一昨年、発売されてすぐに買い求めた記憶があるのだが、ずっと書棚に積んだままになっていた河出書房新社版、池澤夏樹編集の世界文学全集中の『短編コレクションⅠ』を先日ようやく通読した。私はどちらかというと長編読みであるし、同じ作者ならばともかく世界中から集められた作家たちの短編アンソロジーはとりかかるまでのハードルが高かった。しかし一度読み始めると予想以上に面白く、数日のうちに読了してしまった。全集中、短編コレクションは二巻に分かれている。『短編コレクションⅡ』が20世紀のヨーロッパ文学から選ばれているのに対して、本書は地域としては南北アメリカ、日本も含めたアジア、アフリカ、アラブから作品が選ばれている。本書の書き手の方が新鮮であることはいうまでもない。収録された20の短編のうち、私がこれまでに読んだことのある短編はわずかに3編、全く初見の作家が5人いた。日本語に初めて訳された短編は4編であるから、大半の作品はすでに翻訳が存在しているとはいえ、これほど広い地域にわたる作家たちの小説に目をとおすことは困難であり、やはりプロの読み手として池澤の面目躍如といえるのではなかろうか。池澤と問題意識が似ているためか、私好みの作品が多い。本全集に収録された長編のいくつかについても既にこのブログで応接しているが、この短編集も十分に楽しむことができた。
ハルキ・ムラカミが毎年ノーベル文学賞の受賞候補の常連として取りざたされる理由は小説の内容以前に、それらが英語に翻訳されているという単純な事情に依っている。絵画や音楽とは異なり、言語に基盤を置く芸術は言葉や国家という壁を越えることが難しい。私たちはプルーストやドストエフスキーの大長編であれば(読破するかはともかく)たやすく手に入れることができるが、ナイジェリアやレバノンの作家の小説はたとえ英語で書かれていたとしても生涯のうちにいくつ読むことがあるだろうか。翻訳という作業が介在することを考えるならば、これらの国の小説に関して、私たちは長編より短編の方が接近しやすい。本書に収められた作家の中にはレイモンド・カーヴァーのように短編のみによって知られる作家もいるが、張愛玲やトニ・モリソンのごとく短編にもかかわらず長編の風格をもち、それゆえ長編を読みたいという誘惑に駆られる作家もいる。本書はあまりなじみのない国の作品を中心とした現代文学のショーケースとして、きわめて有意義な短編集といえよう。
多様な国籍の多様な作品が収められており、レヴューは容易ではないが、いくつか所感を記しておこう。最初に述べたとおり、本書には非ヨーロッパ圏の現代文学が収められており、日本と中国を別にすれば、アングロアメリカと第三世界の小説が中心と考えてよいだろう。この対照はなかなか興味深い。この短編集には7編のアメリカの作家の作品が収められているが、その大半はポスト・モダン風というか、実験的な手法が用いている。具体的にはドナルド・バーセルミ、ジョン・バース、リチャード・ブローティガンらの作品は内容以前に手法の前衛性に特徴がある。フォークナーに始まるアメリカのモダニズム文学の末裔といってよかろう。総じて短く印象が薄い。これに対してそれ以外の地域の作品は多くがその内容、つまりなんとしても小説として表現したいテーマが存在し、主題の切実さに満ちている。従って排水設備を古今の名詩に置き換えるという奇抜なアイデアのみによって一編の短編を構成したブローティガン(ただしこの作品はブローティガンの中でも特異な例であろうが)の作品と炎熱の中でユダヤ人兵士がパレスチナ人にふるう暴虐と凄惨な応酬を描いたガッサン・カナファーニの短編をそれぞれ両端に置くならば、前衛とレアリズム、形式性と主題性を指標としてここに収められた作品群をこの間に配置することが可能であろう。主題性の強い作品に共通するのは抑圧された生とそれへの抵抗というテーマである。今挙げたカナファーニや金達寿、高行健が1950年前後のパレスチナ、冷戦下の韓国、文化大革命時の中国における政治的抑圧をそれぞれの角度から作品化するのに対して、「肉の家」のユースフ・イドリースと「猫の首を刎ねる」のガーダ・アル=サンマーンはアラブ世界における女性と性の抑圧を鮮烈な表現として提示する。いずれもこれらの小説を読むことなくして、私たちはこのような不正義が存在することを知らなかっただろう。それは端的に第三世界に関して私たちが情報を得ることが少ないことに起因する。今なおこのような主題に連なる表現が成立することに私は苦い感慨がある。文学とはなおも虐げられる者の手の中にあるのだ。先般、私は高橋源一郎の『恋する原発』を読了した。この小説については別に論じる機会もあるだろうが、今まさに私たちが体験しつつある不正義、原子力災害が日本の文学者によって総括される日は来るのであろうか。
