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Living Well Is the Best Revenge

野村真理『ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト』_b0138838_14304894.jpg
 ウクライナとガザで戦争が続く。とりわけ連日伝えられるガザでの悲惨な状況はTVニュースの画面を見るだけで胸が痛む。子どもたちや赤ん坊が傷つき、殺され、時に瓦礫の中の遺体として写し出される。海外で配信されている映像にさえ残酷な場面が映示される旨の警告が付されるのだ。イスラエル軍の圧倒的な暴力が彼の地を覆っていることに疑いの余地はなく、ガザで進行しているのが住民の絶滅をめざした虐殺であることも明らかである。(酒井啓子は『現代思想』の特集でガザ住民の半数が殺害され、半数がガザを追われると予想している)しかしイスラエルをめぐる暴力の淵源は根深い。そこには20世紀から今世紀までユダヤという民族に繰り返し加えられた差別と迫害、被害と加害の歪んだ連鎖がうかがえる。このブログでは第二次大戦前後に東ヨーロッパを中心に繰り広げられたユダヤ人絶滅政策と関わる研究や小説、映画などを繰り返し取り上げてきたが、今回はナチス・ドイツやスターリンのソ連のごとく、かかる迫害に直接関わることなく、いわば傍観者の立場でこの惨事に立ち会った国家について論じた研究を取り上げる。しかし傍観者といった立場は許されるはずもなかろう。第二次大戦前後にかつてのハプスブルグ帝国の末裔、オーストリアという国家の立ち位置はいかなるものであったか。私たちは戦時のオーストリアをドイツによって強引に併合された悲劇の国とみなしがちであるが、真実は異なる。本書の特徴はオーストリアにおけるユダヤ人問題を単にナチス・ドイツとの関係、つまり1938年のアンシュルス(独墺統合)から1945年のドイツの敗戦という第二次大戦との関係ではなく、より長い文脈でとらえた点に求められよう。本書が「ホロコースト」と題された第Ⅱ部の前後に「オーストリアの反ユダヤ主義」と「オーストリアの戦後補償」という二つのセクションが置かれるゆえんである。そこから浮かび上がるのはユダヤ人を徹底的に迫害しながら、戦後は自らを犠牲者として差し出す狡猾な国家像である。

 「オーストリアの反ユダヤ人主義」と題された第Ⅰ部ではフランツ・ヨーゼフ三世の1848年革命から両大戦間までのオーストリアにおけるユダヤ人排斥の状況が描かれる。19世紀後半、多民族国家オーストリアにおいてユダヤ人は比較的寛容に扱われる。知られるとおり、ユダヤ人の中からはロスチャイルド家に代表される富裕な商人が輩出し、高等教育への進学率も高かった。この一方、1873年以降続く長期の不況は一般の民衆の生活水準を低下させ、ユダヤ人への反感を醸成した。むろんすべてのユダヤ人が経済的に恵まれているはずはないが、大衆の不満を劣位にある集団へと向けるのは政治の常套手段である。本書で引かれる(19世紀末を回顧した)1931年のカトリック教皇の回勅はあたかも現在の私たちを指しているかのようだ。


19世紀の終わり頃、経済の進化と産業の新たな発展のために、ほとんどすべての国家において、社会は二つの階級に分裂する傾向をますます強めていった。すなわち、一方では少数の富者が現代の発明によってきわめて豊富に提供されるほとんどすべての安楽を享受し、他方ではおびただしい労働者の階級が苦悩に満ちた困苦に追い込まれ、そこから抜け出そうともがいても、徒労に終わっていた。


ユダヤ人がかかる不満のはけ口、攻撃の対象とみなされた理由はいくつか存在する。オーストリアでは既に17世紀に遡って反ユダヤ人主義、ユダヤ人排斥の歴史があったが、この時期、それを担ったのがキリスト教社会党であったという指摘は興味深い。既に述べたユダヤ人の商業的成功は蓄財を否定するキリスト教の教義に反していたからだ。漠然と醸成されていた反ユダヤ人主義は第一次世界大戦の勃発によって新たな局面を迎える。敗戦によってオーストリア=ハンガリー二重帝国が解体し、オーストリア共和国が成立する一方で、ロシア、ウクライナにおける迫害を恐れたユダヤ人難民がガリツィア地方からウィーンへと大量に流入した。ナチス・ドイツ以前にロシア/ソビエトの手によってユダヤ人への殺戮をともなった集団的迫害、ポグロムがなされていた点は現代史の中で押さえておくべきポイントである。オーストリアが多民族国家であった点は先に述べた通りであるが、このうちドイツ系の住民はこの事態に素早く対応した。すなわちヒトラーと連携したオーストリア・ナチの活動であり、彼らは1933年にウィーン大学医学部のユダヤ人教授の講義を襲撃し、アメリカ人留学生を含む25人の学生に暴行を加えた。「水晶の夜」の5年前の出来事だ。ユダヤ人迫害を象徴する事件が大学において発生したという歴史的事実についても私たちは記憶しておこう。この時代にオーストリアにおいて民主制はかろうじて成立していたが、多くの政党が反ユダヤ人主義を標榜する中でユダヤ人たちは投票の対象を失い、ウォルター・サイモンのいう「政治的ホームレス」へと転じていたという。この指摘も現在の私たちにとっては重い。一方で同時代のシオニズムの高まりを背景に、ウィーンのユダヤ人たちも民族評議会、ゲマインデを結成してみずからの権利を主張することとなる。(ゲマインデの結成に関してユダヤ人の内部で混乱があった点が本書では詳述されているが、ここでは措く)ユダヤ人たちがゲマインデを結成した理由の一つとしては彼らの圧倒的窮乏があった。世界恐慌に由来する貧困はユダヤ人社会において熾烈であった。「失業していて。かつユダヤ人であることはあらゆる希望が消え失せてしまうほどの不幸である」そして彼らをアンシュルスという激震が襲う。オーストリア独立をはかったシュシュニク首相がヒトラーによって退任させられ、ドイツに併合された時、そこに住むユダヤ人の命運も定められたのだ。

 シュシュニクが首相府を追われるや、ユダヤ人への激しい迫害が始められる。老若男女の区別なく家から引きずり出されたユダヤ人たちは国民投票の際に独立の支持を求めて町中の壁や街路に描かれた Ja(賛成)の文字をアルカリ溶液で拭き消すように命じられる。この作業に従事するユダヤ人たちとそれを遠巻きにする人々を撮影した写真が掲載されている。劇薬で拭き取る作業は危険で屈辱的なそれであったが、遠巻きにする人々は薄笑いさえ浮かべている。人々が分断された時、優位に立つ側がどれほど残酷になるかを示す写真と言えるだろう。さらにユダヤ人たちは「アーリア化」という掛け声のもとに資産を奪われ、住居を奪われていった。「アーリア化」によってユダヤ人の資産や住居を奪った者たちは「アリズール」と呼ばれた。オーストリアにおけるユダヤ人政策は一言で言うならば、ウィーンのユダヤ人を国外に大量移送することに尽きる。迫害的な政策のゆえに自発的に逃れようとしたユダヤ人も多かったであろうが、ナチスは有無を言わさず「ウィーン・モデル」という方法で彼らを国外へと追放した。かかる迫害の苛烈さを証明する言葉が残っている。ユダヤ人の国際援助団体の代表がニューヨーク本部に宛てた打電によると「ドイツでは、反ユダヤ的弾圧措置で五年かけて実施されたことが、(オーストリアのユダヤ人には)五日間で強制された」。そしてこのような移住促進政策を立案して推進した責任者こそアドルフ・アイヒマンであった。野村によれば「ウィーン・モデル」は車の両輪のごとき二つの手法によって推進された。一方では「ユダヤ人移住本部」を設立して移住にかかる繁雑な手続きをワンストップで完了させ、もう一方でそのために必要な莫大な費用をユダヤ人自身に払わせる制度を確立したことである。つまり強制的な移住であるにもかかわらず、出国税を彼らに支払わせ、支払えない場合はゲマインデなどから徴収したのである。移住を命じながら命じられた側がそのための費用を負担するという明らかに倒錯した事態が発生していた訳だ。ゲマインデは時にアメリカに移住していた富裕なユダヤ人たちからも資金の提供を受け、ウィーンのユダヤ人たちを各地に送り出していった。彼らはどこへ向かったか。その内訳が記されている。イギリスに14992人、イタリアの1800人をはじめ、ヨーロッパ内に23843人、アメリカに10980人、パレスチナに4820人、上海に5488人、中南米に5142人、オーストラリアとニュージーランドに616人、アフリカに222人。ユダヤ人のディアスポラの一例を示す数字であり、彼らが播種された地域の広さには目がくらむようだ。先日、私は東京ステーションギャラリーに安井仲治展を訪れたが、「流氓ユダヤ」と題された一連の作品、神戸の居留地で撮影されたユダヤ人たちの顔が彼らと二重映しになった。

