぼ20年にわたって読み継いだこととなる。2002年に発表された本書がいつもどおり柴田元幸の手によって翻訳されて先ほど刊行された。帯には「最高傑作」と銘打たれているが、それはどうであろうか。オースターの場合、どの小説を「最高傑作」とみるかはおそらく個人的な趣味による。私としては『ムーン・パレス』の完成度が一番高いのではないかと考えるが、本作品もオースターらしさが十分に発揮された佳作である。
 オースターの作品は多く最初に謎が提出され、それをめぐる探索が物語を構成する。しかもその謎の輪郭は物語のごく最初の段階で提示される。本書においても物語の骨格自体は冒頭のわずか10頁ほどで間然するところなく示されている。主人公デイヴィッド・ジンマーは大学の教員。飛行機事故で妻と子供たちを亡くし、生ける屍のごとき人生を送っていたが、偶然見たサイレント末期のコメディアン、へクター・マンの短編映画に感銘を受け、多くが失われていた彼のフィルムを研究することによって社会に復帰する。へクターは60年前、その絶頂期にあって突然謎の失踪を遂げていた。ある日、ジンマーのもとにへクターとの面会を求めるヘクター夫人からの手紙が届く。なんとも魅力的な設定ではないか。才能ある作家であれば、一つの物語を起動するに十分な材料が散りばめられた冒頭である。ただし私の印象としては、本作品においては物語の展開がいささかぎこちない。物語の中の物語という趣向はオースターの多くの作品に共通するが、本書においては挿話がつぎはぎされた印象があり、物語の潤滑性を阻んでいる。つまり登場人物の一人の口を借りて語られるへクターの失踪の理由とその後の行路のエピソードは、ヘクターと会う直前に語られたにしてはあまりにも長いし、そもそもジンマーの生活に闖入した人物の三人称による語りはその真偽が担保できない。このため終盤で再開されるジンマーによる一人称の語りへの移行はいささかぎくしゃくしている。オースターほどのストーリーテラーにしてはやや雑な構成ではないだろうか。
 オースターは実際に映画の脚本や監督も手がけており、映画との親和性の高い小説を発表してきた。また彼の小説の多くが消尽や消滅と関わっていたことを想起するならば、この小説の主題に「失われたフィルム」が選ばれたことの必然性は容易に理解される。思うにヴィデオやDVDが登場する前のフィルムとしての映画ほど実体性からかけ離れた芸術はほかにない。文学や美術において作品は書籍や絵画といった具体的なかたちをとって存在するのに対して、いかに大掛かりなスペクタクルが繰り広げられたとしても、フィルムそのもの、あるいは映写機そのものは何のイメージも提供しない。フィルムを映写機に装着し、上映する瞬間にのみ私たちは映画というかりそめのイメージに見えることができるが、そのイメージの根拠として存在する実体は燃えやすいセルロースのフィルムの上に定着された無数の光学的イメージである。映画とは私たちがそれを見る間だけ存在する「幻影」であり、瞬時的なイメージを切り取って定着することはできない。この問題はジル・ドゥルーズがベルグソンを援用しながら的確に分析した点であり、ショットを画面として定着することが可能なヴィデオやDVDが普及することによって逆に意識されなくなった映画の本質である。そして実体をともなわず、持続の中にしか存立しえない映画の「幻影」は私たちの生の暗喩でもありうるだろう。ジンマーもへクターも映画的といってよい数奇な運命をたどる。彼らの生はとりかえしのつかない事件、偶然によって引き起こされた悲劇に満ちている。そして物語も終盤にいたっていくつものとりかえしのつかない悲劇が連鎖する。オースターは「幻影」をキーワードに映画と登場人物の生を巧妙に重ね合わせる。映画と生という「幻影」にかたちを与えるものは何か。それは書くことではなかろうか。物語の中でジンマーはへクターのいくつかの映画について詳細に記述する。そのうちの一つは一度上映された後、永遠に失われることになる映画である。あるいは私たちはジンマーが「精神を崩壊させてしまう思い」と呼ぶ邪悪な想像、へクターの死をめぐる秘密について彼の手記、つまりこの小説を読むことによって知る。書くこととは幻影にかたちを与えることである。この小説が存在する理由はここにあり、それは端的に文学のレゾン・ド・エートルでもある。
 燃え上がるフィルムのイメージは私にたやすくもう一つの炎上のイメージ、フランソワ・トリュフォーのフィルム、「華氏451度」を連想させる。ここでも文学と映画が交錯する。レイ・ブラッドベリの名品が炎による破壊の後に一つの希望を準備したように、「幻影の書」も末尾において一つの希望が語られる。炎を主題とするこれら二つの物語が、暗然たる破壊や死の果てにあえかな希望とともに終幕することは偶然の一致であろうか。
by gravity97 | 2008-12-09 23:21 | 海外文学 | Comments(0)