むろん小説の主題は抑圧された生だけではない。同じ第三世界でもアラブやアフリカに比して圧倒的に多くの作品が日本語に翻訳されているラテン・アメリカからはフリオ・コルタサル、オクタビオ・パス、フオン・ルルフォの三人の作家の作品が紹介されている。ルルフォのみ私にとって初めて読む作家であった。巻頭のコルタサル、「南部高速道路」は以前、岩波文庫に収録されていた短編集で読んだことがある。パリ郊外の高速道路の渋滞の中で神話的な共同体が形成され、渋滞が解消されるとともに終焉するという内容は現実と幻想、現代と神話が混交するラテン・アメリカの作家ならではの幻想譚である。私はコルタサルとカルロス・フェンテスは現在でも指折りの短編の名手だと考えるが、その才能を遺憾なく発揮したこの短編は本書の劈頭にふさわしい。あるいはカナダの酷寒の中で少年と犬をめぐる悲劇的な逸話を一人称で語るアリステア・マクラウドの「冬の犬」も清冽な読後感を残す佳品である。悲劇という点でいうならば、レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど役に立つこと」は完成度という点でこの短編集の白眉ではなかろうか。私は以前からカーヴァーの短編はいくつか読んでいたが、この作品は未読であった。誕生日に交通事故に遭った少年の両親を主人公として、彼らを取り巻く人々の感情の機微をとらえたこの作品は最後の場面における和解が深い余韻を残す傑作である。
最初に私はこの短編集をショーケースに喩えた。収録作品を選ぶ際に池澤が日本人である私たちにとって未知の生、未知の感情と深く関わる作品を選んだことは明らかである。池澤自身が次のように語っている。「ぼくは世界が多様であることを証明したいと思い、せいいっぱい手を広げてさまざまな短編をいくつもの国と言語から集めた。むずかしかったのはこの2巻に収まるところまで厳選することだった」収められた短編の中では特に二つの作品がこのような多様性と関わっている。トニ・モリソンの「レシタティフ―叙唱」は最初、孤児院で出会った二人の女の子がそれぞれに厳しい環境で成長する中で何度か出会い、交感する様子を描いた短編である。時に反発し、時に共感しあう二人の女性の姿が生き生きとした訳文をとおして描かれる。二人の肌の色が違うことは直ちに明らかとなるのだが、この小説のポイントはトワイラとロバータという二人の主人公がどの人種に属すのかということが最後まで明らかにされない点である。つまり私たちはトワイラであるかもしれずロバ―タであるかもしれない。人種という与件を超えて人は人として他者と交流しうることが暗示されている。この小説はモリスンが公刊した唯一の短編であるということだが、人種問題を主題としたいくつもの長編を発表してきた作家がここに込めたメッセージは明らかであろう。もう一篇、トロントでトルコやオランダといった雑多な国からの留学生が暮らす寄宿舎での顛末を描いたマーガレット・アトウッドの「ダンシング・ガールズ」は本短編集の理念をそのまま小説とした感がある。主人公のアンをめぐって家主のノーラン夫人や下宿人たちが引き起こす騒動は一種のスラップスティックといった趣があるが、他者を理解し、受け容れるとはどのようなことかという問題と関わっている。都市計画を学び、来るべき都市のデザインを夢想するアンは物語の最後で、いかなる人種や国籍をも排除しないユートピアの美しいイメージを抱く。本書に収められた物語をとおして人と人が赦しあうことの絶望的なまでの困難さと政治や性差に由来する多くの抑圧を知り、個人的悲劇とつかのまの和解に触れた後、ここに記されたイメージは一つの癒しのように感じられた。
沖縄出身の目取真俊の「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」という短編が最後を飾る。日本に居住する作家から二篇、在日朝鮮人の金達寿が日本語で書いた李承晩政権下の韓国の物語と、一人の女性が自らの生を沖縄のダイアレクトによって語るこの小説を選んだ点に池澤の批評的な意図は明らかだ。日本語を用いながらも、この二篇の短編は国家と国語に異和を唱える。具体的には金の用いる漢字と仮名が入り混じったたどたどしい表記、目取真の多くルビで表記される(それは小説のタイトルに既に明らかだ)沖縄の方言は「正統な」日本語を意志的に逸脱するのだ。目取真に戻ろう。ガジマルの樹上から少女に向かって一人語りされる女性の半生、語り手の苦難はたやすく沖縄という地域の受苦のメタファーであることが理解される。文中で暗示される沖縄海洋博における皇太子への襲撃事件は桐山襲の『聖なる夜聖なる穴』を連想させた。哀切を帯びた物語であるが、語りは勁い。物語の幻想的な奥行きともあいまって、まつろわぬことへの強い意志がうかがえ、それはここに収められた作品の多くの通奏低音をかたちづくっている。