 「ホロコースト」と題された第Ⅱ部のうち最初の章「エクソダス」はここで終わる。後半の章「移住から移送へ」においてはもはや送るべき目的地も定かではなくなったユダヤ人たちの苛酷な運命が様々な事例を通して語られる。ユダヤ人たちは東方へと送られた。1939年にポーランドはドイツとソ連によって分割され、いくつもの収容所が建設される。さらに状況を混迷化させたのは1941年に始まる独ソ戦である。徹底的な殲滅戦であるこの戦争の中で移送されてきたユダヤ人はドイツ、ソ連のいずれにとってもお荷物であり、しかも多くが老人や女性といった戦力に転用できない人々であった。両方の国において多くのユダヤ人の集団殺戮が発生し、先に述べたゲマインデもこの状況に微妙に関わっていた。絶滅収容所もすでに稼働を初めており、ウィーンのユダヤ人たちも運命の歯車に飲みこまれていった。私は単純化して説明しているが、この辺りの事情は相当に複雑で本書の読みどころであるから興味をもった読者は是非本書にあたってほしい。例えば当時ゲマインデの移住部に在籍したベンヤミン・ムルメンシュタインなる男についての言及がある。彼は通過収容所の長老として同報の移送に携わったとして、ナチ協力者という烙印を押された。しかし彼については様々な証言があり、なんと彼は自らクロード・ランズマンの「ショアー」に出演して自分の立場を滔々と論じているという。収容所においてユダヤ人がユダヤ人を管理した問題についても私たちは様々な文章や映像を通じて確認してきたが、単に被害者と加害者に色分けすることが困難であることもユダヤ人問題の難しさを暗示している。

 第Ⅲ部は戦後、オーストリアが戦後補償と歴史認識にどのように関わったかという点が論じられる。ソ連によって解放されたウィーンにあってはカール・レンナーが首班となり、ナチス・ドイツによって強制的に併合された被害者オーストリアというイメージを作り、ドイツからの補償金を得ようとした。このためにはナチへの抵抗者の存在が必要であり、1947年の犠牲者援護法によってかかるストーリーを法制化しようとした。しかしオーストリアとドイツは人種的には共通するところが多く、アンシュルスを多くの国民が歓迎したという歴史的事実がある。さらに重要な点はこのような図式にはユダヤ人が収まる場所がないことである。オーストリアにおいても最大の被害を受けた人種はユダヤ人であったはずだが、彼らはなんの補償も受けるところがなかったのである。それどころか彼らが追われた住居には「アリズール」が占拠していたから、彼らはゲマインデが準備した簡易宿泊所への居住を余儀なくされた。さらにユダヤ人に対する補償に当たって最大の問題点は、しばしば犠牲者の一族がホロコーストによって絶滅している点である。オーストリアにおいてナチスの迫害によるユダヤ人犠牲者に対する補償交渉はニューヨークに本部を置く「対オーストリア・ユダヤ請求委員会」が当たったが、交渉においてオーストリア政府は不誠実な態度を取り、元ナチスに対する恩赦が進められる一方で、最終的にオーストリアとユダヤ請求委員会の交渉がまとまり、基金の設立が決定されたのは1956年のことであった。55千万シリングの規模となった基金に多くの問題点がある点は本書で縷述されるが、この一方で1961年、オーストリアは西ドイツと結んだクロイツナハ条約によってユダヤ人への迫害を主たる理由として多くの補償金を獲得した。迫害者でありながら、自らを犠牲者として歴史に刻むことに成功したのである。

 本書の最後には私も知っている二つのエピソードが語られる。いずれもオーストリアの戦争犯罪と深く関わる内容だ。一つは第四代国連事務総長クルト・ヴァルトハイムをめぐるスキャンダルだ。ヴァルトハイムは国連事務総長を務めた後、オーストリアの大統領選に立候補する。しかし彼がかつてナチスの突撃隊であったという過去が暴露され、大きなスキャンダルとなる。ユダヤ人団体は徹底的な批判を繰り返すが、国内では逆にユダヤ人に対する反感が高まり、疑惑を晴らすことがないままヴァルトハイムは第六代のオーストリア大統領に就任する。もう一つはかつてヴェルデヴェーレ宮殿に展示されていたクリムトの代表作《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》が略奪美術品としてアメリカに住むブロッホ=バウアー家の相続人に返還されたという事件である。これについては確か映画になっていたのではなかっただろうか。いずれもオーストリアの現在がナチス・ドイツの犯罪となおも深くつながっていることを示すエピソードといえるだろう。

 本書は様々なことを教える。なるほどドイツによって併合されたとはいえ、オーストリアは戦時中も国家として存立しえたから、例えば分割して支配されたポーランドのごとき悲惨を経験することはなかった。おそらくオーストリア国内にはユダヤ人の絶滅収容者はもちろん収容所も存在しなかったのではなかろうか。ナチス・ドイツは彼らの「最終処分」を自分たちの領内ではない占領地、他国であるポーランドに押しつけた。このため絶滅政策の実行についてはオーストリアは第三者もしくは傍観者の立場をとることができた。しかし本書で検証されるとおり、オーストリアは第三者どころから積極的な協力者として自国内のユダヤ人を国外へ送り出した。その内訳は先に示したとおりであるが、とりわけイギリスと中立国以外のヨーロッパ各国に送り出されたユダヤ人たちの多くがホロコーストの犠牲となったことを私たちは知っている。それは国家の手による犯罪といえよう。