「原子力ムラはなぜ生まれたのか」というサブタイトルを付した『「フクシマ」論』を読む。タイムリーな著作とも感じられようが、本書は3・11以前、2011年1月14日に東京大学大学院に修士論文として提出され、2月22日に受理されている。したがって刊行時に追加された最後の補章以外には今回の原子力災害に触れた文章はないし、社会学系の学術論文であるからさほど面白い内容でもない。次に述べるとおり、形式的にやや問題も感じられもするが、やはり今読むべき研究であろう。ひとまずレヴューを記す。元々の論文名は「戦後成長のエネルギー―原子力ムラの歴史社会学」であったらしい。福島出身の開沼にとって原子力発電所の問題がかねてより身近に感じられたことは想像に難くない。タイトルからは明確でないが、実はこの論文の主題は原子力やエネルギー問題というより、明治期から今日にいたる中央と地方の関係であり、この問題を考える一つの手掛かりとして原子力発電の問題が取り上げられた。ところで原子力発電所、そして今回の原子力災害に関しては豊かな中央(都市、端的に東京と言い換えてもよい)の享楽的な生活に必要な電力を供給するために貧しい地方が原子力発電所の設置を強いられ、その結果、原子力災害の犠牲となったというステレオタイプの言説が存在する。開沼はこのような立場に与しない。冒頭で開沼は「原子力ムラ」と〈原子力ムラ〉という区別を提唱する。前者は原子力発電所を受け入れる地域の共同体を指し、後者は今日広く流通する政官財学が一体となって原子力発電を推進しようとするシンジケートとしての呼称である。そして今日の原発の立地や増加が単に後者の思惑によるばかりでなく、前者からの積極的な働きかけがあった点が検証される。ところが、おそらく本書を刊行するために追加されたであろう「『フクシマ』を語るまえに」と題された冒頭の章でわざわざ区別と概念提起がなされながらも、本文の中では括弧なしの原子力ムラという表記で論述が進められるため、著者の意図がはっきりしない。さらに本書が3・11以前に書き上げられた内容に加筆されて成立している以上、それぞれの章がどの時点で執筆されたかという問題も重要であるはずなのだが、「補章」(このタイトルからして、論文に対する時間的位置が不明だ)において、1月に提出した修士論文に「導入部の追加や全体にわたり最低限の加筆修正をほどこした」というきわめてあいまいな表記で異同が暗示されるのみである。アクチュアルな問題と切り結ぶ社会学の研究として問題があるのではなかろうか。
形式的な問題について批判したが、内容としてはそれなりにていねいな研究であり、教えられることも多かった。最初に方法論が提起された後、まず原子力発電所をめぐって、「原子力ムラ」の現在が粗描される。冒頭に「原子力ムラ」と〈原子力ムラ〉という区別を提起しながらも、本論では前者の検討が中心となっている。原子力の専門家でない筆者がフィールドワークによって議論を深化させる以上、当然であろうし、先の批判に戻るなら、本書で論じられる括弧なしの原子力ムラは多くが「原子力ムラ」の意味で用いられている。震災と原子力災害以来、私たちにもすっかりおなじみとなった大熊町、双葉町といった原子力発電所の立地自治体をめぐるそれなりに興味深い事実が指摘される。たとえば駅の売店で売られている「原子力最中」やアトムの名を冠した様々の施設、あるいは今日事故対策の拠点として名高いJヴィレッジが東京電力の肝煎りで建設された巨大なサッカー用施設であり、マリーゼなる女子サッカーチームが「郷土の誇り」として存在するといった事実は原子力をめぐる一つの文化圏が形成されつつあることを示している。この点を開沼はジョン・ダワーが敗戦後の日本に対して適用した「抱擁」という概念で説明する。ネガティヴな存在である原子力発電所を福島の「原子力ムラ」は「抱擁」し、能動性の契機と転じるのである。一方で否定性としての原子力もまたこれらの町には徴されている。すなわち「原発ジプシー」と呼ばれる流動労働者と発電所の危険性は徹底的に隠蔽され、反対運動の存在ゆえに地元懐柔のための金が現地に落とされるという理由で、反対派が推進派から応援されるという倒錯が語られる。
続いて開沼は福島の「原子力ムラ」の成立を歴史的に検証する。先に述べたとおり、「日本のチベット」と呼ばれた貧しい地域であるからこそ原子力発電所が誘致されたという通説は今日も流布しているが、むろんそこにはこのような単純な因果論では説明できない複雑な力が働いている。開沼は「中央」と「ムラ」の間に介在する「地方」に着目しながら分析を進める。「地方」の重要なアクターは例えば知事であり、福島県の歴代の知事がどのように原子力発電所と関わったかという点がていねいに検証される。興味深いことにはこの時、必ずしも中央に服従する地方という図式は通用しない。むしろ反中央という立場から原子力発電所が選び取られたこと、国会議員や有力政治家を巻き込んで常磐炭田以来のエネルギー立県として地域を振興しようとする地元の意識が認められ、さらに開沼が多くのインタビューを重ねた民選6代の知事である佐藤栄佐久は原子力発電所の安全性をめぐって、国や東京電力と熾烈な闘争を続けたことが明らかとなる。提起される問題は多いが、私が関心をもったのは反対運動の先頭に立っていた指導者がある時期から原子力発電所を推進する立場に転じるという転向の問題だ。本書では反対運動の住民代表から原子力発電所の増設運動さえも公言する推進派の町長へと不可解な転身を遂げた双葉町の町長、岩本忠夫の事例が検証されている。ここで開沼は原子力発電所をめぐる二価コードが推進/反対というそれから愛郷/非愛郷へと転じることによって、転向を容易にしたという注目すべき指摘を行っている。岩本の二つの言葉が残されている。一方は反対運動の中で東京電力の社員に伝えた「あんたたちは、いずれはここからいなくなるからいい。だが我々は一生この双葉地方で生きていかなくてはならない。子供や孫の代を考えれば、一層、不安をかきたてられる」という言葉であり、もう一つは町長としての最後の任期に残した次の言葉だ。「私はどんなことがあっても原子力発電の推進だけは信じていきたい。それだけは崩してはいけないと思っています。それを私自身の誇りにしています。そこは東京電力も国もわかってくれとよく申し上げているのです。決して私どもの泣き言ではなく、原子力にかける想い、それが私の70歳半ば担った人生のすべてみたいな感じをしているものですから」この二つの言葉の間にある落差、そして3・11以後の苛酷な現実を思う時、私は言葉がない。さらに本書では触れられていない事実を一つ記しておこう。岩本は原子力災害後、「避難先」の福島市で7月に亡くなっている。私は鎌田慧の文章の中でこのことを知った。生まれた土地、そして子や孫を思って反対運動に身を投じ、一転して原子力発電への奉仕を人生の全てとまで言い切った岩本が人生の最期を原子力発電所から避難した先でどのような思いとともに過ごしたか。岩本が抱いた絶望は想像するにあまりある。このように一人の人間の人生を全く無意味なものへと変えてしまう非人間性が私は原子力発電所の本質だと考える。岩本の転向の一つの理由は長女が東京電力の社員と結婚したことであったという。政略結婚の陰謀とまでは考えたくない。しかし本書を読むならば、全てを金で解決しようとする東京電力という企業によっていかに地域住民のモラルが荒廃したかという点は容易に理解される。例えば福島県の市町村について一人あたりの分配所得格差を示した図が掲載されている。これを見るならば、原子力発電所が立地する沿岸地区が本来貧しい地域であるにもかかわらず、ある時期より異様に所得が増え、近年再び逓減する状況がみてとれる。いうまでもなくこれは立地にともなう交付金等の収入によるものであり、この状況が単に福島のみならず日本全国でも看取される点は、やはり本書中に掲載された市町村別の財政力指数上位30自治体の表を見ても明らかだ。観光地や自動車産業はともかく上位の大半を原子力発電所が立地する市町村が占めていることに私はあらためて驚いた。電力会社が地元住民の懐柔のために湯水のごとく資金を投入し(いうまでもなく私たちが支払う電気料金が形を変えたものだ)、先に触れたJヴィレッジのごとく、それらの市町村にとって過大な施設が次々に建設される。原子力発電所は計画から建設時には多くの労働力を必要とし、莫大な資金を地域にもたらす。出稼ぎに頼っていた人々が雇用を得て、あるいはアメリカからジェネラル・エレクトリック社の社員とその家族が移住してしばらくの間作業に従事する。安定した雇用と地方でありながら、最先端の技術に浴しているというプライドが地域にもたらされたことは当時の証言からもうかがえる。しかしそれもつかのま、次第に地域に投下される資金は減り、電力会社のいうままに新しい関連施設の建設を続けなければ、地域の経済自体が維持できないという状況が明らかになっていく。以前より指摘されていたことであるが、原子力発電という営みは一度始めたら決してやめることができないという意味で麻薬に喩えられる。開沼もこのような機制をaddict、つまり中毒ないし依存症という言葉を用いて分析している。開沼の議論は原子力発電所に対して中立であるが、それが本質的に反社会的な施設であり広範な人心の荒廃をもたらすことは行間から明確に浮かび上がる。
第Ⅰ部の前提、第Ⅱ部の分析に基づいて、第Ⅲ部の考察では再び議論が一般化、抽象化され、原子力発電所をとおして明らかになった中央と地方の関係の変化が総括される。開沼は三つのフェイズを提起する。まず明治から第二次世界大戦へといたる時期、日本は植民地を獲得していたため、地方においては官選知事による中央の支配と地方の権力構造が併存しえた(外へのコロナイゼーション)。しかし敗戦によって植民地を失うことにより、地方が外地を代替することとなり、新たな中央集権体制が確立されていく(内へのコロナイゼーション)。原子力発電所という忌まわしい施設が地方という新たな外地に導入され、そこで生産された電力を中央が享受するという図式はこのような状況を象徴している。開沼の見立てではこのような状況は経済成長を背景に1995年頃まで続く。