 もちろん私は単純にオーストリアを批判できる立場にはない。巨大な暴力を前にした時に私たちが取りうる行動は限られているかもしれないし、歴史を超えて一方的に断罪する権利を私たちが手にしているとは思えない。巻末にドイツの首相,ヴァイツゼッカーの有名な演説「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる」が引かれ、近年のオーストリアの政権がユダヤ人に対して謝罪の意思を示したことも記されている。私たちも本書を現在に対する問題提起の書として読むべきではないだろうか。例えば併合という点では日本と韓国北朝鮮の関係はドイツとオーストリアと同じ関係にある。しかしながら今日、私たちは謝罪どころか北朝鮮を仮想敵国とみなし、韓国との関係もぎくしゃくしている。あるいは移送ならぬ連行によって朝鮮半島から日本へと強制的に移動させられた在日の人々にヘイトスピーチを浴びせる私たちが選んだ国会議員は街路を清掃するユダヤ人を嘲笑う民衆の無意識を代弁しているのではなかろうか。果たして私たちは現在のガザやウクライナの状況に対しても傍観者としてふるまうことができるだろうか。安倍政権が定めた武器輸出や開発を進める姿勢は現政権にも踏襲され、憲法によって保証されていた平和国家としての矜持ももはや抱くことができない。ますますきな臭くなる世界の中で私たちはどのような立場を取るべきか。本書を傍らにしばし考えてみてもよいのではなかろうか。

 なおアンシュルスに関しては文学の領域でも画期的な反省が試みられている。エリック・ヴュイヤールの『その日の予定』であり、このブログでもレヴューしている。併読をお勧めする。


# by gravity97 | 2024-03-10 14:34 | ノンフィクション | Comments(0)

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』_b0138838_05302939.jpg
 美しい長編小説を読んだ。形式的に端正で、内容も清冽な一種の恋愛小説である。しかしよりによって今、ロシアのウクライナ侵攻から二年目を迎え、ガザでの虐殺が続いている時点でこの小説を読むのは辛い。小説の中で描かれている悲劇がさらに徹底され、さらに多くの人々を巻き込んで繰り返されていることが明らかであるからだ。冒頭に建物の中で爆撃に脅える主人公たちの姿が描写される。これはまさに今、ガザで、ウクライナで無辜の人々が置かれている状況と変わるところがない。

 長い小説ではあるが読み終えるのにさほどの時間はかからない。短い断章が連ねられるスタイルは読みやすく、読み始めるとまもなく本書の構造とおおよそのあらすじは了解される。このレヴューでは本書の内容についても深く立ち入るが、決してこの小説を読む楽しみが殺がれることはないはずだ。

 最初に二つのエピグラフが置かれる。一つは19448月にドイツ軍に占領されていたフランスのサン・マロという町が連合軍の爆撃によって壊滅的な被害を受けたという記述、もう一つはラジオなしでは権力の奪取と行使は困難であっただろうというヨーゼフ・ゲッペルスの言葉である。二つのエピグラフは小説の内容と深く関わっている。最初のエピグラフに続いてサン・マロが爆撃を受ける前日の模様が粗描される。読み始めるとまもなくおおよそのあらすじが了解されると記したが、それはこのサン・マロ爆撃が本書の一つのクライマックスになるであろうことが直ちに推測されるからであり、この長編が先説法に拠っていることもまもなく明らかになる。なぜなら続く章で読者は1934年という年記とともにちょうど10年前に引き戻されるからだ。1934年と1944年、ヨーロッパの歴史にとって象徴的な二つの日付の間を物語は遊弋する。物語の二人の主人公はすぐさま明らかになる。一人はパリに住む盲目の少女マリー=ロール、もう一人はドイツ、エッセンの孤児院で妹とともに暮らす少年ヴェルナー。この小説は一種のボーイ・ミーツ・ア・ガールの物語であり、戦争によって引き裂かれている二人が何らかの偶然を介して知り合うことになるというストーリーは読み始めるとおぼろげに予想される。二人はいかに隔てられているのか。マリー=ロールは国立自然史博物館に錠前主任として勤務する父と暮らしている。本書の中では一度だけヴィトレという父の名が明かされるが、マリー=ロールの父は持ち前の器用さで二人が住む街のミニチュア模型を作って触覚をとおして彼女に街を記憶させる。炭鉱事故で父を亡くしユッタという妹と暮らすヴェルナーは小柄ながら聡明でラジオや無線通信に関心をもち、孤児院で独学によってその構造を学ぶ。エピグラムにあったゲッペルスの言葉が暗示する通り、ラジオとはこの時代にあって両義的な存在だ。ドイツのプロパガンダ放送が流れる限り、それは大衆を操作し。団結させるための武器である。しかしそれを用いて敵国からの放送を密かに聞き、レジスタンスの情報を伝える時、それはドイツに対する叛逆の武器となる。

 1934年という年記を冠した第一章で物語の歯車は少しずつ動き始める。父とともにパリの博物館で鉱物や貝類の標本に接しながら平和な暮らしを送っていたマリー=ロールの生活に次第に戦争の影が忍び寄る。ナチス・ドイツの侵攻を前に博物館長は博物館に収められていた貴重な資料の疎開を計画し、ことに貴重な資料であるダイヤモンドをマリー=ロールの父に託ける。正確には博物館に残されたそれを含めて4個のダイヤモンドが存在するが、そのうち一つだけが本物であり、職員たちは自分が預かったそれの真贋を知らぬままフランス各地へと逃れていく。マリー=ロールも父とともに避難する人々の雑踏の中、パリから逃れる。一方、ヴェルナーはナチスが権力を掌握し、ヒトラーへの忠誠を強制される一方でユダヤ人が排斥される時代にあって、偶然の出来事を介してラジオに関する知識と技術を見込まれ、国家政治教育学校の入学試験を受けることとなる。孤児院に妹のユッタを残し、ヴェルナーは旅立つ。続く第二章は194488日という年記をもつ。サン・マロ爆撃の日付だ。爆撃を避けて建物の中に退避する二人の情景を短く粗描して、マリー=ロールとヴェルナーがともにこの日、ごく近い場所にいることが暗示される。

 続く第三章の年記は19406月。ナチスは台頭し、フランスは占領されている。二人のいずれにとっても厳しい時代が続く。試験に受かったヴェルナーはヒトラー・ユーゲントの幹部を育てるための学校で厳しい教育を受ける。脱落者の排除を目的とした教練は厳しく、非人間的だ。ヴェルナーは本来の自分を押し殺して生き延びようとする。マリー=ロールは父とともに叔父エティエンヌを頼ってサン・マロという町へ逃れる。地図で確認してみた。サン・マロはブルターニュ半島、パリからもさほど遠くない海辺の町だ。町は城壁で囲われ、それ自体が一つの要塞である。まもなく連合国軍が上陸するノルマンディからも近く、地理的に要衝となる土地である。ドイツ軍が進駐しているとはいえ、食糧は豊富で町は平静を保っている。マリー=ロールと父は変人のエティエンヌと彼を世話するマネック夫人に暖かく迎え入れられて一時の休息を得る。しかし私たちはまもなくこの町が劫火に包まれることを知っている。第四章は再び連合国の爆撃によって地獄と化したこの街を描写する。

 第五章の年記は19411月。ヴェルナーは相変わらず残酷な学校にいる。そこでは純真な魂や人間性は弱さとみなされ、弱者は教師と同級生たちから徹底的に攻撃される。ヴェルナーはかろうじて耐える。マリー=ロールも占領されたサン・マロの町で逼塞した生活を送る。ドイツ兵たちは次第に支配者然とした態度をとり始め、彼らに密通して利益を得る住民も現れる。一方でマリー=ロールとも親しい老婦人たちは密かにレジスタンス運動を始める。ドイツ軍の情報を暗号化したメモを焼き上げたパンの中に忍ばせて、マリー=ロールが持ち帰り、エティエンヌは自宅に隠し持った無線発信機によってメモに記された数字の羅列を読み上げる。ラジオと無線、ヴェルナーとマリー=ロールの接点がようやく浮かび上がる。教師たちから疎まれたヴェルナーは兵士として前線に駆り出されるが、無線技術に長けた彼に与えられた仕事は特殊な機器を用いてレジスタンスたちが交信する電波の発信地を特定し、襲撃することであった。ウクライナ、独ソ戦の地獄で多くの成果を上げたヴェルナーらのグループは占領地であるフランスへと転進し、電波による索敵作業を続ける。彼らはサン・マロの近くで明らかにレジスタンスの通信と思われる電波と遭遇する。