最後に1995年以後、経済の停滞と新自由主義の台頭をメルクマールとして地方と中央の関係は転機を迎える。地方に変わってムラが直接に中央に対して、「自動的、自発的に」服従し、権力に対して貢献する。(自動化、自発化されたコロナイゼーション)つまり今日においてはもはや「地方」という媒介者をもたずとも「原子力ムラ」は中央へ隷属するという自らの役割を内面化したのである。コロナイゼーションという言葉が多用され、しばしばガヤトリ・スピヴァクが引用されることからも推測されるとおり、本書の問題意識はポスト・コロニアリズムと深く結びついている。私はこれらの主題について深い知識をもたないので、開沼の議論の妥当性についての判断は今は措く。しかしこのような三つのフェイズを考える時、植民地を前提とした戦前は論外としても、中央と地方がイコールパートナー(本書の中にあるとおり、この言葉は佐藤栄佐久がしばしば掲げた理念である)として拮抗しうる可能性があった95年以前と、もはやパートナーとしての地方さえ存在せず、中央に対して自動的に服従する「ムラ」が一方的に収奪される95年以降の状況(収奪の効率性は新自由主義という名で美化される)のいずれになおも救いがあるかは明らかであろう。小泉「改革」と新自由主義の進展の中で地方がかつてないほど疲弊し、ただ中央に奉仕するための「ムラ」に分断された地域社会が壊滅的に破壊される状況に本書は新しい角度から光を当てているように感じられる。
考えてもみるがよい。あれほどの惨事を引き起こし、原子力災害のために10万人近い人々が今なお流亡し、無数の家庭が引き裂かれながらも、今日にいたるまで東京電力はもちろん、〈原子力ムラ〉の政治家、官僚、学者の誰一人として責任をとっていないのだ。なぜこのようなことが許されるのであろうか。確かに原子力発電所自体は春には全基が停止する可能性がある。しかし事故の直後には当然の帰結と考えられた原子力発電所の全面廃止への道筋は全く立っておらず、隙があれば何事もなかったかのように原子力発電所は息を吹き返すだろう。村上龍ではないが、この国には希望がない。学術的な論文でありながら、あらためて暗澹たる思いとともにこの本を閉じた。
『存在論的、郵便的』を携えての東浩紀の登場は衝撃的であった。1998年のことである。以前より『批評空間』に連載されていた論考に親しんでいたとはいえ、全面的に改稿されて上梓されたデリダ論は実に斬新で、新しい世代の登場を強く印象づけた。その後も私は東の著述を比較的熱心に読み継いだが、『動物化するポスト・モダン』にはさほど感心しなかったし、インターネット上のふるまいやSF小説を発表するなどの多角的な活動が伝えられるにつれ、むしろ興味が薄れ、近年の「思想地図」に関連する仕事はほとんどフォローしていなかった。しかし今回、久しぶりに本書を通読して私はあらためて「思想家」としての東の資質に感心した。帯にも掲げられた冒頭の文章がよい。「筆者はこれから夢を語ろうと思う。それは未来社会についての夢だ。わたしたちがこれからさき、21世紀に、22世紀に作るであろう社会についての夢だ」ただし本書ではこの前に序文が置かれ、本書刊行時(2011年11月)においては本書で論じられる内容に大きな留保が必要となったことが記されている。いうまでもなくそれは東日本大震災と原子力災害がこのような楽天的な夢を語ることを不可能にしたということだ。基本的に私も東の立場に賛成するが、本書で論じられたフレームワークは3・11の前後を問わず真剣に検証されてよいと考える、
デリダ論の際にも感じたことであるが、東の文章の魅力は明晰さにある。本書の内容もきわめてわかりやすい。東の主張は簡単に要約できる。例えば序章の冒頭に記された次のような一文だ。「筆者は民主主義の理念は、情報社会の現実のうえで新しいものへとアップデートできるし、またそうするべきだと主張する」タイトルの「一般意志 2.0」という言葉が新鮮だ。「一般意志」とはジャック・ルソーが『社会契約論』の中で提起した奇妙な概念であり、これまでどちらかといえば否定的に論及されてきたという。ソルジェニーツィンに関する論文でデビューし、デリダやインターネットについて論じてきた東から突然にルソーの名が発されたことに奇異の念も感じたが、本書を読むならばその論旨は説得的だ。東はルソーに倣って、一般意志を私的な利害の総和である全体意思と区別し、それが個々の意志の和の単純な和ではなく差異の和であると論を進める。このあたりの議論は要約するより直接本書を読んだ方がわかりやすいだろう。東はルソーが提起した「一般意志」を評価し、それが特に現在の私たちにとって有効な理由は近年の情報技術の発展によってきわめて具体的な議論の中に再定義可能となったからであると説く。そしてルソーが提起した本来の「一般意志1.0」に対して、それをアップデートした「一般意志2.0」という概念を提出する。それは具体的にはグーグルやツイッターの技術によって私たちの意志や欲求が可視化されることによって実現される民主主義の可能性である。続いて東は可視化された私たちの内面の反映をフロイトの無意識と関連づける。東はグーグルの検索アルゴリズム、あるいは検索語を入力する際にその語と一緒に検索される可能性の高い言葉を表示するサービスがフロイトのいう無意識と類縁性をもつ点を指摘する。このあたりの議論はかなり強引な感じもあり、ルソーあるいはフロイトの専門家からは批判があるだろうが、いうまでもなく本論はルソー研究やフロイト研究ではないし、私自身はこのようなアクロバティックな思考の展開にむしろ強く興味をそそられた。東はルソーやフロイトの思想に最新の情報技術との親和性を認めるとともに、逆に技術の進歩によって限界が明らかになった理念として、アーレントやハバーマスが重視したコミュニケーション行為、そして民主主義における熟議の必要性を指摘する。東が指摘するとおり、インターネットの掲示板上のひたすら攻撃的な言説の増幅、あるいはこの数年の日本の政治の混迷をみるならば、議論を尽くしてその結果としてなんらかの建設的合意を求めるという手法は今日きわめて困難に感じられる。私もそれを否定しないし、ポスト・モダンを特徴づける「大きな物語」の喪失はこのような状況を準備するものであったかもしれない。ただし私はやはり東の主張には危惧を抱かざるをえない。私の理解によればハバーマスらの主張は社会的合意がきわめて困難であるにせよ、それは対話を通して、つまり言語を介して形成されるというものだ。これに対して東のいう「一般意志2.0」は機械的に集積されたデータこそが新しい民主主義の基盤であるという主張だ。もちろん東も専門的な政治家や官僚といった選良たちが「一般意志2.0」を十分に意識しながら政策決定を行うことを理想としており、データに全てを預けることを提唱している訳ではない。しかし可視化された「民意」はたやすくポピュリズムに転じるのではなかろうか。例えばナチス政権下のドイツでユダヤ人の処遇に対して「一般意志2.0」を問うたとしよう。今日、多くの歴史学者が検証したとおり、決してヒットラーとナチスは強引に自らの主張を推進した訳ではない。閉塞感に駆られた多くのドイツ国民の集団的無意識(1930年代ドイツにおいては「可視化」されえなかった「一般意志2.0」)が存在したからこそ、このような歴史的蛮行が黙認されたのではないか。これに対抗しうる立場があるとすればそれはデータの集積ではなく、熟議であり、なによりも言葉ではなかっただろうか。
東は次のようにも記す。「わたしたちはいまや、ある人間がいつどこでなにを欲し、なにを行ったのか、本人が記憶を失っていても環境の方が記録している、そのような時代に生き始めている。実際、現代社会はすでに、本人の記憶ではなく、記録のほうをこそ頼りに、ひとが評価され、雇用され、時には裁かれる事例に満ち始めてはいないだろうか」世界の非人間化に対する東の見立ては鋭い。私が記録を残すのではなく、記録として実現される私という発想には、言語を操るのではなく言語の中に挿入される人間という構造主義的思考が文字通り「アップデート」されたヴァージョンをみることができよう。記録が実存に優先する社会はSFの主題としてはかねてより描かれていたが、東が指摘するとおり、それはいままさに現実化しつつある。一人の人間の生がすべて記録された社会、記録によって一つの人格が閲覧される社会、しかし実はそこには抗しがたい魅力も存在するのではないだろうか。例えば私がこの数年、このブログを書き継ぎ、日々接する様々な表現に対して批評的な言説を書き連ねてきた一つの目的が、自らの言葉によって私という人格を記録したいというライフログ的な欲求であったことを私は否定しない。さらに付け加えるならば、私は何を読んだ、何を食べた、どこへ行ったといった機械的なデータの集積ではなく、何を考えたかによって自らを記録するために言葉による批評を自らに課してきたつもりだ。
この点からも理解されるとおり、本書に対する私の思いはいささかアンヴィバレンツだ。東はかかる総記録社会が必ずしも監視社会を意味しないと述べ、プライヴァシーに関する私たちの感性そのものが変容を遂げつつあると指摘する。私は必ずしも東に同意できない。総記録社会の本質として東が記述する「自由な市民が、名も知れぬ民間企業が創設したいかなる正統性もないサービスに、自発的に、時には国境すら超えて雪崩を打って個人情報やプライヴァシーを委ねる現象」とは人々が「自発的に」一個の記録機械に奉仕する世界ではないだろうか。これを東は来るべき民主主義のエンジンたる「一般意志2.0」と呼んだ。かかる状況から私はむしろこのブログでも取り上げたギュンター・アンダースの「世界が機械となる」という不吉な予言を連想する。しかしまた一方、寺山修司であっただろうか、正確な表現は覚えていないが、「TVを批判する者は、批判した程度のTVしか享受できない」といった意味の言葉も思い出す。グーグルを批判することはたやすいが、グーグルという驚くべきシステムが差し出す果実の恩恵を拒んで社会的生を営むことができるだろうか。今日検索という技術と無関係に生活することはありえない。私たちの務めはそれを受け入れ、機械に奉仕するのではなく、いかに機械を操るかを考えることかもしれないと思いも拭えない。