 この長い小説は少年と少女のストーリーが交互に進行するが、もう一つの重要なサブ・ストーリーとして、博物館から持ち出された〈炎の海〉と呼ばれるダイヤモンドの行方をめぐる探索のそれがある。国立博物館に収蔵されていた巨大なダイヤモンドが密かに持ち出されたことはドイツ軍の知るところとなり、フォン・ルンペルなる上級曹長がその行方を追う。三つの模造品と一つの本物。ルンペルは博物館に残されたそれも含めて、一つずつ探し出し、錠前主任が運ぶそれこそが本物であることを知ってサン・マロへと向かう。果たしてダイヤモンドはルンペルの執拗な追跡を逃れることができるのか。〈炎の海〉をめぐる隠匿と探索の物語も本書の縦糸をかたちづくっている。そしてサン・マロ爆撃というクライマックスの中でマリー=ロールとヴェルナー、ルンペルは遂に相まみえることなる。

 いくつかの重要な挿話と第11章以降の現在につながるエピソードについてはあえて触れずに本書のあらすじを記した。本書を味読する楽しみは読者に残されたはずだ。さて、このように記してみるとこの小説の形式的な特性も明らかとなる。まずこの物語にはいくつもの双称的な構造が存在する。ドイツとフランス、ヴェルナーとマリー=ロール、妹に対しては父、無線機に対しては街の模型。語りも均等であり、ヴェルナーとマリー=ロールの物語が交互に語られる形式から私は村上春樹の『1Q84』を連想した。博物館は本書の舞台の一つであるが、博物学の対象もシンメトリカルだ。マリー=ロールは博物館の職員にも親しまれ、とりわけ軟体動物の専門家であるジェファール博士の研究室で貝の標本に触れることを楽しむ。ヨーロッパバイ、マクラガイ、ヒタチオビガイ、スジガイ。列挙される貝類の名前から私は維新派の舞台を思い出した。一方でヴェルナーにはフレデリックという友人がいる。フレデリックは鳥類に詳しくベルリンの自宅にはオーデュポンの鳥類図鑑がある。図鑑を示しながらフレデリックはヴェルナーに説明する。オウサマタイランチョウ、カワアイサ、ホオジロシマアカゲラ。貝と鳥の名前はマリー=ロールやフレデリックを慰撫し、戦時にあって平時への憧憬を暗示している。

 小説の中にはこれもまた対照的に二人を支える二つのモティーフが登場する。ヴェルナーはユッタとともに密かに組み立てたラジオを聞くが、そこから聞こえてくるのは総統の狂気じみたアジテーションだけではない。若い男性がフランス語で自然について語る放送を二人は好む。この男性が誰であったかは物語の終盤で明らかになるが、小説のタイトルもこの放送で語られた言葉からとられている。「ひとつたりとも光のきらめきを見ることなく生きている脳が、どうやって光に満ちた世界を私たちに見せてくれるのかな?」「数学的に言えば、光は目に見えないのだよ」かかる応答が本書において400頁ほどの距離をはさんでなされていることをどれほどの読者が気づくだろう。すべての見えない光とは電波を暗示しているのかもしれない。マリー=ロールとヴェルナーは声を通して互いを認知する。一方のマリー=ロールもパリ、サン・マロ、そして爆撃にさらされながらも、まるでお守りのように一冊の本、点訳された本を握りしめる。ジュール・ヴェルヌの『海底2万里』だ。貝類標本からの連想もあるかもしれない、盲目の少女にとって不思議な生物と邂逅しながら海底を航行する潜水艦のイメージは常に現実から離れた救いであった。二人の子どもたちが机に置かれた本を見つめている表紙のデザインはかかる救いを暗示しているかもしれない。

 双称性、あるいは隠匿と探索、いくつかの説話論的なテーマが巧妙に配された本書は80年前の具体的な日付を持つ小説である。博物館資料の疎開、あるいは都市に対する爆撃といったディテールも過去を忠実になぞっているだろう。しかし今日、この小説を単なる過去の物語として読むことは難しい。例えば最初の章に父とともに避難民の雑踏の中をパリから逃れるマリー=ロールの姿が描かれる。私たちはそこにウクライナから東ヨーロッパへ、ガザ北部から南部へ着のみ着のまま逃れる人々の群れを重ねてしまうだろう。あるいは爆弾が直撃しないことを祈りながら廃墟の中に身を潜めるサン・マロの住人からは天井のない牢獄と呼ばれるガザの住人たちの今日の生がたやすく連想される。小説の描写からはナチスによってユダヤ人が連行される様子がおぼろげに浮かび上がる。今日においてもユダヤ人たちは人質としてガザへと連行されたが、その代償としてパレスチナ人たちは文字通りホロコーストの危機に脅かされている。本書の中では戦火の下にあって弱者、例えば盲人や孤児がいかなる運命をたどったかが語られる。もちろん小説としての潤色はあろう。しかしこれは私たちの物語であることもたやすく了解される。2016年に発表された本書は第二次大戦をめぐる美しい物語として完結しているが、それから10年もしないうちに私たちはいつまでも終了しそうにない残虐な戦争の連続を体験している。一体その中に何人のマリー=ロールとヴェルナーがいるのだろうか。自らの無力を感じつつ、今こそ読まれるべき小説であろう。


# by gravity97 | 2024-03-01 05:32 | 海外文学 | Comments(0)

「シュルレアリスムと日本」_b0138838_22094970.jpg
 今年は1924年にアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してからサントネールにあたる。まだ海外での大きな周年展の話は聞かないが、日本では京都を立ち上がりとして「シュルレアリスムと日本」が開催されている。京都展は閉幕したが、今後板橋と三重を巡回する予定だ。まずは京都会場の展示に足を運ぶ。

 シュルレアリスムを扱った展覧会は数多いが、日本におけるシュルレアリスムを主題としたそれはあまり例がない。直ちに思い浮かぶのは1990年に名古屋市美術館で単館開催された「日本のシュールレアリスム」だ。あれからもう34年が経つ。名古屋の展示は大規模な内容であったが、なぜか印象が薄い。カタログを確認して少し納得する。名古屋での展示は網羅的な内容であり、カタログも展覧会カタログというより資料集成といった印象だ。カタログを参照しても図版が小さいため、どの作品が出品されてしたか特定できない。(私の手元にはカタログとは別の出品作品リストが残されている。リストはカタログに収録されているからなぜ重複しているのであろうか)シュルレアリスムを扱うのであれば、美術のみならず文学や映画といった多様なジャンルにも配視する必要があることは理解されるが、網羅的に紹介されてはメリハリに欠ける。これに対して序章から六章までに分類され、それぞれの章ごとに興味深い多くのテーマが設定されたこの展覧会は「日本のシュルレアリスム」という大きなテーマを理解するうえでわかりやすい。「シュルレアリスムはいたるところにある。それは亡霊であり、光まばゆい強迫となったのだ」と説いたのは1954年のモーリス・ブランショであるが、さらにその70年後、この展覧会を見て私はあらためて同様の感慨を抱いた。

「シュルレアリスムと日本」_b0138838_22095742.jpg シュルレアリスムはフランスの詩人たちが主導した運動であったから展覧会の最初に「シュルレアリスム宣言」を含むいくつかの文学的な主題が導入されたことは必然であろう。そもそも「シュルレアリスム宣言」自体が散文詩「溶ける魚」の序文として構想されたのではなかったか。したがって最初にそれが西脇順三郎を導き手として詩の領域に導入されたことに不思議はないし、フランスで発祥した運動がイギリス文学を専門とする研究者の手によって日本に伝えられたことは、この運動が本来的に国際性を獲得していたことを暗示している。

 今回の展覧会では作品を前面に示しながら、基本的に時系列によってシュルレアリスムの受容が検証されていてわかりやすく、私自身も多くの発見があった。1924年に宣言というかたちで提起されたシュルレアリスムの日本の美術界への導入は1929年の二科展に出品された古賀春江や東郷青児の作品を嚆矢とするらしい。いずれもよく知られた作品であるが、どの程度ブルトンの思想を背景として発想さているかは微妙だ。続く「衝撃から展開へ」と題されたセクションにおいては1932年に全国を巡回された「巴里新興美術展」の中でシュルレアリスムが初めて作品を通して日本に紹介された影響が論じられる。フランス側の関係者の一人がブルトンであったため、エルンスト、タンギー、ミロ、デ・キリコ、マッソンといった多くのシュルレアリスム絵画が紹介されたが、タイトルから推測されるとおり、シュルレアリスムは立体派、新自然派、新野獣派などと並列され、ワン・オブ・ゼムのかたちで紹介されている。展覧会が全国巡回したためであろうか、このセクションでは吉原治良と石丸一、さらに三岸好太郎、飯田操郎といったシュルレアリスムとしてはむしろ周縁的な画家が取り上げられている。いずれも比較的短期間、シュルレアリスムに関わり、もしくは早世した画家が多いため、残された作品はさほど多くない。ただし彼らと「巴里新興美術展」に直接の関係があったか否かは微妙であるし、この点は今後も研究の余地がある。今回、興味深く確認した作品として吉原や井上覚造らによる《妙屍体》がある。吉原旧蔵で制作年不詳、現在大阪中之島美術館に収蔵されているこの連作はタイトルから明らかなとおり、ブルトンらの実験《美妙な屍体》を応用したものであり、いずれも紙を折り返して複数の作家がイメージを描きこんだ集団遊戯である。私はこのドローイングを初めて見たが、おそらく吉原のアトリエ旧蔵の資料調査を通して発見されたこの作品はこれまで公開されたことがあっただろうか。制作年不詳とはいえ、かかる実験が画家たちによって普通になされていたからもシュルレアリスム受容の広がりをうかがうことができる。同様の実験としては、以前何の展覧会で見たのであったか、北脇昇が主導して京都の画家たちによって制作された集団制作「浦島物語」がある。これは全体として一個の作品ではなく、連歌のごとくほかの別の作品に触発されながら、それぞれが一枚の作品を描いて全体をかたちづくる絵画の連作であったと記憶する。「美妙な屍体」の拡大版とも呼ぶべきこの怪作も本展に加えられてよかったのではなかろうか。今回の展覧会を通して、ことにシュルレアリスムに関しては各地にさまざまのグループが成立したことを知ったが、飯田も関わった「飾画」なる集団について私は初めて知った。作品の質はさほど高くないが、30年代中盤にこのような実験が各地で展開されていたとするならば、その広がりには驚く。

 「拡張するシュルレアリスム」と題された第三章において福沢一郎と瀧口修造という二人のキーパーソンが登場する。作家と理論家として日本におけるシュルレアリスムを推進した二人は後に治安維持法違反の疑いで検挙、拘留されることになるが、両者はともに本場のシュルレアリスム絵画と作家を積極的に紹介し、シュルレアリスムに関心をもつ若手やグループを育成することになる。山中散生の協力を得て1937年に日本各地で開催された「海外超現実主義作品展」は400点もの作品が展示され、前年のロンドンでの展示に続くシュルレアリスム国際展であった。資料展としての側面が強い展示であったらしいが、多くの美術雑誌が特集し、一般の観客にも強く訴えかけたという。ダリを紹介したという意味でも大きな意義があり、大阪展の会場写真に吉原の顔が見えるから、先の《妙屍体》はそこに展示された《美妙な屍体》の影響を受けて制作されたと考えて間違いはないだろう。日本のシュルレアリスムを代表する作家たちが次々に登場するセクションである。私が驚いたのは比較的知られることのない作家の作品にエルンストやマン・レイなど私でもイメージの原型を直ちに同定できる作品がいくつも含まれていたことである。この点はおそらく雑誌を介して同時代の先端的なイメージを日本に紹介するシステムがすでに確立されていたことを意味する。イメージの受容という点に関して日本のシュルレアリスムには極めて特徴的な構図上の共通性が認められる。地平線の導入だ。明らかにダリの影響とみられる地平線によって画面が分割される構造については、かつて東京国立近代美術館で「地平線の夢」という展覧会で詳細に紹介、分析されたことを記憶している。本展でも第二セクションから第四セクション、すなわち日本のシュルレアリスムの代表的な作例の多くにこの構図がみられる。地平線が描き込まれたプラトー構造はいくつかの意味を内包する。日本で地平線を見通せる土地は少ないから、これらの作品は「植民地」であった満州のヴィジョンと関わっており、当然、日中戦争と深い関係がある。同時にかかる構図は一種の書割的な構図、すなわち一つの舞台とそこで上演される演劇という意味を内包している。日本の近現代美術におけるシアトリカリティの問題は植民地という政治、ダリという作家を巻き込んでこれから検討されるべき多くの問題をはらんでいる。

 「シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで」と題された四番目のセクションもまた興味深い多くの問題を提起する。多様な作家が紹介されているが、靉光の《眼のある風景》をシュルレアリスム絵画とみなすかという問題はともかく、そこに並べられた作家は多くが私にとって初めて名を聞く作家であった。この点は本展の見どころというか、関係者が各地で活動した「シュルレアリスト」たちを博捜した結果といえよう。それは端的にシュルレアリスムの日本各地への広がりを暗示しており、これに関連して名古屋と九州におけるシュルレアリスムの広がりを論じたカタログ論文も示唆に富む。今回のカタログは論文とは別に多くの項目立てによる事項解説が付されており、様々なトピックや各地の美術運動について手短にまとめられている。初めて知る事柄も多く、このような編集はシュルレアリスムについて知るうえでおおいに役に立つ。項目主義というか事典的というか、そういえばシュルレアリスムは「シュルレアリスム簡約事典」をはじめ、事典との親和性が高い気がする。このあたりはシュルレアリスムとは微妙な関係にあったバタイユに依拠しながらロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアが企画した「アンフォルム」のカタログのABC順、事典的な構成などとも関連させて考えてみたい問題ではある。