「一般意志2.0」がユートピアにつながるか、ディストピアへの道であるかについてはひとまず措くこととしよう。東は本書で「未来の夢」を語ろうとする。ペシミズムに毒された現在にあって、議論の内容はともかく、東の姿勢に私は強い共感を覚えるのだ。東の言葉はあまりにもナイーヴに感じられもしよう。しかし今、一体誰が「夢」や「民主主義の向上」といった話題を正面から言挙げするだろうか。思想とは人に希望をあたえるものであってほしい。東は序文の中で震災と原子力災害を経験した現在の私たちにとって、語るべきもっと別のことがあるのではないかと問うた。実際に被災地にも出向いた東であるから発することが可能な重い言葉であることを私は十分に理解する。しかし逆に災厄を経験した今であるからこそ、後悔や断罪ではなく、希望とともに未来を語る言葉があってよいのではないだろうか。

榎は最初、JAPAN KOBE ZERO の一員として活動していたが、今回の展覧会では榎がこのグループを脱退した後の個人的な活動のほぼ全貌が紹介されている。榎の衝撃的なデビューとして記憶される作品は、1979年、当時の兵庫県立近代美術館における「アート・ナウ 79」に出品した実物大の大砲模型であったから、今回の個展がこの美術館の後身とも呼ぶべき会場で開かれたことは当然かもしれないが、後述するとおり、榎が美術館に照準を合わせた大砲によって活動の端緒に就いたことの意味は象徴的である。
榎の多様な活動の中で今回の個展の中心となっているのは多く鉄を用いたきわめて即物的で重量のある作品である。それらは大きく二つに分けられる。一つは時に鋳型まで用いて成型された、明確な形状と意味をもつ作品である。それらが暗示する大砲、カラシニコフ自動小銃、そして薬莢といった装置や部品が兵器というモティーフをかたちづくることはいうまでもない。ずいぶん昔に神戸でギャラリー一面に薬莢をぶちまけた作品を見た際、作家のコメントとして「これらの品は人を殺すために製造され、それ以外の目的をもっていない」といった言葉が掲示されていたように記憶する。私たち一般の市民が現物を目にする機会がほとんどない現在の日本でそれなりに美的なこれらの形態にかかるコノテーションを認めることは難しい気もするが、実際には使用できないこれら兵器のフェイクは攻撃性と滑稽さという榎の作品の多くを通底する特質をたたえている。もう一つの系列は金属の廃材にほとんど手を加えることなく提示した一連の作品である。手を加えることなくというのは、(研磨や選別を別とすれば)作家自身の手が入っていないということであり、実際の廃材には想像を絶する力が作用した痕跡が残されている。例えば「ギロチン・シャー」と題された一群の鉄材は鋼鉄をまさにギロチンにかけるかのようにシャーリング、つまり物理的に裁断した廃材であり、このような形に変形するまでに驚くべき負荷がかけられたことが暗示されている。あるいはサラマンダー、火トカゲと題された一連の作品は溶鉱炉から流れ出た鉄をそのまま提示したような形状であり、この場合は非常な高温が鉄を変形させたことは明白だ。私は前者からはかすかにジョン・チェンバレンを、後者からはあからさまにリンダ・ベングリスの作品を連想してしまうが、彼らがそのような加工自体に大きな意味を見出しているのに対して、榎はそのような形に変形した後の廃材そのものの形状や質感に魅せられたのではないだろうか。特に今回、私にとって初見であった「ブルーム」という作品は溶鉱炉から取り出された直後の鉄の状態を示しており、有機的にさえ感じられる上部の開口部(私は映画「エイリアン」のモンスターの卵を連想した)はタイトルのとおり花の開く様子、さらにエロチックな含意をはらんでいる。いずれも鉄という素材の加工について熟知した榎でなければ発見することができなかった思いがけなくも魅力的な廃材の表情である。会場で上映されていたヴィデオに廃品の選別場の中で作業するおそらくは榎の姿が映っていた。榎は強力な磁界を発生する機械を操作して、床一面に広げられた廃材の山の中から磁力によって空き缶など鉄製の廃物を選別し、別の場所へと移す。私は以前、同じ作業所を訪れて榎がこの機械を操作する様子を見たことがある。このヴィデオ作品の驚くべき点は、そこに映し出される情景が作業の工程の一部、機械的な手順であり、一切の芸術的、創造的な創意を欠いている点である。このヴィデオを見て私はダンプカーに満載した液状のアスファルトを斜面に注ぐ模様を記録したロバート・スミッソンのヴィデオを連想した。