90年の名古屋での展覧会に際しては会場のあいさつで日本のシュルレアリスムが「パリ以外で展開された最も豊かなシュルレアリスム」であると謳われており、当時はいささか大げさかとも思ったのであるが、なるほど今振り返るに、私たちは例えばアメリカのシュルレアリスム、イギリスのシュルレアリスムといった運動や作家を明確に連想することができない。これは例えばキュビスムが多用なヴァリエーションを生み出しながらパリから周縁へと広がっていったこと私たちはその過程を例えば今年西洋美術館で開かれたポンピドーセンター所蔵作品による「キュビスム」展、あるいはかつての「アジアのキュビスム」といった国際展で知ることができる-に対して、受容の異常な偏りをみせている。一体シュルレアリスムの何が極東の画家たちを魅惑したのであろうか、あらためて感じたのはここに展示された作品があまりにも多様であるということだ。確かに今挙げた地平線やプラトー構造、ダリ的な有機的形態などいくつかの共通するモティーフを指摘することは不可能ではない。しかし多くの絵画が国内ではなくむしろ海外に類例をもち、北脇昇の「図式絵画」にいたってはシュルレアリスムとの関係を説くことさえ難しい。日本のシュルレアリスムは相互に影響を与え合うことなく、いわば海外の新動向、斬新なヴィジョンの借用競争の感がある。逆説的ではあるが、この展覧会を通して日本におけるシュルレアリスムの共通性を指摘することの困難が浮かび上がってくるように感じられた。

時代の背景があるとはいえ、弾圧によって終息した点も日本のシュルレアリスムの特性だ。先に「巴里新興美術展」に関連して触れたとおり、当時日本にはシュルレアリスムのみならず多数の「新興美術」が導入されていた。なぜシュルレアリスムのみが弾圧され、検挙者を出したのであろうか。知られているとおり、パリのシュルレアリスムは共産主義と関係を結んだが、日本においては瀧口、福沢にさえ政治性は認められない。私はシュルレアリスムの急激な浸透が当局に不安を与えたのではないかと考える。ファシズムは明晰と合理性を好む。ナチス・ドイツにおいては前衛芸術全般が敵視され、「退廃芸術展」という前例のない展覧会として結実したのに対して、日本ではシュルレアリスムのみが攻撃の対象とされた。不安な時代の中で地域や美術団体の垣根を超えてシュルレアリスムという不穏で不合理な力が勃興する状況は軍部にとって一つの危機とみなされたのかもしれない。一方で大陸の風景や戦闘を暗示するモティーフが彼らの絵画の中に巧妙に取り入れられていることを知るならば、軍部がシュルレアリスム絵画のどこに危険を見出したのかも興味深い問題だ。カタログの帯に「シュルレアリスムは終わらないっ!」という惹句が掲載されている。ブランショの「光まばゆい強迫」を想起してもよいだろう。弾圧の後もシュルレアリスムは続く。展覧会では写真とシュルレアリスムに一瞥を加えた後、「戦後のシュルレアリスム」というセクションで岡本太郎や山下菊二が紹介される。彼らをシュルレアリスムとみなすかについては議論の余地があるが、これもまたリアリズム論争などと関連させてさらに深めてみたい問題である。あらためて日本におけるシュルレアリスムの短くも豊かな成果に触れ、新たな発見と疑問が次々に湧き出る展示であった。


# by gravity97 | 2024-02-21 22:13 | 展覧会 | Comments(0)

エリック・マコーマック『ミステリウム』_b0138838_20422597.jpg エリック・マコーマックの小説についてレヴューするのは『雲』以来、二冊目となる。正直に言うならば、本書について論じることには若干の躊躇があった。それというのも、この綺想の小説はまことに怪作と呼ぶにふさわしく、『雲』と比べても完成度はさほど高くないように感じられたからだ。ちなみに本書の原著は1992年に発表され、『雲』は2014年に発表されている。もっともこれは本書と『雲』の間で作者の文学的熟練があったという意味ではない。ともに一種の奇譚であり、説話の作法はよく似ている。私はそれにポスト・モダンという言葉を与えてもよいのではないかと考える。

 私の考えではポスト・モダンの文学とは次のような特質を兼ね備えている。物語を統括する語り手は存在しない。しばしば複数の審級の異なったテクストの集積として成立する。テクスト間に優劣は存在しない。中心となるストーリーは存在しない。ジャン=フランソワ・リオタールが「大きな物語の終焉」と呼んだ事態である。しかしかかるネガティヴな集積として成立する小説としては何があるだろうか。このブログで論じた小説を思い返してもラテンアメリカ文学のいくつかの作例を除いて、実はさほど思いつかない。もちろん私がそのような小説を選択的に読まなかった可能性は高い。しかしそれにしても例えば演劇や美術の領域ではかかる構造を伴った作品をいくつも思いつくのに対して、小説においてこのような例が少ないことは、小説が本質において「大きな物語」を欲していることを暗示しているかもしれない。さらにこの問題を敷衍するならば、モダニストたる私は19世紀的な「大きな物語」の形式に自覚的であり、これに対してメタ的な構造をもつモダニズム文学、ジョイス、プルーストからフォークナーにいたるそれを愛好するが、一方でポスト・モダン文学は「大きな物語」をいわば内容において無効化するとはいえないだろうか。形式に介入するメタ・ノベルが知的な洗練を必要とするのに対して、単純にテクストを集積させるポスト・モダンの手法はむしろ幼稚で洗練されていない。しかしその幼稚さもまた一つの魅力たりうることをマコーマックの小説は示しているし、この点については後で論じるとおり、『雲』の訳者である柴田元幸も本書に収録された短いエッセイの中で触れている。

 さて『ミステリウム』だ。最初にカバーに印刷された程度に本書のストーリーについて触れることにしよう。といってもポスト・モダン文学特有の入れ子構造について触れない訳にはいかない。一人称の語り手は最初に自己紹介をする。地方新聞、ヴォイス紙でまだ見習い記者をしていた頃の「私」、ジェイムズ・マックスウェルが最初の語り手であり、マックスウェルはある晩餐会で知り合った行政官ブレアから小包を受け取り、中に入っている文書に目を通したうえで、ブレアが滞在するキャリックの街を訪ねることを要請される。続いてマックスウェルが受け取った文書がそのまま読者に提示される。ここまでの箇所で読者にはいくつかの情報が与えられる。まず「まだ見習い記者をしていた頃の私」と記されている以上、おそらく後続する章のいずれかにおいて、「現在の私」が語り手として再帰するであろうことが予想され、目的地、キャリックについても若干のインフォメーションが記されている、キャリックの町では何かの疫病ないし災厄が発生しているはずであるが、土地からのニュースが途絶しているため、何が起きているか誰も知らないというのだ。なかなか魅力的な導入ではないか。何が起こっているのかわからないままに滅びゆく街というテーマから私が連想したのはキングの「呪われた町」であり、全体のアンキャニーな雰囲気からはラブクラフトなども容易に連想される。しかし読み進むにつれて、ホラーやミステリーのサスペンスとしての感興は宙吊りにされ、むしろ削がれていくのだ。

 マックスウェルが渡された文書の書き手はキャリックに住む薬剤師、ロバート・エイケンという男だ。キャリックという土地について記しておくならば、この町は島の北部に位置するじめじめとした炭鉱町であり、端的にマコーマックが生まれたスコットランドを連想させる。そういえば『雲』の主要な舞台の一つもスコットランドのダンケアンという炭鉱町と名指しされていた。エイケンの手記の体裁をとった最初のテクストにおいて早くもマコーマックお得意の不気味な物語が語られる。すなわち「水文学者」(原語は何だろう)を名乗るカークという「植民地男」の到来を契機としてキャリックの町で不吉な事件が次々に発生する。記念碑や墓地が破壊され、図書館の本は劇薬で毀損される。続いて兎が、そして羊が、謎の大量死を始める。そしてついに町の人々までも次々に謎の死を遂げ始める。街全体が巨大な死の影に覆われるのである。派遣された警察や軍隊もこの超常現象を前に拱手するしかない。ホッグ保安官とエイケンはカークがこの事件に関与しているとみなし、彼を尾行し、不審な挙動を監視する。しかしカークも謎の死を遂げ、逆にエイケンがブレアから一連の殺人の実行犯として告発されるという意外な展開によって最初の章は幕を下ろす。

 ブレアの依頼を受けてマックスウェルはキャリックに旅立つ。信頼しているマックスウェルに対してであれば真実を話すとエイケンが約束したからだ。マックスウェルは事件現場を調査し、多くの関係者に対して尋問を行う。彼らの供述調書が無数のテクストとして堆積し、本書のポスト・モダン的な錯乱を形成する訳である。その過程でおそらくこれらの謎と深く関わる過去の二つの事件が浮かび上がってくる。それは戦時中に渡河中の兵士たちが橋の破壊工作に巻き込まれて死亡した事件、そしてキャリックの捕虜収容所に収容され、市民たちとも交流していた敵国の捕虜たちが炭鉱での採掘作業中に水没事故によって多数死亡した事件である。このように書くと、これらのサブストーリーの間になんらかの脈絡が見つかることが予感されようが、この期待は裏切られる。個々の供述書(それらにはすべて「テープから文章に起こし、要約したのはこの私、ジェイムズ・マックスウェルである」という但し書きが付されている)は断片的であって、決して相互に整合するものではない。さらに興味深いのは、突然死の先駆症状であろうか、彼らの供述というか言葉はしばしば混濁する。ある者は異様に饒舌になり、ある者は逆向きに意味のない言葉を話す(原文に則すならば例えば me see and come to you of nice といった感じだ。逆に読めば意味がとおる)ある者は突然、下品な罵倒語を会話にちりばめる。そういえば『雲』の中にも住民たちが息も絶えるまでしゃべり続けて死んでいくという奇病が蔓延するエピソードがあった。関係者の奇妙な供述書はあたかも逸脱する語りのショーケースのようだ。明らかにこの小説の隠されたモティーフは言語的混乱であり、ブレア行政官が唐突に語る犯罪理論の講義の断章がこれと深く関わる。すなわちフレデリック・ド・ノシュールなる学者の「一般犯罪学講義」の解読が開陳され、そこでは犯罪が恣意的な体系であることが証明され、クリミニフィアン、クリミニフィエ、クリーミュといった概念が導入される。それぞれ、フェルディナン・ド・ソシュール、「一般言語学講義」、シニフィアン、シニフィエ。シーニュのパロディであることは一目瞭然であり、さらにロマン・ヤコブソンやジャック・デリダを模した人物の学説さえ紹介されるのだ。一体これは何であろうか。巻末に収録されたエッセイの中で柴田元幸も次のように呆れている。


この後、小説はふたたび町の人々と歴史の記述に戻り、犯罪学の話は二度と出てこない。いったいこの講釈は何だったんだ、と首をかしげる読者もいそうである。まあ一応、町の人々が死ぬ前にかかるのがどれも言語に関する病ではあるから、まったく無関係な話ではないとも言えそうだが、やはりこの部分が全体の流れに奉仕しているという印象は薄い。


 この後、柴田はマコーマックの作品の特徴を「部分が全体に奉仕しないとまでは言わないが、部分がその異様さにおいてまず自らを主張する」ことに求める。『雲』においてはなおも一人称の私が全体を統べており、奇矯な半生の記録としてかろうじてその全体性が保持されていたが、大半が供述書の集積として成立する本書はさらに断片性が強く、柴田もいうとおり、断片=部分は全体に回収されることがない。柴田はこのような特質を「座りの悪さの良さ」という言葉で示し、エッセイのタイトルとしているが、まさに「座りの悪さ」をいかにとらえるかという点が本書、そしてマコーマックの小説の評価に関わっているだろう。

 タイトルの「ミステリウム」についても「ある単語についてのブレア行政官の短い講義」と題された文字起こしの中で説明がある。それによればミステリウムとは古いラテン語であり、さらに古いギリシア語に由来する。それは古典時代、独占的に新入会員だけが参加できる秘密の宗教儀礼を意味しており、さらに中世ではギルドの神秘劇を意味することとなるとともに今日のミステリーの語源であるという。これもとってつけたような断章であり、語られたきり、物語の全体にとりたてて関与することはない。

 部分が全体に奉仕して一貫した壮大な物語をかたちづくる19世紀的な小説、語ることの形式が意識され、時にメタ・ノベル的な企みが施されたモダニズム小説、私たちが馴染んできたこれら二つの類型に対して、マコーマックの小説は第三の可能性を示唆する。その評価については意見が分かれるところであろうし、私も現時点では確信的な判断からは遠い。マコーマックには『雲』と本書以外に二冊の翻訳、そして未訳の小説が二冊あるらしいが、今後、私が残りの作品を手にするかどうかは微妙だ。

なお、作家は惜しくも昨年の春に84歳で逝去したとのことである。


# by gravity97 | 2024-02-08 20:44 | 海外文学 | Comments(0)

早瀬 耕『未必のマクベス』_b0138838_21245293.jpg
 これまでこのブログでは300冊を超える書籍、エンターテインメントのカテゴリだけでも40冊を超える小説を紹介してきたが、本日紹介するこの小説の印象は別格だ。人生の後半に10年前に発表されたこのような小説に出会うことができるのだから読書はやめられない。年頭から早くも今年のベストという感じられる読書体験を楽しむ。

 すでに24刷を数え、以前より書店の店頭で平積みされているのを見ていたから、それなりに話題になり、売れている小説であることは間違いない。北上次郎が絶賛した書評の全文が帯に掲載されているからかなり具体的に内容について知ることもできるが、今回は内容に立ち入ることはなるべく控えたい。これほど面白い小説はなるべく白紙の状態で読んでいただきたいからだ。とはいえ、新しい読者にとってもおそらく知っておいた方がよいいくつかのインフォメ―ションを中心にいささか突っ込みの甘いレヴューを残すこととする。

 私が本書を手に取るまでに少々時間がかかった理由はタイトルに由来する。「未必のマクベス」とは一体何のことか。未必という言葉がわかりにくい。ちなみに広辞苑で確認してみても、未必という言葉は掲載されていない。代わりに「未必の故意」という項目があり、「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと認めて、行為する心理状態。故意の一種」という定義が示されている。実際に私も知る限り「未必」という言葉が単独で使用される例はない。常に「未必の故意」というフレーズとして用いられているように感じる。タイトルの意味を推測するためにはむしろ表紙に記された英語訳を参照することが有益だ。実際に本書が英訳されているかについては手元に情報がないが、「Unconscious Macbeth」、無意識のマクベスとは本書の内容をみごとに暗示している。

早瀬 耕『未必のマクベス』_b0138838_21243977.jpg 「無意識のマクベス」であるから、本書においてはシェークスピアの「マクベス」が本歌取りされることが予想されるし、実際にあらかじめその梗概を知っておいた方が物語の展開を楽しめる。シェークスピアの四大悲劇の一つ、「マクベス」とはいかなる物語か。スコットランド王、ダンカンに寵愛される野心家の家臣マクベスは荒野で三人の魔女たちから、自身がまもなく王となることを予言される。実際に戦功によってコーダの王となったマクベスはさらなる権力を求めて、妻と共謀してダンカンを弑してスコットランド王の王座を奪う。さらにこの事情を知る盟友バンクォーに対しては暗殺者を放って殺害する。しかしこれらの凶行を重ねたためにマクベスは自分の手が血に塗れているという悪夢から逃れることができず、マクベス夫人も夢遊病に苦しむ。再び魔女たちのもとを訪れたマクベスに対して、三人の魔女は敵が女の生み落とした者である限り、そしてバーナムの森が動かぬ限り、彼が滅びることはないと告げる。魔女たちの言葉に力を得たマクベスはやはり彼によって妻と子を殺され、復讐の鬼と化したマクダフとの対決に向かう。