両者に共通するのは、今述べたとおり、そこに再現されるのが一つの手続きの遂行であって芸術的契機を全く欠いている点である。しかし一つの手続きを厳密に遂行することが一つの作品の本質を構成することを私たちはソル・ルウィットから学ばなかっただろうか。さらに廃墟や廃材(立入規制区域と「がれき」と言ってしまえば今の私たちにはあまりにも生々しすぎる)への関心もまたスミッソンに共有されていた。近年榎が取り組んでいる《RPM》も円形の機械部品を塔状に積み上げたものであり、大都会の摩天楼のシルエットを連想させないでもない。あまりに美的であるという批判もありえようが、各々の部品が一切接合されることなく、単に積み重ねられることによって構成されていると知れば、作品は一転して不穏で非永続的な印象を与える。絵画的な配置の是非については議論の余地があろうが、今回の展示のハイライトであることは明らかだ。
ところで私は榎の作品のもう一つの系譜についてまだ一言も論じていない。いうまでもなく、それは榎の名を広く世に知らしめ、日本では類例の少ない一連のボディ・アート、具体的には「ハンガリー国に半刈で行く」とBAR ROSE CHUをめぐる作品である。体毛というほとんど先例のない表現媒体を用い、あるいはトランス・ジェンダーを主題としたきわめて早い時期の作品として知られるこれらの作品が本展で周縁的な位置しか与えられなかった理由ははっきりしている。それらは美術館という場に馴染まないのである。前者は演劇や刑罰といった特殊な機会ではなく、片側の体毛を全て剃った異形の身体が日常の中に出現してこそ意味をもつのであり(実際に榎はハンガリーから帰国後も5年近くこの状態で生活した)、後者についても神戸東門街に女装した榎が無料で酒をふるまうバーが、一夜だけ予告なしに出現することに意味がある。実際にはBAR ROSE CHUの開店は関係者に予告されていたようであるが、いつか榎とBAR ROSE CHUについて話した際、榎は偶然入ったバーで(女装した)セクシーなママから酒をふるまわれ、翌日行ってみると店もママも存在しないという一夜の夢を実現することが目的であったと語っていた。この意味でこのパフォーマンスは美術館の外で一度だけ挙行されることに意味がある。その後、キリンプラザ大阪での個展と神戸ビエンナーレの際にもローズ・チューは現れたが、いずれも過去の確認以上の意味はもちえなかったように感じる。
このほか榎には分譲地の地面を掘削する作品や閉店した喫茶店に奇怪な生命体のような立体を配置した作品など、いくつものサイト・スペシフィックな作品が存在する。これらの作品も本展覧会ではカタログで瞥見される以上の扱いを受けることがなかったことは作品の特質を考える時、特に不思議ではないが、この展覧会に「美術館を野生化する」というサブタイトルが付されていることを勘案するに、この展覧会が美術館で開催されたことの意味は微妙に感じられる。やや辛辣に述べるならば、この展覧会は美術館を野生化するどころか、ひとまず美術館に収容可能な対策をひとまず並べて「榎忠展」の名を冠したという印象が拭いきれないのだ。なるほど展示された作品の総重量は恐るべきものであり、美術館、学芸員の苦労は十分に理解することができる。しかしそれにしても本展覧会がことさらにサブタイトルで美術館における展示であることを強調するほどの工夫があるようには思えない。それは重量物を大量に運び入れた苦労に対して用いられたかもしれないが、美術館という制度にはなんら批判を迫る内容ではない。年譜を参照するならば1994年のことであるが、私は今回も出品された「ギロチン・シャー」がおそらく初めて発表された際に展示を見た記憶がある。作品が置かれたのはJR神戸駅の高架下であり、暗く殺伐とした空間に置かれた無残な鉄塊の印象はなんとも鮮烈であった。同じ作品が美術館の中に設置された時、それはいかにも作品然として(なんと彫刻台の上に置かれた例もあった)迫力に欠ける。さらにいえば、これらの作品を東北で大きな震災があった同じ年に神戸という街で展示することに新たな意味を見出すことも不可能ではなかったはずだ。それらは本来美術館という箱の中に鎮座するにはあまりに獰猛な存在ではなかったか。
1979年の展示で大砲の照準を美術館(正確には当時の学芸員執務室)に合わせたことが示すとおり、榎の作品には美術館を含めた美術を巡る制度への批判が内在していた。しかし今回の展示においてこのような批判は、担当学芸員のテクストのタイトルではないが、うまく「飼い慣らされた」気がする。榎忠という強烈な作家を「飼いならして」でも美術館の中に誘い込むべきか、それとも外で放し飼いにすべきか。その判断は難しく、私が知らない事情も多くあるだろう。美術館と作品の関係を再考する機会を与え、今年見た展覧会の中でも強く印象に残る優れた内容であっただけにあえていくつかの批判を加えた。
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