本ブログの読者であれば「マクベス」程度はすでに読んだことがあろうが、仔細まで確認する必要はない。私でさえ固有名詞を除いて記憶していたこの程度のストーリーを念頭に置く時、本書をより楽しめるはずだ。とはいえ、この小説は徹底的に現代的な内容へと改変されている。小説は語り手である「ぼく」が親友である伴とともにバンコクから香港に向かうフライトの場面から始まる。時に語り手の高校時代が追憶され、過去からもたらされた手紙が重要な役割を果たす場面もあるとはいえ、舞台とされる時代は特定されている。冒頭で香港政府が2009年に飲食店を全面禁煙にしたというエピソードが記され、エピローグには東日本大震災が触れられているから、本書は時間としては2010年前後の数年間、場所としても香港を中心に澳門(マカオ)、バンコク、台北、東京といった東南アジアの大都市に限定されている。(ちなみに本書は2014年に刊行され、2017年の文庫化にあたって若干の改稿があったとのことだ)

「旅って何だろう? と考える。」という一文で始まる本書は、旅をめぐる物語と考えることもできよう。それは文字通り東南アジア各地と日本をめまぐるしく移動する語り手、IT系企業の若く有能な経営者、中井優一の現実における移動であり、一方では高校時代を起点として親友と恋人とともにたどる人生の行程でもある。冒頭で香港に向かうはずであった中井は空港のトラブルのために、澳門での一泊を余儀なくされる。伴とともに投宿したホテル内のカジノに向かった中井は奇妙な老女に導かれるかのようにして予想外の大金を手に入れる。そしてホテル内に出入りしている娼婦たちの一人から中井は、彼がまもなく王となって旅に出ること、そして王として旅を続けなければならないという謎めいた予言を受ける。ここでも旅というモティーフが重ねられる訳だ。娼婦の言葉がマクベスにおける魔女の予言を反復していることは直ちに理解されようし、王位に就くという予言の内容も同一である。現代における王位とは何か、中井はまもなく勤務するJプロトコルという会社の子会社、Jプロトコル香港に伴とともに出向し、代表取締役の辞令を受ける。現代のマクベスは国王ならぬ企業に奉仕するから、この小説は一種の企業小説と読めなくもない。実際にやり手秘書との掛け合い、クライアントとの腹の探り合い、ビジネスランチにフライトの予約、ここには今日のIT企業に勤務するビジネスエリートの日常が記されている。私が本書からまず連想したのはブレット・イーストン・エリスの問題作「アメリカン・サイコ」だ。エリスの小説では1980年代のニューヨーク、資本主義の爛熟を生きるエリートのスノビズムと残虐きわまりないサディズムが唐突に結合され、衝撃的であった。本書においても読み進めるにつれて、中井をめぐる世界が暴力とは無縁でないことが次第に明らかになる。ニューヨークならぬ東南アジア各地の超高級ホテルを転々として、各地のスノッブなレストランではキューバ・リブレを片手に豪勢なディナーを繰り返す生活からは21世紀に更新された「アメリカン・サイコ」という印象を受けないでもない。

主要な登場人物と相互の関係は最初の100頁ほどで明らかになるから、ここで記しても読書の興趣を削ぐことはないだろう。中井は高校からの親友、伴とJプロトコルで偶然に再会し、上司と部下という関係になる。二人には鍋島冬香という共通の親友がおり、中井は鍋島に対して淡い恋心を抱いていたが、今、中井は同じ会社に務め、離婚歴のある年上の才媛、島田由記子をパートナーとしている。そして中井が澳門で偶然に出会ったカイザー・リーなる謎めいた老人と彼の秘書、さらにJプロトコル香港での中井の有能な秘書を務める森川と陳、これらが本書の主要な登場人物であるから、果たして中井はマクベスたりうるのか、ほかの登場人物はマクベスのどの人物に対応するかといった興味とともに読者はこの物語を読み進めることになるだろう。マクベス以外にもこの小説にはいくつかの隠されたテーマが存在する。暗号と復号もその一つだ。そもそもJPプロトコルの業務は交通系ICカードの情報の暗号化と復号化に関わっており、この物語全体が一つの暗号の提示とその解読、デコードの物語といえるかもしれない。言い換えるならば、一度暗号として隠されたものが解読されて再び現れること。いくつものエピソードとしてかかるプロセスが物語の中にちりばめられていることを読者は読み終えた時に了解する。あるいは二重性もそうだ。物語の中にはいくつかの二重性を帯びたモティーフが登場する。かつて蓮實重彦も日本の1980年代後半の小説の多くに双子もしくは双称性という構造が共有されていた点を指摘した。しかしこの小説にあって、時に相称性は対立している。この時、私たちは「マクベス」の冒頭で荒野に集う魔女たちの「きれいは穢い、穢いはきれい」という言葉を連想すべきであろう。

それにしても驚くのはこのような文体を早瀬はどこから手に入れたのかという点だ。私もかなり多くの小説を読んできたつもりだが、このような文体はほかに思いつかない。先にも触れた北上がこの点をうまく表現しているのでそのまま引用する。


気持ちのいい文章だ。どこまでも滑らかで、どこか甘く、さらに懐かしさを秘めている。忘れていたことをどんどん思い出す。小説を読むということは文章を読むことなのだ、と改めて感じたりする。こういう小説はストーリーを紹介してもジャンルを分類してもさして意味がない。


さらに北上は本書を薦めるべき「中年男性」を次のようにも特定する。「高校時代にちょっと気になる女の子がいて、特になにがあったわけではないのだが、それからも折に触れて彼女を思い出す。あるいは企業の第一線で仕事をしながらも、特に将来を考えず、恋人がいても結婚を夢見ず、そして友人のいない中年男性」私がこのような属性にどの程度あてはまるかについてはひとまず措く。私が本書に魅かれたのは長い時を経た恋人同士の再会というテーマに深く期するところがあるからだ。私が本書を読んで連想したもう一つの小説はスティーヴン・キングの「アトランティスのこころ」であったが、両者の共通点も明らかだ。むろんかかるテーマは「オデュッセイア」以来、文学にとって一つのステレオタイプではあるが、私の琴線に触れる。加えて本書にはきわめて重要な意味をもつ一つのガジェットが登場する。イラストも添えられているからすぐにわかるだろう。積み木カレンダー(キューブ・カレンダー)。私はこの品物にも個人的な思い入れがあるため、ますますこの小説に没入してしまったのかもしれない。

今回は本ブログとしても例外的に、本書の内容についてはほとんど触れなかった。通常より分量も短く、内容もレヴューの体をなしていない点をお詫びしておく。それはいつものような訳知り顔の分析によって本書から受けた感銘に水を差すことを避けたいというunconscious が働いたのかもしれない。代わりにもう一度、北上による本書の書評を引用しておく。


読み始めるとやめられなくなる。これほど素晴らしい小説はそうあるものではない。単行本のときは売れなかったというのが信じがたい。それでも文庫にして多くの読者を掴んだというのが嬉しい。しかし私にいわせればまだ足りない。もっともっと売れていい。もっと広く読まれるべきだと思うのである。


# by gravity97 | 2024-01-26 21:27 | エンターテインメント | Comments(0)